みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

破壊、しかし終わりではない

2016年09月15日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 36章

 歴代誌は本章で終わります。ここには、ヨシヤ王の死後あれよあれよという間に、ユダが崩壊に向かって突き進んでいく様子が描かれています。ヨシヤ王の子のエホアハズ、エホアハズの兄弟のエホヤキム、そしてエホヤキムの子のエホヤキン、さらにエホヤキンの兄弟のゼデキヤと、王位はユダを脅かしていたエジプトやバビロンによってすげ替えられていきます。そして、ついにエルサレムは崩壊し、主だった人々はバビロンへと連れて行かれます。

 心に留めるのは、歴代誌の終わりと次のエズラ記の始まりとがほとんど同じことばで重なっているということです。それは、バビロンに取って代ったペルシヤのクロス王が、エルサレムに主の宮を立てるために帰還せよとの命令でした。「みことばの光」はこれについて、「歴代誌の著者は、…読者に新しい始まりを意識させようとしている」と解いています。

 さらに、列王記の終わりには、バビロン王がバビロンに捕囚されたエホヤキン王を釈放し、手厚く遇したことを記しています。エホヤキン王の名前は、マタイの福音書1章に載っているイエス・キリストの系図に「エコヌヤ」という名で出てきます。背信の罪によって南王国ユダは崩壊しましたが、ダビデの家のともしびはそのような中でも消し去られることはありませんでした。

 「私たちは真実でなくても、彼(イエス・キリスト)は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである」とのテモテへの手紙第二、2章13節のことばを覚えます。

*刈り入れるばかり

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過越、エジプト

2016年09月14日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 35章

 ヨシヤの宗教改革のクライマックスは、過越のいけにえをささげるということでした。

 民数記9章1—4節では、エジプトを出て2年目の第一の月に、神はモーセに過越のいけにえをささげよとお命じになりました。神がエジプト人の男子の初子や家畜の初子を打ちながらも、小羊の血を門柱や鴨居に塗ったイスラエルの家の初子を過越されたという出来事に由来しています。それをモーセをはじめとした民が思い立って行おうとしたのではなくて、神がささげよとお命じになったということが肝心だと思います。

 ヨシヤは、国を挙げて過越をささげました。18節には、「預言者サムエルの時代からこの方、イスラエルでこのような過越のいけにえがささげられたことはなかった」とありますので、ヨシヤがどれほどの思いを込めて過越のいけにえをささげたのかを想像できます。

 ところが、この章の後半にはヨシヤの死の原因が書かれています。しなくてもよい戦いに挑んだヨシヤ王が、エジプト王のネコによって打たれてしまうのです。なぜ、神の前にこれほどの熱意をもって改革を成し遂げた王が、ここでは行き過ぎてしまったのだろうかという疑問が湧きます。もしかしたら、エジプトを出たことの過越をささげたヨシヤにとって、エジプトの王がユダに上って来るというのは許しがたいことだったのかもしれないと想像してしまうのです。

 過越のいけにえをささげた時とネコが上って来た時との間には開きがありますが、過越〜エジプトという思いが、ヨシヤを突っ走らせたというのは考えすぎでしょうか。

 

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定めの場所に立ち

2016年09月13日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 34章22−33節

 きのうは「みことばの光委員会」がありました。「みことばの光」が何を目指して発行されるのかを確認し、その目的に沿って何をどのようになすのかを熱く語り合うことができたと思います。編集者として心強い励ましをいただきました。

 さて帰り道は電車が遅れて大混雑。お土産に買い求めたお菓子がギュッとつぶれてしまうほどでした。味は変わらないのですが…。久しぶりの満員電車体験でした。

 発見された律法の書を聞いたヨシヤ王は、自分の罪を悔い改めたことにとどまらずに、国中に神のことばを読み聞かせる必要を覚えて、今度は自らが主の宮で人々に律法を読み聞かせ他というのがきょうの箇所にあることです。

 「みことばの光委員会」では、読んだみことばから教えられたことを互いに分かち合うことの大切さを確認したことでしたが、神のことばに深く教えられたヨシヤは、それを一人でも多くの人とともに分かち合いたいと考えたのでしょう。

 心に留めたのは、31節の「王はその定めの場所に立ち」ということばです。そこは、王が主の宮に集まったすべての民に神のことばを読み聞かせた場所です。キリスト者として自分は、本来立つべき定めの場所に立っているのだろうかと、心を探られる一言です。

*日曜日お昼のごちそうの一部

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聞いたとき

2016年09月12日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 34章1−21節

 蒸し暑く感じていた数日でしたが、ここに来て夜はだいぶ涼しくなりました。きのうの日曜日には、昨年3月まで務めていた教会の礼拝に出席しました。ここ数年の「ベビーブーム」で、小さな子どもたちがいっしょにいる、これまでどおり障がいある方々もいっしょにいる礼拝でした。6月に日本に帰国したMさん家族とも久しぶりに再会。二人のお子さんの成長に改めてびっくり! 

 礼拝後はたくさんの美味しいごちそうといっしょに、私たちの報告会を持ってくださいました。ごちそうさまでした!

 8歳で王となったヨシヤは、南王国ユダ最後の「善王」として知られています。彼は16歳でダビデの神を求め始め、20歳で国中から偶像を除いてきよめ、そして26歳でエルサレムの主の宮の修理に取りかかりました。まさに主を求めて「右にも左にもそれなかった」のです。

 ひたむきに神を礼拝するための環境を整えたヨシヤ王に、神は律法の書を発見するという機会を用意なさいました。それを読んだときの、「自分の心を裂いた」という王の態度に心を留めました。ヨシヤは律法のことばに国の実情を照らして神の前に悔い改めました。王であるから一番の権力を持っているとして、神のことばを斥けることをしないで、率先して神のことばの規準に従って悔い改めました。彼は王になってからずっと主を求めてきたのですから、ここで彼が自分の衣を裂いたのは、これまでのイスラエルとユダの犯した罪を悔い改めたということです。

 「私はいっしょうけんめいやっているのでその必要はない」としなかったヨシヤに、リーダーのあるべき姿を見るのです。

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祈るヒゼキヤ

2016年09月10日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 32章20−33節

 きのうは孫が通っている幼稚園を訪ねました。子どもたちの祖父母たちを招待しての保育の日だったのです。子どもたちの歌に答えて、私たちが歌うようにと用意されたのは、「上を向いて歩こう」と「およげたいやきくん」の2曲でした。歌詞を見ながら歌ってみると、「ああ、たいやきくんは結局食べられてしまったのだ」と今さらながらの発見(遅すぎますね)。

 聖書は読む度に新しい発見があると言われます。きょうの箇所についても、同じ出来事について記す列王記第二19−20章を読むことをお勧めします。歴代誌では20節に「そこで、ヒゼキヤ王と亞モツの子預言者イザヤは、このことのゆえに、祈りをささげ、天に叫び求めた」とありますが、列王記には具体的にヒゼキヤが何を祈ったのかが次のように記されています。

 「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばを聞いてください。主よ。アッシリヤの王たちが、国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知りましょう。」(列王記第二19章15−19節)

 主を信頼して祈るヒゼキヤの祈りを主はお聞きになり、アッシリヤ軍は一夜のうちに主が遣わした一人の御使いによって全滅させられたのです。

 さらにヒゼキヤは、病を主がお癒しになった時に祈っています。これはイザヤ書38章9—20節にありますので、ご確認ください。

 祈りという、神とのホットラインを持つ者の真の強さを、ヒゼキヤは証ししているように思います。

*幼稚園からの帰り道の風景

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