みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

旅路にある間

2024年06月04日 | 出エジプト記

出エジプト記 40章16−38節

 通りに沿って植えられている野ばらが小さく、にぎやかに花を咲かせています。ピンクがお気に入りです。あまりにも美しいので、写真を撮るのをすっかり忘れてしまいました。

 読み進めてきた出エジプトも、本日で読了。「みことばの光」で次は2029年に読むことになっているのですが、さてその頃私はどうしているでしょうか。

 本書は感動的な光景で閉じます。主が命じられたとおりに彼らが製作した幕屋と備品類、主が命じられたとおりに組み立てられて置かれたそれらのもの。燭台に明かりが灯され、金の祭壇で香が焚かれ、内庭の青銅の祭壇でささげ物がささげられ、洗盤でモーセやアロン、アロンの子どもたちは手と足を洗いました。

 その一つ一つの工程には「主がモーセに命じられたとおり」ということばが添えられています。彼らは、幕屋製作の工程のすべてを「主が命じられたとおり」に為し遂げました。その時に、主のみわざを見たのです。それは34節以降に描かれています。

 繰り返される「主の栄光が幕屋に満ちた」ということばに目が留まります。そして、主が幕屋に臨在しておられるということを彼らが体感できるように、雲が会見の天幕を覆いました。主と顔と顔とを合わせて語ったモーセもそこに入ることはできないほどのことでした。

 38節は、出エジプト記の終わりにふさわしいことばだと思いました。「旅路にある間」ということばが目に留まります。約束の地を目ざす旅路をずっと主はともに歩まれるのです。

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28章20節)と弟子たちに約束された主イエスのことばをおぼえて、本書をひとまず閉じたいと思います。


聖なるものとなる

2024年06月03日 | 出エジプト記

出エジプト記 40章1−15節

 日曜日は久しぶりに雨が降らない一日だったように思いました。礼拝を終え、バス停まで来るとちょうどのタイミングでバスがやって来ました。2系統のバスに乗れるのですが、日曜日は本数が少ないのでおおむね15分おきの運行です。

 ここには、主が命じられたとおりに造られた幕屋と庭が設営される様子が描かれています。1節の「第一の月の一日」とは、イスラエルの民がエジプトを出た翌年の第一の月のことです。彼らは第一の月の十四日にエジプトを出ました。ですから、幕屋が設営されたのはほぼ一年後のことです。

 幕屋とそこに置く備品類が製作される際にも、手順というかプロセスは大切です。順序を間違えると組み立てることができなかったり、十分な強度を保つことができなかったりします。幕屋の設営にも順序が大切だというのは言うまでもありません。

 前章の後半には、主の命令どおりに造られた一つ一つのものがモーセのところに運ばれて来たとありました。彼らはそれらを慎重に運んだことでしょう。そして、喜びをもって運んだことでしょう。それらはすべてが主の御旨にかなうものだったというのは、39章43節の「モーセは彼らを祝福した」ということばから明らかです。

 設営においても、彼らは主の命令どおりに行います。一つ一つのものが置かれるべきところに置かれなければ用をなすことはできないからです。

 さらに、あるべきところに置かれたからといって、それで完了ではありません。主の会見の天幕でのみ用いられるものなのですから、聖別されなければなりません。

 ここを読んで、弟子たちのためのイエスの祈りの一言を思いました。「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。」(ヨハネ17章17節)

 自分は主のご用のためにもっぱら用いられているだろうかとの問いが、心に浮かびます。


神と人とを結ぶ務め

2024年06月01日 | 出エジプト記

出エジプト記 39章1−21節

 6月を迎えました。昨日はドレスデン、スイス、そしてフランクフルトを結んでのオンライン聖書の時間。「神の自己紹介」というテーマで詩篇を一緒に味わうことができました。何度読んでも、いつも感動が与えられるのは不思議な喜びです。

 読み進めてきた出エジプト記も、あと数回を残すのみとなりました。「みことばの光」でまた本書を読むのは5年後のこと。その時自分は何をしているのだろうかとふと立ち止まって考えています。

