みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

いつも雲が…

2019年03月27日 | 出エジプト記

出エジプト記 40章16−38節

 火曜日午後の「ドイツ語おしゃべりの会」。昨日はインドからの青年が参加されました。青年を誘ったのは地元の男性で、とても親切で温かな人。昨日のおしゃべりテーマは「故郷」。英語で言えば「ホームシック」ということばも覚えました。「ホームシックにならないの?」と尋ねられた私たち「生徒」は、みんなが「なりません!」それを聞いて、とても嬉しそうな表情をしておられました。

 出エジプト記の通読も、とうとう終わりを迎えました。もちろんいつでも読むことができますが、「みことばの光」では5年後まで読みません。数ヶ月前の編集の時のことをいろいろ思い起こしながら、出エジプト記をあとにします。ここには、モーセが幕屋を設営し、その中に一つひとつの用具類を主が定められた場所に置いていったということがまず記されています。

 「みことばの光」に書いてありますが、ここで繰り返されるのは、「主がモーセに命じられたとおり」ということば。ここまでの幕屋製作の過程でも、このことばが繰り返されました。主がモーセに命じたとおりに民が作り上げた幕屋と、そこで用いる物、そして祭司・大祭司の装束。それらをモーセは、主が命じられたとおりの場所に置いていきました。「こうしてモーセはその仕事を終えた」のです。

 その時、雲が会見の天幕を覆い、主の栄光が幕屋に満ちたのは、完成した仕事を主がお認めになり、お喜びになったことを示します。そして主は、お約束通りに幕屋に臨在し、荒野を旅する彼らを導いてくださることが、彼らの上にあり続ける雲によって明らかになりました。

 このようにしてイスラエルの民の旅路を導かれるお方は、私の信仰の旅路にも伴い、約束の天の御国へと導いてくださるという確かな希望を思うと、喜びが湧いてきます。「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」ピリピ人への手紙1章6節

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聖別する

2019年03月26日 | 出エジプト記

出エジプト記 40章1−15節

 晴れたと思ったら急に黒雲が空を覆い雨が降るという定まらない天候の月曜日。いつもなら歩いて行く所を自動車で往復しました。歩けば30分ほどかかる距離を車だと10分もしないうちに着いてしまうので確かに便利なのですが、サーッと動くゆえに、歩いているからこその発見の楽しみをあきらめることにもなります。

 聖書も、一つの書をさっと読み終える読み方もありますし、ゆっくりと確かめながら歩くような読み方もあります。「みことばの光」は5年間で聖書全体をすべて読み通すことができるようにスケジュールが組まれています。ずいぶん時間がかかるものだとも思いますが、「各駅停車」だからこその発見もまた楽しみです。

 1月から始まった今回の出エジプト記の通読も終章になりました。以前も書きましたが、最後の一日などというと、急に名残惜しくなるという不思議な思いが湧いてきます。この章の前半には、神がモーセに命じ、モーセが民に伝えた幕屋とその中で用いられる道具類、そしてそこで神に仕える祭司の装束が完成し、第一の月の一日にそれらが組み立てられ、置かれるべき場所に据えられたということが記されています。

 この箇所で繰り返されることばは「聖別」です。作られた物の一つ一つを、そしてアロンと子どもたちを聖別してから、幕屋でなすべきことが始まるのです。「聖別」ということばは、神の御用のために他のものから別けられるという意味があります。本書の後半で命じられ、そしてそのとおりに作られた物は、どの一つを取ってももっぱら神のために用いるためのものであり、他に流用してはならないのです。

 キリストを信じる者は、まことの大祭司イエス・キリストのもとで神に仕える祭司です。「もっぱら神のために…」として用いられているのだろうかと、「聖別」ということばは問いかけます。

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彼らは、見よ、…

2019年03月25日 | 出エジプト記

出エジプト記 39章22−43節

 昨日は、これまで10年近くお借りしてきた場所での最後の日本語礼拝。4月からの場所はまだ定まっていません。一度決ったかと喜んだのですが、「ノー」との答え。そのような中、役員の皆さんが希望をもって前に向かって進んでいる姿にとっても勇気づけられています。

 39章後半には、民がアロンの様々な装束を作り上げていったことと、自分たちが作った物を、民がモーセのところに持って来たことが書かれています。43節のことばに目が留まり、感動しました。モーセが実際にどのような顔をしていたかはわかりませんが、満ち足りた喜びの表情を思い浮かべてみました。彼は、民が持って来た一つひとつの物を、点検したのです。

