みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

忍耐深い神

2015年03月20日 | ペテロの手紙第二

ペテロの手紙第二 3章

 だれにでも平等に与えられているのが「時」だとよく言われます。けれども、人によって時の感じかたはまちまちですし、同じ人でもゆっくりと時が進むと感じる場合と、矢のように…という場合とがあります。これから、川越にある高齢者の施設に向かうのですが、今までに間に合うかと心配することが何度かありました。そんな場合には、時間が速く進んでいるのではないかと感じてしまいます(もっとも、自分がいつもどおりに家を出ればよいだけのことなのですが…)。

 「みことばの光」が書くように、この手紙の読者の中には、キリストはどうして早く来てくださらないのかと心配している信仰者たちがいました。外からは迫害、内にはにせ教師という危機に際して、キリストが早くおいでになって教会を正してほしいとの願いが高まったのでしょう。特に、自分たちの乱れた生活に浸り切っていたにせ教師は、4節にあるように「何も変わりはしないではないか」とうそぶいていました。

 主イエスが私たちの期待したとおりに行動なさらないのはよく考えれば当たり前のこと。そうとはわかっていながらも、やはり「早く来てください」と心が急(せ)きます。しかし、それは主の忍耐であって、すべての人が悔い改めに進むのを望んでおられるからなのだとペテロは書くのです。

 主を三度も否むという大失敗をしようとしているペテロに主イエスは、「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」とおっしゃいました(ルカの福音書22章32節)。主の忍耐を説くペテロは、あの時主イエスが自分に語ってくださったことばを心に刻んでいたのではないでしょうか。

 主の忍耐を思います。

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「自由」が奴隷への入口に

2015年03月19日 | ペテロの手紙第二

ペテロの手紙第二 2章11−22節

 ここでペテロは、にせ教師をいろいろなものになぞらえています。「理性のない動物と同じ」「しみや傷のようなもの」「のろいの子」「水のない泉」「滅びの奴隷」。ここで厳しく断罪されているにせ教師は、この手紙を読む教会に滅びをもたらす異端をひそかに持ち込みました。彼らは自由を約束しながら、性的享楽的な放縦に走り、信仰の弱い人々を神の恵みから踏み外させようとしています。

 「自由」とは響きのよいことばです。「あなたは自由だ。何をしても赦されるからだいじょうぶ」と誘われて、フラフラっとする人も少なくありません。「自由」という滑らかなことばによって、罪の奴隷という正反対な方向に引きずりおろされることがあまりにも多く見られます。教会のリーダー的な立場にある者は、自分自身をきよく保つことに注意を向けなければならないと、教えられます。

 「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。 それは、 私がほかの人に宣べ伝えておきながら、 自分自身が失格者になるようなことのないためです」(コリント人への手紙第一 9章27節)というパウロのことばをも覚えました。

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主は…心得ておられる

2015年03月18日 | ペテロの手紙第二

ペテロの手紙第二 2章1-10節

 ちょっと気がかりなところがありましたので、きのう脳のMRI検査を受けてきました。ずいぶんと久しぶりの検査。大きな音を和らげようとヘッドフォンをつけて、検査機械の中に…。時間にしては5分程度でしたが、あとで画像を見せてもらうと脳が輪切りにされて映っていました。結果は異常なし。改めて思うことですが、ずいぶんとすごい医療機械があるものですねぇ。5分間の検査の間、さすがのMRIも自分の罪や悪事を画像にはできないだろうななどということを考えていました。

 時に私たちは、巧妙に造り上げられた偽物の教えに惑わされることもあります。詐欺を働く人はそのほとんどは正しくふるまって相手を安心させようとする、というようなことを聞いたことがあります。確かにそうですね。私は詐欺師です。わたしは悪い人ですと相手は近寄っては来ません。そして、真理の道がそしられ、教会が食い物にされるというような事態に陥るとペテロは注意を促しています。

 心の留める一言

 「主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰の下に置くことを心得ておられるのです。」(9節) 教会に入り込むにせ教師たちが一時(いっとき)は人々のこころを惑わし教会を混乱に陥れるかもしれないけれども、神は彼らを確実に正しくおさばきになるというのです。「心得ておられる」(新共同訳聖書「考えておられる」)に希望があります。

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それに目を留めて…

2015年03月17日 | ペテロの手紙第二

ペテロの手紙第二 1章12−21節

 休日、猫の額ほどの芝生の雑草抜きをしました。この時期、あっという間に草が伸びてくるのですね。夜に歩きましたが、寒さを感じることのない陽気になってきました。

 迫害を恐れている教会を奮い立たせるのだとしたら何によって? ということでしょうか。ペテロはまず、キリストをに目を留めさせようと自分で目撃したことを書きます。高い山で主イエスが変貌なさったのを見たというのは、生涯ペテロの脳裏に焼きついたものでした。その体験は困難の中にあった時に彼を支え、また彼の信仰の友を支えました。

 しかしペテロは、その劇的な体験にまさって、預言のみことばがあると書いています。「みことばの光」が書くように、旧約聖書が記す主イエスが救い主としておいでになるとの預言です。

 心に留めたのは、「夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです」とのことば。やがてキリストがおいでになる夜明けが来るまでの間、私たちはしばしくらい中を通されるのです。しかし、そのために聖書というともしびを神は与えておられます。暗い中を安全に歩めるに充分なともしびである聖書を…。

 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」詩篇119篇105節

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信仰には…加えなさい

2015年03月16日 | ペテロの手紙第二

ペテロの手紙第二 1章1−11節

 今週土曜日に、教会の少年野球チームの春の大会があります。きのうは大会前最後の練習日。ここ数年負け続けの部員たちに何とか勝利の喜びを味わってほしいと、きのうはいつもより延長して練習をしたようです。「うん。一勝できるかもしれないな」とは監督の一言。「勝ちました」という報告を楽しみにしています。

 きょうから「ペテロの手紙第二」を読みます。「みことばの光」36頁にある「ペテロの手紙第二を読む前に」によれば、この手紙は皇帝ネロによる激しい迫害の下にあったペテロが自分史が間近だと察知していた時期に記されたものです。外からは迫害、そして内部では偽教師の台頭という問題にさらされる教会に宛てて、キリストへの信仰、そしてその信仰による救いが確かだということを確認しているのです。

 心に留めたのは、「信仰には…を加えなさい」という5−7節のことば。一人のキリスト者の成長の姿をたどれるようなことばが並んでいます。「みことばの光」が書くように、注目すべきは信仰から始まり愛で終っているということ。何はさておいてもイエス・キリストを信じる信仰がスタート。そこからすべてが始まるのだということを改めて知らされます。

 そして一つ一つの事柄は正しい努力の積み重ねによって成るというのです。野球の試合での一勝もそうだと思います。

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