みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

私たちも以前は

2019年09月10日 | テトスへの手紙

テトスへの手紙 3章

 月曜日は、日本との間で「みことばの光」12月号の編集をしました。時差の関係で当地朝4時半からの仕事ですが、10月からは夏時間が終わりますので、さらに1時間早くなります。9月に入ってまもない今ごろに12月号の作成をするのですが、改めて不思議な思いがします。12月号はいつになくたくさんの聖書箇所を読みます。今からお楽しみに…。

 パウロによる「テトスへの手紙」は全部で3章ですから、きょうで読み終えます。サーッと過ぎ去ってしまうようです。この章でパウロはテトスに、教会が社会の支配者や権威者に従い、良いわざを進んでするよう教えよと書いています。2章にもありましたが、福音は社会の仕組み、形をラディカルに変えるというようには働きません。一人ひとりのたましいを造り変えるのです。ですから、パウロがここで書いているのは、保守的と受け取られやすいのです。できる限りこの世の支配者や家に従えと言うのですから…。

 しかしよく考えてみますと、仕組みを変えること以上に一人ひとりが造り変えられていくことは、世界にとって大変意義のあることです。この世の権威に対して、受身の姿勢で対するのではなくて、むしろ積極的にすべての良いわざを進んでするようにというのが、パウロがクレテのクリスチャンに願っていることでした。

 3節の「私たちも以前は、…」ということばに目が留まります。この手紙を書いているパウロも、受け取るテトスも、そしてクレタにある教会の兄弟姉妹も、そして私も、お読みになっているあなたも、例外なく「私たちも以前は…」ということばに大きくうなずくことでしょう。

 そのような者を神は救ってくださったのです。「救う」とか「救われる」というのは、その人が自分の力や知恵ではどうにも解決ができず、お手上げになっているような時に、神がその状態から抜け出させてくださったということです。4節の「いつくしみ」「愛」とは、罪のゆえに全く行き詰まってしまっている私たちへの神の態度です。

 そのような者が救われたのです。ですから、救ってくださった神への感謝を、積極的に良いわざに励むということで表わす…、このことを忘れてはならないのです。


神の恵みが現れた

2019年09月09日 | テトスへの手紙

テトスの手紙 2章

 日曜日、礼拝のために教会に着いてみたら鍵が…。家に戻り、同じアパートに住む方にまず玄関の鍵を開けてもらい、…ちょっと遅れての礼拝スタートとなりました。この日は印刷物も家に置き忘れるというミスも…。今回もまた、注意深く一つ一つのことをするようにとの促しを、神さまからいただきました。

 クレタ島にある教会を立て直すために、パウロはテトスを島に残しました(1章5節)。これは、ローマに護送されたパウロが行動の自由を得て、アジア(現トルコ西部)からマケドニアに出かけ、主の教会を励ました中での出来事でした。悪評高いクレタ人の中に誕生したクレタの教会は、その影響をもろに受け、さらには誤った教えを吹聴する者たちによってガタガタでした。

 テトスはこの島に立つ教会のメンバーに、その世代に応じてクリスチャンにふさわしく歩む(行う)ようにと勧めなければなりません。ここからわかるのは、健全な教えにはふさわしい行動が伴ってくるということです。逆に言えば、クリスチャンのあるべきふるまいとは健全な教えが土台になっているということです。

 そしてテトスは、彼自身が良いわざの模範にならなければなりません。自分が教えたことが力をもって相手に届くためには、その人が何をするか、どのように生活するかということにかかっています。

 11節以降は、なぜ健全な教えを守り、それにふさわしい生き方をすることの動機が明らかにされています。それは、神の恵みが現れたからです。クリスチャンは、クレタの人のように、嘘をつき合い、人の者をむさぼり、仕事をさぼり、大食いに明け暮れるような生き方をなぜしないのか、それはやがてイエス・キリストがおいでになるからだというのです。

 私たちの生活の動機は、実にこの一つのことにあると気づかされます。


神の恵みが土台にあって

2014年04月24日 | テトスへの手紙

テトスへの手紙3章


 早朝にいつも立ち寄る公園では、藤が開花しました。もう少しすると甘い香りに誘われて蜂たちが藤棚を飛び回る様子が見られることでしょう。

 テトスの手紙はきょうが終章。
 福音を信じて歩む教会にとっては良い環境とは言えない場所で、キリスト者はどう歩むかが、この手紙の主要なテーマです。3章にも、「支配者たちと権威者たちに服従し、従順で、すべての良いわざを進んでする者」となるように、また、「すべての人に優しい態度を示す者」となるように教えよと、パウロはテトスに命じます。

