みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

たましいに届く賛美

2023年12月25日 | クリスマス

ルカの福音書 2章1−21節

 クリスマスをお祝いいたします。私たちにとっての最上の喜びはこれだ! ということを今年は特に覚えています。

 ここを読むと、神がご自分の子をどこに、そして誰に託されたかということをいつも思います。メシアを胎に宿したマリアと夫は、それゆえの何の特権も行使することなく、力ある者たちの命令によって旅をさせられます。そして旅先で子を産んでも、この子がすべての人にとっての救い主であることゆえの優遇もされずに子は飼い葉おけに寝かせられました。

 羊飼いたちはメシアの誕生という驚くべき知らせを聞き、おびただしい数の天使たちの歴史的な賛美を聴くという特権を得ました。そしてここで天使たちが歌うのは、永遠に変わることのない神のみこころ。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように」ということばは、羊飼いたちのたましいに響きわたりました。彼らは生まれた幼子を探すことに躊躇することはありませんでした。

 土曜日に、マインツの韓国語教会での「クリスマスコンサート」に行きました。テーマは「グロリア」。まさに、天使たちが羊飼いたちに届けたメッセージでした。聴いているうちに感動で涙がこぼれ落ちます。なんという力強さ、なんという美しさ。それは、聖歌隊も演奏者もキリスト者だから、ということに気づきました。コンサートの終わりに、司会者がドイツ語でヨハネの福音書3章16節を読もうとしましたが、胸がいっぱいで声になりません。聴く側も……。神への賛美が聴く者の心を動かすのです。

 そのような感動が「この出来事を見届けて来よう」という行動へと進ませます。そして彼らは幼子に最初に会うという特権に与りました。このさらなる感動が彼らを次の行動へと導くのです。人々に知らせるという…。

 幸いなクリスマスをお過ごしになりますように。


口が開かれ、神をたたえる

2023年12月23日 | クリスマス

ルカの福音書 1章57−66節

 昨日は早朝に、尊敬する同労者の葬儀にオンラインで参列させていただきました。司式者は召された師から洗礼を受けた方。たましいを振り絞るように、詩篇23篇を告別説教として説いてくださいました。葬儀はわが身を省みる時でもあります。

 今日から25日まで、「みことばの光」ではクリスマスに関連のある聖書を読みます。今日はザカリヤとエリサベツ夫妻にヨハネが産まれたことが記されている箇所。 

 この老夫妻に子どもが与えられるという約束が与えられたことについては、同じ章の5−24節にあります。ザカリヤはその時以来子が産まれるまで口が聞けなくなります。長い間の沈黙の末に彼の口から出たのは神への賛美でした。産まれた子の名は、当時の慣習によるならば、父の名を継ぐことでした、あの特別な体験がなければ、二人ともその子の名前を「ザカリヤ」とすることに異議は当然ありません。率先してそのように名づけたことでしょう。

 しかし、エリサベツは「ヨハネ」としなければならないと言い張ります。慣例を破ろうとするのです。彼女は神の約束を信じること、命令を守ることを選び取りました。

 子の名を「ヨハネ」とするのは、それは神が夫ザカリヤに命じたこと。夫へのことばは妻にしっかりと伝えられていました。夫の口が利けないほぼ1年近くの間の夫妻の交わりは、これまでになく豊かなものではなかったかと想像するのです。

 書き板にザカリヤが「ヨハネ」と書いたその時、ザカリヤの口が開かれました。神が開いてくださった口から最初に出たのは神への賛美。二人の行動の一部始終を見ていた周囲の人々は神への恐れをいだいたと65節にあります。


動揺、そして礼拝へ

2022年12月24日 | クリスマス

マタイの福音書 2章1−11節

 当地では、24日昼過ぎから26日までほとんどの店がお休みなので、23日はたくさんの買い物客が街に…。私たちも近くのモールに行きましたが、普段は適度に空きがある駐車場もほぼいっぱいでした。きょうと明日、どのようにお過ごしになりますか。

 ベツレヘムに「ユダヤ人の王」として生まれた幼子は、ある人々を動揺させました。時のユダヤの王ヘロデ(ヘロデ大王)が最も心をかき乱した人であることに間違いはありません。イドマヤ(エドム)人ヘロデは、「ユダヤ人の王」ということばに動揺しました。また、ヘロデがどのような王なのかを知っていた、エルサレム中の人々も同じだったと、3節にあります。

