みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

悪者と決めつける

2021年10月30日 | ヨブ記

ヨブ記 20章

 31日は「ルターの宗教改革記念日」、今年は日曜日ですね。しかし、当地でもハロウィンに押されぎみ。4年前の「ルター500年」の盛り上がりがうそのようです。しかし、大切な一日として覚え続けます。

 3人目の友人ツォハルの二度目のことばもヨブに刃のように突き刺さります。2節で彼は、自分がヨブのことばを受け切れずに苛立っていること、心が焦っていることを明かしています。ツォハルは自分が侮辱されていると思っているのです。

 ですから、自分をそんな目に会わせるヨブは、彼にとっては悪者なのです。人はそれぞれに、自分の考えを持っています。それを誰かとの対話の中で伝えた時に、相手が同意しなかったとしたら、あるいは反対の考えを明らかにしたら、冷静でいられなくなる人は少なくありません。自分の考えをもっと強い調子で主張して、正当性を訴えるのです。

 5節に目が留まります。ツォファルは、悪しき者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみは束の間だと語ります。そして、「彼」という代名詞を繰り返し用いて、悪しき者がどのような道をたどるのかを展開していきます。彼はここで「あなた」と言いません。落ち着いた一対一の対話を避けて、まるで一般論のように悪しき者の行く末を語るのですが、これは明らかにヨブのことです。

 自分の考えにうなずかない頑固者、自分のせっかくのことばに反発して自分を侮辱する者であると決めつけたツォファルは、もはやヨブと冷静に対話する心を失ってしまったのです。

 他人事ではありません。


私を贖う方は生きておられ…

2021年10月29日 | ヨブ記

ヨブ記 19章

 あるご夫婦が訪ねて来られて一緒に夕食をいただきました。たくさんで食べるのはとてもおいしくいただけますね。会話は大切なおかず、調味料だと思いました。

 本章は、はじめに友への批判、次に神への告発と続きます。ちょっと読むと、ヨブが自分のやりきれない思いを友と神に当たり散らしているように響きますが、そうなのでしょうか。

 ヨブが直面するのは、自分の思いが伝わらないという事実です。信頼してきた友は何度も自分を辱め、いじめているというのがヨブの思いです。また、ここに至ってもなお神の答えはなく、自分が神との関係において正しいとしてさばきを行われることはありません。

 ヨブに限らず、人にとって大切なのは関係です。人との関係、神との関係がうまくいかないとしたら、どんなに大きなストレスなのだろうかと、ヨブのいらだちのことばから考えています。

 そのヨブはこの章で大きな転換を経験します。つながらない、通じないというもどかしさの中で、彼は、自分と神との間をつなぐ仲裁者への確信を次第に深めてきたのですが、ここに至って、「私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれる」との確信を持つようになります。

 ここでヨブは「贖い主」をどのような意味で用いているのでしょうか。それは八方ふさがりの彼の傍らに立って、彼を支え、彼を救い出してくれる存在です。しかしその贖い主は、自分と同じ誰かではなくて、神の側にいる誰かであるはずだとヨブは考えています。それは、「私を贖う方は生きておられ…」ということばによります。

 「私を贖う方は生きておられ…」と私が口にする時、その方はナザレの人イエス、十字架にかかられたキリストであることを指しているのは言うまでもありません。


理解せよ..

2021年10月28日 | ヨブ記

ヨブ記 18章

 久しぶりに近くの大きな公園を歩きました。カサッカサッと落ち葉を踏みながらの道は足に優しい感じがします。

 ビルダデの二度目の語りかけはヨブの心に優しくは届きません。いや、ヨブを激しく攻撃しているかのようです。2節の「いつになったら」(別訳で「いつまで」)が目に留まります。「けりをつける」「まず理解せよ」ということばとともに、ビルダデのヨブへのいら立ちが伝わってくきます。

 「理解せよ、それから話し合おうではないか」などということばは、会話がかみ合わない時にどちらからともなく口にするように思います。相手を自分の下に置きたい、自分の考えのほうが勝っているという思いの表れです。