 39章前半には、大祭司の式服が作り上げられていく様子が描かれています。本書では31章、35章にすでに大祭司、祭司の装束を作るという記事がありますので、三度目です。重複する記述なので、読み飛ばしたくなると思うのですが早まるのはちょっと…。三度書かれている理由があります。

 31章では主がモーセに命じられたことばとして取り上げられていて、簡潔な命令です。35章では、モーセが人々に大祭司と祭司の装束を作成するよう、詳細に人々に命じています。そしてここでは、人々が主の、モーセの命令どおりに式服を作り上げていったことが描かれているのです。

 ですから、ここで何度も繰り返されているのは、「主がモーセに命じられたとおりに」ということば。確かに31章の命令は完結なのですが、そこで主は詳細にモーセに語っておられるのです。モーセは主の命令を省略することなく、反対に付け加えることなくそのままベツァルエルやオホリアブに告げたことが分かります。

 大祭司は神と人とを結ぶ務めをします。そしてその務めは、しかも完全な務めをする大祭司としてイエス・キリストがおられることを、ここを読んで改めて覚えます。

 「ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。」ヘブル人への手紙3章1節


鏡で作る

2024年05月31日 | 出エジプト記

出エジプト記 38章

 木曜日は、目まぐるしく天候が変わる忙しい一日でした。激しい雨が降っているかと思うと陽射しが差し込み、再度黒雲が覆って雨が…。しかし西の空には青空。ということで、昨日は外出を控えました。本日は5月最後の日ですね。どのような月だったかと、振り返ってみたいと思います。

 ここには、幕屋の庭に置く祭壇や洗盤、そこで用いる道具、器具など、さらには外側と庭とを区切る幕を「彼」すなわち、オホリアブが作ったと記されています。

 特に、洗盤を会見の天幕の入り口で務めをした女たちの鏡で作ったという8節の記述に目が留まります。「天幕の入り口」とは、おそらく幕屋ができる前に、モーセが主と会うために宿営の外に張っていた天幕についてのことと考えられます。

 この当時の鏡は青銅で作られていたことがここから分かります。また、鏡は昔も今も女性にとって大切なもの。それを用いて身だしなみを整えます。彼女たちはそれを主の幕屋の備品を作るための材料としてささげました。大きな決意だったのではと想像します。

 29−31節に、庭の備品や道具類に用いた青銅の量と、オホリアブが作り上げた備品の名前があります。しかし、そこには「洗盤とその台」がありません。このことから、女たちの鏡を用いて作られた洗盤は特別なものだったのではないかと考えられます。イエス・キリストの足に注がれたナルドの香油を思わせるような、信仰をささげる女性たちの姿に覚えることができます。幕屋の作成には、このようなたくさんのドラマがあったことでしょう。


神の霊を満たした

2024年05月30日 | 出エジプト記

出エジプト記 37章

 4月、5月とスイスに伺った折に、お訪ねして昼食を共にした方が弱っておられるとの知らせをいただきました。言い尽くすことのできないような大きな試練を乗り越えて、日本を、そして日本人を愛し続けてくださった方です。スイスに戻られてからも日本語教会のスタートに携わられ、お住まいの地で日本人とともに聖書を読み続け、主が多くの実を結ばせてくださいました。主の平安をお祈りしています。

 ここでは幕屋の中に置く備品がベツァルエルによって作られていく様子が描かれています。彼がどれほど優れた技術を持つ職人だったかは、たとえば宥めの蓋の一部として純金のケルビムを「鎚で打って」製作したという7節のことば、また純金の燭台を「鎚で打って作った」という17節のことばからも容易に想像できます。

 出エジプト記でベツァルエルという名前は、10回登場します。最初は31章2節です。そこでは、「わたしは、ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たした」とあります。

 主は、幕屋の内部に配置する精巧な備品をだれに作らせるかをご存じでした。そして、そのために必要なものを彼に賜わったのです。特に「神の霊を満たした」ということばが目に留まります。どんなにすぐれた技術を持っていても、それだけでは十分ではないということがここから分かります。

 「神の霊に満たされて」はじめて、ベツァルエルは困難な作業をやり遂げることができたのです。それは彼一人には限らず、神のために用いられるすべての人に必須なものだということをここから学ぶことができるのです。


2011-2024 © Hiroshi Yabuki