 ちょっと読むと、みんなにいい顔をするようにというように受け取られかねませんが、違います。むしろ、知恵と忍耐が必要な態度であると思うのです。政治家が悪い! リーダーが問題だ! ひっくり返せ! と叫ぶ人々といっしょになるでもなく、指導者たちに盲従するでもなくキリスト者としての良心に照らし合わせつつ、社会にあって良いわざに励むというのは、緊張を強いられる歩みです。

 気づくのは、この手紙には、イエス・キリストがおいでになって私たちを救い、今をどう歩むか、そして先に何が待っているのかの教えがちりばめられているということです。それがなかったならば、パウロがテトスに与えた命令は、どのように教会をマネジメントしたらよいのかを指南しているだけのものにすぎません。

 「ああする、こうする」の土台に、キリストによって明らかにされた神の恵みがどっしりとあるというのが、私たちの社会生活だということを忘れない…、今回の通読で強く教えられたことです。
     


この時代にあって

2014年04月23日 | テトスへの手紙
テトスへの手紙2章


 きょうの「みことばの光」本文3行目に、「テモテはどのように指導するべきであったか…」とありますが、正しくは「テトスはどのように指導するべきであったか…」です。おわびし、訂正いたします。

 テトスは、「昔からのうそつき、悪いけだもの、なまけ者の食いしんぼう」(1章12節)と揶揄(やゆ)されていたようなクレテ島で、キリストを信じて新しい歩みを始めた人々に、キリストにあって歩むとはどのようなことなのか、世代や立場にふさわしく教え導かなければなりませんでした。

 「この時代にあって」ということばに目が留まります。
 救い主はこの時代にお生まれになり、歩まれました。イエスが当時の特に指導的な立場の人々と衝突しておられたのは、時代の主流に「そうではない」と新しい生き方を示されたからです。そして、表向きはこの時代に飲み込まれて十字架で殺されてしまったかのようです。そうではありません。

 時代はいつも、キリスト者が大切にしているものを踏みつぶせるほど力で挑んできます。抗う(あらがう)よりは、飲み込まれ、流されるほうがどんなに楽か…と思うこともあります。

 けれどもそうしないのは、キリストが十字架にかかられたから、キリストが復活して今も生きておらるから、やがて再びおいでになってすべてを支配されるという希望に生きているからです。
      


敬虔にふさわしい真理の知識

2014年04月22日 | テトスへの手紙
テトスの手紙1章


 きのうは、ピロリ菌除去の結果を見る呼気検査を受けに、宇都宮に行きました。ピロリ菌とはユーモラスに聞こえますが、胃の中で悪さをする厄介な細菌。妻は除去が成功しましたので、私も…と期待しています。

 帰り道、高速道路の渋滞に遭遇。「抜け道派」の私は早速北関東自動車道に入り、足利を通って戻ることにしました。足利といえば「あの最中!」と気持ちが一つになって、売っているはずの支店に向かいましたが、そこはすでに和菓子店の工場になっていました。あきらめて帰りかけましたが、「本店に行こう」と道を戻りました。
 久しぶりでゲット!。長いのと四角いのがありますが、改めてよく見ると同じ大きさなのです。「当たり前!」と言われるようなことに、やっと気づきました。

 きょうから三日間、「みことばの光」ではテトスの手紙を読みます。
 「テトスだけが読んだ手紙だからいいようなものの…」と「みことばの光」に書いてありますが、今や世界中の人が読んでいるのですから、クレテの人々はどう思っているのだろうかと心配になります。

 心に留めたのは、パウロのはじめの挨拶にある「敬虔にふさわしい真理の知識のために」ということば。ここをある英訳聖書は「敬虔にみちびく真理の知識」と訳します。
 12節にあるような人々の中に福音を伝え、教会が誕生しますが、気をつけていなければすぐに飲み込まれてしまいます。教会の指導者にも、いや指導者だからこそ影響は大です。

 イエス・キリストを信じるということは真理の知識を得たということ。イエスへの信仰は、人を敬虔な歩みへとみちびき、実を結ばせます。世の中が大変だから福音は届かないと考えるのではなくて、世の中が大変だから福音を届けると発想を変える必要があることを、12節のことばが教えています。
      


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