みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

旅路にある間、いつも

2014年04月21日 | 出エジプト記
出エジプト記40章16-38節


 今朝は満開です。Photo_2
 イースターはどのようにお過ごしになりましたか。
 通っている教会では、ひと足お先に「イースター子ども集会」を土曜日に持ちました。
 エッグペイントを楽しんだあと、「復活はびっくり!」というイースターのお話。時を捕らえてみことばを届けます。たくさんの子どもたちとともに、ご家族もお見えになって良い時間を持つことができました。

 「みことばの光」では、イースターを挟みましたので、出エジプト記の最後の箇所が離れ小島のように残ってしまいました。きょうで終わりかと思うと寂しいですね。

 ここで目につくのは、「主がモーセに命じられたとおりである」ということばの繰り返し。このことについては16日のブログで触れました。 
 心に留めたのは、「旅路にある間、いつも」という一言。エジプトを出て荒野を旅する民は、雲が幕屋の上から上ったときには旅立ち、雲が上らないと、上る日まで旅立ちませんでした。「ああ、そうなのか」とわかったつもりになっていましたが、よく考えるとこれは大変なこと。雲が何日もとどまっているならば、天候が良くても自分たちが出かけてウズウズしていても旅立たないのです。彼らが進むか止まるかは、彼らの判断によってではなくて、主の心だけによっていたということなのですね。

 私たちにとってこれは、神がともに歩んでくださっているという約束を信じて、神のことばをいただいて「進め」ならば進む、「止まれ」ならば止まるということです。みことばによらずに日々を歩もうとする無謀さに対する警鐘でもあると、読みました。

 「みことばをください」と神に願います。旅路にある間、いつも…
      

コメント

ただそれだけを…

2014年04月19日 | 出エジプト記
コリント人への手紙第一 15章12-19節


 冷たい雨が上がり、春の陽射しが部屋に差し込んでいます。
 一雨ごとに暖かく…と言われますが、この時期は一日のうちにさまざまな花が咲くので目が離せません。いつの間にかハナミズキが満開になりました。桜前線は現在東北地方南部を北上中。この時期の北への旅は、お花見が何度もできて楽しいでしょう。

 きょうの箇所には「もし…」が7回登場します。
「(もし)キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、…」(12節)
「もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。」(13節)
「そして、(もし)キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教はむなしいものになり、あなたがたの宣教も…」(14節)
「もしかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが…」(15節)
「もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。」(16節)
「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、…今もなお、罪の中にいる」(17節)
「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者」(18節)

 復活を否定する人たちは、福音に真っ向から反対しているのだということを、パウロはここで訴えています。
 「福音を知らせましょう」とこの章をはじめたパウロは、福音とはキリストの復活なのだと明言するのです。この箇所について、ある注解者は、「使徒たちは、何かすごいことが起こった。それは神がキリストをよみがえらせたことだ、と人々に語った。…使徒たちのしてきたのはただそれだけ、キリストは復活した、すごいことが起こったと語っただけだった。」
 痛快です。すごいことが起こった。キリストは復活したのだと驚きと喜びをもって伝えているのかと、強く問われます。
    

コメント

最もたいせつなこと

2014年04月18日 | 出エジプト記
コリント人への手紙第一 15章1-11節


 雨の朝です。
 「少し早く目覚め、頭がスッキリしているので来ました」と早朝の祈禱会に駆けつけてくださった方がいました。いっしょに祈る「仲間」が増えるのは心強くうれしいことです。

 受難日のきょうは、コリント人への手紙第一15章を読みます。
 コリントの教会にはゆたかな賜物をもった人々が大勢いましたが、愛に欠け、互いに競い合いさばき合っているという事情がありました。パウロはこの手紙の終わりの部分で、「あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音」を知らせています。
 「こんなことは知っている」「何をわざわざ…」という声が、手紙を読んだ人々の間から聞こえてきそうです。けれども、パウロは教会を自分が宣べ伝えた福音の上に立つようにと、ここでイエス・キリストの十字架と復活を知らせているのです。

 はっきりとは覚えていないのですが、小学生の頃にキリストが十字架にかかった場面のある映画を観たことがあります。その時はもちろん、教会に行ったこともなく聖書も読んだことはありませんでしたが、何も悪いことをしなかったのに殺されるなんてかわいそう…と思ったという記憶があります。
 主イエスは正しいお方で人々から慕われていたけれども悪い人たちの策略にあって殺されてしまった、なんとかならなかったのかと子ども心に思ったのです。

 ほんとうの意味がわかったのは、それからだいぶ経って、求めて教会に行ったときでした。主イエスは成り行きによってではなく、「聖書の示すとおりに」死んで復活されました。私のために…。
  

コメント

それは聖なるものとなる

2014年04月17日 | 出エジプト記
出エジプト記40章1-15節


 早朝散歩の帰り道グループホームに寄りますと、すでに皆さん起きていて、キッチンには厚切り食パンが…。おいしそう! 
 堤防沿いの道端にはこんな花も咲いていました。芝桜、でしょうか。Img_1776

 「第一の月」というのは、西暦では3-4月。ちょうど今ごろです。
 主はモーセに、第一の月の第一日に幕屋を建てることを命じられました。すでに、幕屋とその中で用いる器具類は主の指示通りに完成しています。組立も配置も主の指示通りにするのです。
 
 そしてここには、幕屋で用いる器具類とアロンとその子どもたちを聖別せよとの命令があります。神を礼拝するための道具も、そこで奉仕する人々も、もっぱらそのために用いるのです。当たり前のことですが、祭壇はいけにえを焼いてささげるためにだけ用い、他のことには使いません。アロンと子どもたちも他の仕事をしながら祭司のつとめをするのではありません。

 心に留めたのは「それは聖なるものとなる」とのことば。油をそそいで聖別すると「それは聖なるものとなる」のです。器具類はもっぱら用いるために作られたものですが、もとはと言えば民がささげた貴金属類。しかし、主のことばどおりに作られ、主のことばどおりに油がそそがれると聖別されるのです。

 「みことばの光」が書くように、これは私たちについても言えること。キリストを信じる者も、「それは聖なるものとなる」ということばのとおりになっているという姿を忘れないで、一日を歩みます。


コメント

命じられたとおり

2014年04月16日 | 出エジプト記
出エジプト記39章22-43節

 
 一昨日は向こう側だけでしたが、けさはこちらもごらんのとおり。Photo
 藤棚も薄緑に彩られていました。

 きょうの箇所には大祭司の青服、祭司たちの長服などが作られたこと、そして最後にすべての必要なものが完成したことが記されています。
 ここに何度も登場するのが「主がモーセに命じられたとおり」ということば。このことばは「出エジプト記」全体に17回、そのうち39,40章だけで16回も登場します。
 完全な設計者である主の指示どおりに、幕屋とそれに必要ないっさいのものが作られたということが強調されていることばです。

 「みことばの光」には祭司がつける「主の聖なるもの」と彫られた記章について、「人間である祭司の不完全さにもかかわらず、聖とみなしてくださる神のあわれみ」とありました。神がイエスを信じた一人一人をこのように見ておられるのだと教えられます。

 このような記章が(目には見えませんが)、信仰者たちの額に刻まれていることを覚えられたら、自分はダメだとへたり込んだままではいないでしょうし、兄弟姉妹を「あの人は…」などとさばいたりはしないでしょう。

 途上の私たちが心することは、「主が命じられたとおりに」歩もうと志すことだと教えられます。


コメント

2011-2018© Hiroshi Yabuki