 彼らが、モーセのことばどおりに、すなわち神がモーセに命じられたとおりに仕事をしたことについては、その前の42節にある「すべて主がモーセに命じられたとおりに、そのとおりに、すべての奉仕を行なった」ということばから明らかです。このことばは、「とおりに」ということばと「すべて」ということばがそれぞれ2回用いられている、文章としては少々ぎこちない表現だと思います。けれども、このぎこちなさが彼らの仕事の完璧さを伝えているように読むことができます。

 39章には、「主がモーセに命じられたとおりに」ということばが、1節、5節、、7節、21節、26節、29節、31節、そして42節と9回用いられています。主がモーセに命じられたことをモーセは民にそのまま伝え、民はモーセのことばどおりに、すなわち主のことばどおりに作り上げました。そして、それを見たモーセが、彼らを祝福したのです。

 信仰による従順の美しさ、力をこの箇所から覚えます。

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犠牲の祭壇

2019年03月23日 | 出エジプト記

出エジプト記 38章

 修理も終えたので、自動車を洗車しました。と言っても、機械洗車。今回は思い切って最高グレードの洗車を頼みました。すると、レジのお兄さんが自動車の室内を磨くスプレーをプレゼント。以前もらったガラス用のスプレーも持参していたので、窓ガラスを自分たちできれいにすることにしました。ところがスプレーをかけて磨いても、きれいになるどころかかえって曇りが増してしまいます。なぜだ? と確かめると、ガラスに吹きかけていたのは室内磨きのスプレー。ワックスのようなものが取れるまで、ずいぶんと時間がかかってしまいました。

 幕屋と,そこで用いる用具類を作ったベツァルエルやオホリアブには、私たちのような間違いをすることはきっとなかっただろうと思いながら、38章を読みました。ここには、幕屋の内側の庭と呼ばれる所に置かれる全焼のささげ物の祭壇、そこで用いる道具類を、ユダ部族のベツァルエルとダン部族のオホリアブが作っていった様子が描かれています。

 聖所、至聖所に置かれる物がすべて純金で作られ、また純金でおおわれているのに対して、庭に置かれている道具類はすべて青銅で作られ、また青銅で覆われているという違いがあることに気づきます。青銅で覆われる祭壇の上では、罪ある者が神の御前に出るために自分の罪のために献げる動物の犠牲が焼かれました。年に一度至聖所に入ることができる大祭司でさえも、自分の罪のためにいけにえを献げなければなりませんでした。すべての人は罪を犯したということばが改めて心に迫ります。

 犠牲のための祭壇は、やがてカルバリの十字架の上ですべての人の犠牲となられたイエス・キリストへと通じています。

 新約聖書ヘブル人への手紙は、旧約聖書にある幕屋や後の神殿における礼拝を背景にして、キリストがただお一人の、まことの救い主だということを伝えています。7章27節のことばを思います。

「イエスは、他の大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でその事を成し遂げられたからです。」

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世の光

2019年03月22日 | 出エジプト記

出エジプト記 37章

 日本では桜の開花が報じられていますが、当地も春の花々が至る所に咲き始めています。ウォーキングをしていますと身体がホカホカしますので、同伴者は上着を脱いだり着たりと忙しくしています。

 本章には、25章とほぼ同じことが記されています。きのうも書きましたが、25章では神がモーセに作るようにお命じになったことが、そしてここでは、ベツァルエルがそれらを次々に作り上げていったことが書いてあるのです。それにしても、ベツァルエルはすばらしい技量を神から授かった人物なのだと改めて思います。29節には、彼が調香の技法を凝らして、聖なるそそぎの油と純粋な香り高い香を作ったともありますので、手先の器用さばかりでなく、嗅覚などにおいても傑出していたことがわかります。どのような人なのか、一度会ってみたいものだと思いました。

 きょうの「みことばの光」は、ベツァルエルが作った契約の箱について詳しく述べていますので、ここでは純金を打って作った燭台のことを書くことにします。画像などで確認することができますが、燭台(ヘブル語で「メノラー」)は、独特の形をしていて枝は左右に三本ずつ六本出ており、真ん中の一本も含めてその上にはともしび皿が一つずつ全部で七つ置かれます。純金1タラントとありますので、およそ34Kgというかなりの重さです。

 この燭台は聖書に置かれました。聖所は四重の布や皮でおおわれていましたので、この燭台の灯のみによって照らされます。ヨハネの福音書は、イエス・キリストがご自分を表わす七つのことばを記していますが、その一つが8章12節にある「わたしは世の光です」ということばです。神から離れた人間は闇の中を歩む者となったのですが、イエスは「すべての人を照らす…まことの光」としておいでになりました。

 イエスさまを信じなかったなら私は…と、今でも考える時があります。まことの光に照らされながら毎日歩むことができるのは、感謝し尽くすことのできない喜びです。

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2011-2020 © Hiroshi Yabuki