みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

結局のところ

2020年04月17日 | 伝道者の書

伝道者の書 12章

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」伝道者の書 12章13節

 このところの日課のようになっていますが、夕方2時間近く歩きに出てそのついでにスーパーで買物として戻っています。欠品していた小麦粉が棚に並ぼうとしていましたので、一個購入できました。

 伝道者の書はきょうで終り。1節のことばはこの書の主題としてよく知られています。さらに13節の「結局のところ」ということばに始まる結論の部分にも目が留まります。

 しかし、伝道者はこの主題、そして結論を机上で知恵を巡らしてではなくて、人生のさまざまな経験を重ね、さまざまな人間模様を観察して生み出したのです。このことに大きな意義があると思います。齢70を迎えようとしている今、さて私はこれまでの人生で何を見、何を経験し、何を知ったのだろうかと問われる思いがします。

 この章には、人間が加齢とともに弱りゆく様子が物に比喩的に描かれています。5節の「アーモンドの花は咲き」は、髪の毛が銀色に変わる様子を表しているのだと考えられます。私の髪の毛もまさにこれです。「風鳥木は花を開く」とは、聖書協会共同訳では「ケッパーの実はしぼむ」と訳されます。恐らく活力が失われる様なのでしょう。

 だからこそ、1節と13節には説得力があるのです。


挑戦する者

2020年04月16日 | 伝道者の書

伝道者の書 11章

あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」伝道者の書11章1節

 昨日午前には、祈祷会を持ちました。一か月になろうとしている外出制限の中、特に子どもたちに、さまざまなストレスがあることが分かち合われ、一緒に祈りました。大人も気づかないうちにストレスを溜め込んでいることに気づかされます。

 本章からは、「挑戦」「チャレンジ」ということばを思います。「あなたのパンを水の上に投げよ」、「朝にあなたの種を蒔け」とは、人生には何が待ち構えているのかはわからない、だから何をしても仕方がないとするのではなく、自分の前に置かれているに向かっていこうという挑戦のことばです。

 やみくもに突っ走るということではありません。これまでの探求の旅で伝道者が見いだしたのは、日の下のすべての営みが空であるということとともに、神にあってすべてに意義が見いだせるようになるということでした。終章における結論を前にして、彼はすでに、「神にある」挑戦の意義を説くのです。

 以前携わっていた、障害ある方を支援する働きをしている事業所は、今回の危機に際して、対面でのお菓子販売を自粛しています。その代わりこの時に…とさまざまなことに挑戦しています。興味のある方はお訪ねください。https://gyodanozomi.hatenablog.jp/


愚かな者の唇

2020年04月15日 | 伝道者の書

伝道者の書 10章

知恵のある者が口にすることばは恵み深く、愚かな者の唇は自分自身を吞み込む。」伝道者の書 10章12節

 普段一緒に礼拝している方を電話でお訪ねしたら、お元気にしておられました。そしてその方から、イースターの日曜日にミラノのドゥオモ(大聖堂)でなされたアンドレア・ボチェッリによるライブ(希望の音楽)のことを伺ったので、聴きました。大聖堂内で数曲を賛美した後、ドゥオモの前でアメイジング・グレイスが歌われました。 

 伝道者の書も残るところ3章。いつも思うことですが、「みことばの光」は5年に一度聖書を全部読み通すというスケジュールなので、何となく名残惜しい気がします。もちろん、読もうと思えばいつでも読めるのですが…。

 10章を読んで、愚かとはどのようなことなのかと考えます。もちろんそれは、自分もその一人なのだという思いの中で考えることなのですが…。知恵ある者の心は右を向き、愚かな者の心は左を向くと2節にあります。特にこの章から自戒するのは、ことばのこと。思慮に欠けたことばを言いふらし、過ぎたおしゃべりにうつつを抜かし、確かでないことを誰かに受け売りし(そんな失敗をしたばかり)、挙げ句の果てに誰かを呪う…のです。

 私たちが置かれている危急の時、さまざまなことばが飛び交うのですが、さて自分はどんなことばに踊らされているのだろうかと考えます。改めて、知恵ある者とは動かない真理のことばに拠り頼む者なのだということをここから教えられます。


生きている間に

2020年04月14日 | 伝道者の書

伝道者の書 9章

さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。」伝道者の書 9章7節

 きのうは「イースター月曜日」の祝日。いつもの公園の反対側にある川沿いを歩いて戻って来ました。連休でどこにも出かけられない人が多いので、たくさんの人が歩いたりサイクリングしたり、ジョギングしたりしていました。

 外に出られないので「おうち時間」を楽しんでほしいと、いろいろな企画があります。その一つに「ぐりとぐらのカステラレシピ」というものがありました。「ぐりとぐら」という絵本に出てくるカステラをおうちで作ってみようと、レシピが出版社のホームページに載っています。子どもたちに何十回も読み聞かせるたびに、のどが「ごくん」となっていました。そしてついに、念願のカステラ🥧(パンケーキに近い)を焼いて食べました。

 どんな人であっても、死という同じ結末に至るという伝道者は、生きている今を楽しめと言います。どうせ誰もが死んでしまうのだから、何をしても意味がないとは言わないのです。

 「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ…」という7節以下の勧めは、生きている今、何をしどのように歩むかを考えさせてくれます。これは、「どうせみんな死んでいくのだから、やりたいことをすればいい」ということでもありません。生きている間に、神に造られた人にはなすべきことがあり、その一つがこれなのだと言っているのです。

 8節はおそらく、暑い気候の下で白い服を着て油を塗れば快適に過ごせるという意味でしょう。「神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる」ということばが心に留まります。人が限られた人生を楽しむためのものを神は与えておられる、そして人が楽しむのを喜んでおられると知ることができます。


神を恐れる者の幸せ

2020年04月13日 | 伝道者の書

伝道者の書 8章

悪を百回行っても、罪人は長生きしている。しかし私は、神を恐れる者が神の御前で恐れ、幸せであることを知っている。」伝道者の書 8章12節

 イースターの日曜日の礼拝をライブ配信で行った後で、いつものように近くの公園に…。公園内の林の中を迷いながら、見慣れた道に出てホッとしたり、飛行機が少ない空を見上げたりして、6キロ近くを歩いて帰宅しました。いつか紹介した「熊ネギ」の花も咲き始めました。辺りにはニラの香りがしていました。

 伝道者の書は8章を読みます。伝道者は探求の旅を続けています。ここでは、「物事の解釈を知っているのはだれか」という問いかけから始めます。権力者の下にいる者は、まるで時とさばきとを握られたような経験をします。いつになったら自由になれるのか、いつになったら自分にもそのような権力を持てるのかと思うかもしれません。

 一方で権力をもつ者は、時とさばきを自分が支配しているように錯覚します。おごり高ぶりです。しかし、実際のところ彼がすべてを支配しているのではありません。彼自身、自分の意に反してあっという間にいのちを落としたり、力を奪われるかもしれません。

 12節に目が留まります。悪を行う者が長生きしてさばかれるふうではないのを見ながらも、伝道者は、神を恐れる者が幸せだと言います。それは決して負け惜しみではありません。どんなに知恵のある者でも時とさばきを悟ることはできないのですが、だからこそ、すべてを治めすべてを知る神を恐れることによる平安を知っているのです。

 このような大きな出来事に際しても、平安の中にいられる幸いを覚えます。


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