みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

あなたの若い日に

2015年04月17日 | 伝道者の書

伝道者の書 12章

 

 きょうで伝道者の書は読了。きょうの箇所からは多くの人に親しまれていることばを発見できますね。3−8節は、人が老いて、ガタが来、やがて死んで行くという様子を描いています。傍で見ていればユーモラスな表現だとも思えますが、当人だとしたらそんな余裕はありません。いつか、あるお医者さんが「人の死亡率は100%です」と言いましたが、その通りですね。そして、人が死んだらおしまいなら、それこそ「すべては空」なのですが、伝道者の「ねらい」はそこにとどまりません。

 創造者なる神が日の下におられ、やがて死んだ後に待っておられるのだというのです。人は死んだら終わりではなくて、すべてをさばく神の前に立つことになる…、だとしたら、人が日の下にあるうちになすことは明らか。できるだけ若いうちに創造者なる神を覚え、神を恐れ、神に従って歩む生活を始めるということです。

 少し前までは体がどうのこうのということで、あまり自覚はありませんでしたが、この頃は以前とは違うなというようなところが出てきたような感があります。人は確実に老いていくのですね。けれども、創造者を覚えることができてほんとうによかった! と思えるのです。

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何が起こるか…

2015年04月16日 | 伝道者の書

伝道者の書 11章

 この章を読んで、どんな見出しをつけられるだろうかとあれこれ考えた結果が、本日のタイトル。5節にあるように、人には「いっさいを行われる神のみわざを知らない」のです。何が起こるかわからないから何もしないでいようとする方向もあります。けれども伝道者は、何が起こるかわからないから何かをしようというのです。

 先日、何十年ぶりに教会を訪ねたという方の話を聞きました。子どもの頃に教会の日曜学校に通っていて、イエスさまのお名前によって神さまに祈ることを覚え、以来何かあるたびにずっとそのように祈ってこられたそうです。けれども教会には行かずじまいで何十年も経ち、何度か教会の玄関まで来ては入れずに来たが「イースターの集い」の看板を見て、意を決して礼拝に参加されたのだというのです。その時、「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう」との1節のことばを思い起こしました。

 努力したことの結果を見たいというのは、私たちの願いです。ところが、なかなか結果が出なければやる気を失い、やがて努力そのものも止んでしまう、ということになります。改めて、何が起こるかわからないけれども、いっさいを行われる神に信頼して、前を向いてし続けよう、福音の種を蒔こう、愛のわざを行おうと励ます一言ですね。

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右に、左に

2015年04月15日 | 伝道者の書

伝道者の書 10章

 昨日は、常磐自動車道で仙台からいわき、水戸と辿(たど)りました。途中南相馬から国道6号線に入って、浪江、双葉、大隈、富岡を通り抜けました。折しもカーラジオからは、高浜原発の稼働差し止め仮処分が出たとのニュースが…。

 再稼働を願っている方々は一度、福島の国道6号線を走ってみたらよいのにと思います。経済優先で安い電力を、だから再稼働だとの理屈もありますが、至る所に置かれている汚染土の黒い袋を見るならば、原発は決して安くはないのではないか、との疑念も沸きます。

 「知恵ある者の心は右に向き、愚かな者の心は左に向く」とあります。右と左は正反対ですが、ちょっとの梶の切り具合では初めのうちは正反対だとは思いません。「いのちと死との分かれ道」などという言い方もありますが、多くの場合初めのうちはなかなかわからないものです。

 「気がついてみたら」と言う前に…。いや私たちはすでに、気づかされたのではなかったでしょうか。

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神の御手の中に

2015年04月14日 | 伝道者の書

伝道者の書 9章

 仙台で朝を迎えました。こちらは桜が満開。満開を二度体験できました。この時期東北をゆっくり北上すると、何度も満開の桜を見ることができるのでしょうね。

 この章は、いっさいのことが神の御手の中にあるということを、死ぬということや時と機会が誰にでも与えられるという切り口から、眺めているように思えます。

 確かに、誰にでも死は訪れます。一昨日教会の墓地で礼拝を持ちましたが、並ぶ墓石を見渡すと、人は死ぬのだということを改めて思いました。「死ぬのだから」という間違いのない事実は、いろいろな思いを人に抱かせます。どうせ死ぬのだから好きなことをしよう、どうせ死ぬのだから何をやっても空しい、…。

 伝道者はここで、どうせ死ぬのだから、生きている間のこの世の生を前向きに歩もうと促しているように読むことができます。生きているのがしあわせ、だから喜べ、楽しめと勧めるのですが、それは決して刹那(せつな)的なものではありません。

 それは、死も、時も、機会も神の御手の中にあると受け止めるから、ではないでしょうか。

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すべてが神のみわざ

2015年04月13日 | 伝道者の書

伝道者の書 8章

 雨の間の晴天の日曜日。教会の墓地で召天者記念礼拝をもちました。桜はあらかた散ってしまいましたが、代わって主役に躍り出たのが新緑。ことばでは表現できないような様々な緑の景色が墓地の向こう側に拡がっています。帰り道は隣町のカレーやさんでランチ。生まれて4ヶ月の孫が気に入ったようで、お店のインドの方が何度も抱っこしてくれました。ここのカレーはお勧め。ナンもおいしいですよ。

 日の下では、時にというかしばしば、理解できないようなことが起こると伝道者は嘆きます。正しいことが通らずに、間違っていることが大手を振るうというような…。そのようなことを体験すると人はむなしさを覚えます。

 しかし、彼は嘆いて終りません。「すべては神のみわざであることがわかった」というのは、たとい日の下におかしいと思うようなことがあったとしても、神は必ず物事を正しくおさばきになると合点するのです。ただし、いつ物事や人が正されるのかを知らされていないというもどかしさは残るのですが…。それでも、「すべてが神のみわざ」なのだという確信を捨てないで、歩みます。

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