 一方で東方の博士たちは、幼子のいるところまで行き、ひれ伏して礼拝しました。彼らの喜びはどれほどのものだったことでしょう。このことから、幼子イエスは、ユダヤ人だけでなくすべての人々の王であり、いや、礼拝するべきお方だということが明らかになります。

 本日は「動揺、そして礼拝へ」としました。動揺するエルサレムの人々の中に、やがて三博士のようにこのお方をメシアとして礼拝する人もいたのではないか、というのがクリスマスイブのきょう、私が想像して期待することです。

 読者の皆様、幸いなクリスマスをお迎えになりますように。


私たちの間に住む

2021年12月25日 | クリスマス

ヨハネの福音書 1章14−18節

 「聖なる夜」と呼ばれる24日、オンラインで賛美礼拝を持ちました。たくさんの讃美歌を歌い、クリスマスに関連した聖書を読むだけでしたが、幸いな1時間でした。最後の賛美は「馬槽の中に」。その前に歌う「羊はねむれり」とともに、日本人による讃美歌の傑作です。ことばと曲の間にかい離がなく自然に歌うことができると、いつも思いながら賛美しています。

 14節の「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」ということばは、何度読んでも感動します。神が約束されたメシア(救い主)は、ご自分の民として描かれているイスラエルの人々が期待したようにはおいでになりませんでした。

 ヨハネは「ことばは人となった」と書きます。神であるお方、この世界をお造りになった方が人となったのです。日曜日の「みことばの光」は、詩篇104篇を読みます。この詩篇では天地を創造された神の輝きがほめたたえられています。人がどれほど賛美してもし尽くすことのできない「尊厳と威光を身にまとっておられる」方が、人となられたというのはありえないこと。それは、私たちの間に住むためでした。

 人となって私たちの間に住んでくださった方と出会えなかったならば、私は今ごろ何をしていたのだろうかと、考えることがあります。あるいは、生き甲斐は何かと求めながらも得られないまま、老人になってしまったのかもしれません。「クリスマスおめでとう」という挨拶は、こんな者の間に住んでくださったことゆえの、自分への「おめでとう」なのではないでしょうか。

 クリスマスおめでとうございます。


まことの光

2021年12月24日 | クリスマス

ヨハネの福音書 1章6−13節

 「聖なる夜」をどのようにお過ごしになりますか。当地では家族が集まり一緒に食事をし、それから教会の礼拝に出かける人もいるようです。普段はそれほどでもない礼拝出席者がこのクリスマス時期には多くなるようです。私たちの教会はオンラインでの「賛美礼拝」、お借りしている教会では夜10時から外で礼拝を行います。私たちも予約していたのですが、ここ数日の寒さゆえにキャンセルしました。

 ヨハネは「光について証しする」ために神から遣わされたヨハネ(バプテスマのヨハネ)のことをここでまず記します。イザヤが「荒野で叫ぶ者の声がする…」と、イザヤ書40章3−4節で預言したのがこのヨハネです。使徒ヨハネはなぜ、ここでバプテスマのヨハネのことを書くのでしょうか。「彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来た」ということを明らかにするため、つまり、まことの光を強調するためです。しかしそれは、バプテスマのヨハネを偽物だと言いたいのではありません。彼の使命を明らかにするためでもあるのです。そして、このことは、キリスト者の使命に通じます。

 ヨハネは常に「指し示す」人でした。イエスを指し示す人だったのです。さて、自分は常にイエスを指し示しているのでしょうか。

 その後で使徒ヨハネは「まことの光」を紹介します。「みことばの光」が書くように、イエスはまことの光です。それゆえすべての人を照らす、つまりすべての人にとっての光なる方なのです。しかし、光に照らされた時に人はイエスに対して二通りの応答をします。受け入れないこと、そして受け入れることです。なぜ受け入れないということが起こるのか、それはイエスがご自分の民が期待するような姿でこの世界に来なかったから、彼らが期待するような道を歩まなかったからです。

 「まことの光」なら分かりそうですが、そうではないのだということをここから考えます。12節のことばを心に留めて「聖なる夜」を迎えたいと思います。


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