 3節からはビルダデが、ヨブのことばによって自分のプライドが傷つけられたと感じていることがわかります。「あなたがた」とヨブを呼ぶ時に複数形を用いているのは、彼がヨブを自分が考える神を敬わない不敬虔な者たちと同じだと見ているからです。

 そして5節以降は、ほかの二人と同じようにビルダデがヨブの苦難を罪の結果、神の罰だと考えているいることに基づいて話が展開されていきます。しかし、ヨブの苦しみはそこではありません。ヨブは、家族や財産を失い、自分の肉体的な苦痛の中にあって、主のしもべとしての自分と神との関係について苦しんでいるのです。

 しかし、友人たちはそのようなヨブの心のうちを思うことをしないで、通り一遍の応報思想によってヨブの苦難を片づけようとするのです。ですから、「理解せよ」はあまりにも乱暴な一言です。


望みはどこに

2021年10月27日 | ヨブ記

ヨブ記 17章

 ご近所に教会の案内を配っているのですが、思っていたよりもたくさんの日本人の方が住んでおられることに驚いています。

 17章はエリファズへのヨブのことば。しかし、昨日も書いたように、神の祈りであったり、ヨブの独白であったり、友へのことばであったりします。それはつまり、ヨブの心が千々に乱れているということでもあるのです。友のことばを、納得しないままに、「そうだね」「友よ、きみの言うとおりだ」と受け入れてしまうならば、彼は自分自身をこのように追い込むことはなかったとも考えます。しかし、彼にとってそれは「できない相談」なのです。

 だれかの心の奥底を的確に探り当てることのできる人はいません、神お一人のほかは…。しかし神はあまりにも偉大すぎて、自分ではとても一対一で太刀打ちはできないともヨブは考えています。そこで彼の心に芽生え育ってきたのは「私を保証してくれる方」の存在です。

 5節の「分け前を得るために友の告げ口をする者」ということばに目が留まります。きょうの「みことばの光」が取り上げているように、これはイエスを裏切ったユダの姿を思わせます。ヨブはもちろん、自分の心に厳しいことばを突き刺してくる友のことを述べているのでしょうが、彼がことばがメシアの受難、苦しみについての預言ではないだろうかとも考えられます。ヨブの孤独、ヨブの恐れは、人としてこの世界に来て、人の罪のさばきを一人で引き受けられたメシア、ナザレの人イエスの孤独や恐れに通じるのです。

 12節は、私たちが自分に言い聞かせ、また辛い中にいる誰かに届けたくなることばの一つ。しかし、人はそのようなことばさえはねつけてしまうような闇の中に置かれることがあるということにも気づかされます。それでも、そんな時にでも望みはある、のです。


私の証人

2021年10月26日 | ヨブ記

ヨブ記 16章

 公園にある林檎の木の下で、落ちた林檎を拾っている方がいました。ケーキに用いるのでしょうか。確かにその林檎はほど良い酸味がありおいしいケーキの材料になるかもしれません。

 エリファズの2度目のことばにヨブが答えます。ヨブにとって今は三人の友は「人をみじめにする慰め手」なのです。聖書協会共同訳聖書はここを「慰めるふりをして苦しめる」と訳します。

 慰め手としてヨブのところに来た三人のことばがヨブをみじめにし、また苦しめているのです。昨日の本欄でも書きましたが、人を思って語ることばが相手の反応次第で攻撃的になるということがあるのです。それはヨブの友人への厳しいことばについても言えることだと思います。

 本章は、友人へのことば、神へのことば(祈り)、そして独白から成っています。考えてみると、私がいつも口にするのはこの三つです。友人に厳しいことばを語るヨブは、神には自分が疲れ果ててしまったことを祈っています。そして彼は、友と神に対するありのままの思いを自分に言い聞かせるかのようです。

 しかし、この章の終りでヨブは、「私の証人」「私の保証人」が天にいると語ります。彼は、9章33節で「私たち二人(ヨブと神)の上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいません」と語りました。「いません」がここでは、「おられます」との確信へと変わります。友との対話によって孤独に追い込まれたことによるのでしょう。


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