みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

上って行くように

2021年09月15日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 36章

 週に一度、南ドイツ、スイス、チェコの方々が朝6時からしている「ネット・グループ・デボーション」に飛び入り参加しました。「みことばの光」のその日の箇所を読み、背景を探り、節をたどっていきます。昨日は35章でした。気がついたら2時間が経っていました。一人で読むのも素晴らしい恵みの時ですが、分かち合うことで新しい気づきが与えられます。「みことばの光」はこのように用いられているのですね。

 歴代誌最後の章です。やっとここまで来たか、と安堵しているでしょうか。

 ユダ王国最後の信仰の王ヨシヤの死後、ユダは駆け足で滅びに向かっていきます。後継者エホアハズはヨシヤを殺したエジプトによって退けられ、エホヤキムがエジプトの意にかなった王として即位させられます。しかしエホヤキムはバビロンによって捕えられ連れて行かれてしまうのです。エホヤキムの子エホヤキンはわずか三か月と十日で退けられ、バビロンの意にかなうことを求められたゼデキヤがユダ最後の王になるのですが、バビロンに背いたために、王国は最後を迎えます。

 しかし、歴代誌はユダの滅亡で筆を置きません、バビロンの次に世界の覇権を手にしたペルシアのキュロスのことばを最後に記すのです。「その者は上って行くようにせよ」とは不思議な終わり方です。しかし、「この先に何かがある」と希望を感じさせることばでもあります。このことばこそ、歴代誌の「ねらい」なのではないかとして読みました。

 歴代誌は、ヘブル語旧約聖書の最後に位置する書です。新しい出発をするために、自分たちの歴史を振り返り過去から学ぶ…、これが歴代誌です。「ユダは滅びた。しかし、それで終りではない。神は自分たちに希望を与えておられる」ということを、最初に読んだ人々は確信したのです。未来に希望を持って生きよというメッセージを、今歴代誌を読む一人ひとりにも届けていると、読み終えるに際して心に抱きました。


覚え続ける

2021年09月14日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 35章

 土曜日に故障した自動車を、月曜日にいつもの修理工場で直していただきました。点火プラグとイグニッションコイルを交換して、快適に走るようになりホッとしています。でも、最近はもっぱら歩いて用を済ますようになっているので、自動車の出番は以前よりは少なくなったと思います。

 ヨシヤ王による宗教改革のまとめは、国を挙げて行った過越(すぎこし)の祭でした。少し前にヒゼキヤ王の改革について書かれている箇所を読みましたが、ヒゼキヤもヨシヤも改革の仕上げのような位置づけで過越の祭を祝いました。

 過越の祭とは聞き慣れないかもしれませんが、モーセに率いられたイスラエルの父祖たちが奴隷の家エジプトを出る最後に、神がエジプトを打たれた時、家の門柱と鴨居に羊の血を塗ったイスラエルの家への災いを過ぎ越された出来事に由来しています。

 18節に「預言者サムエルの時代以来、イスラエルでこのような過越のいけにえがささげられたことはなかった」とあります。これは「国を挙げて」という意味で語られているのかもしれません。一人の王の神への熱心の集大成がこの祭りだとも読めます。クリスチャンにとって過越は主イエスの十字架。覚え続けよとの促しを受ける箇所です。

 この章の終りにはヨシヤの最後が書かれています。「惜しい! もっと生きていたら」と思います。それとともに、神が人のいのちを、たとえそれがその人の不注意によるものであったとしても、治めておられるという思いにもなります。


彼らの誓いは?

2021年09月13日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 34章22−33節

 8歳で王になったヨシヤは、16歳で主を求め、20歳でユダとエルサレム、さらにアッシリアに滅ぼされた北王国をもきよめました。8歳で即位した彼について歴代誌は「右にも左にもそれなかった」と書いているのですが、そのとおりに主を求め、行動に表すのです。

  そして26歳の時、主の宮の修理をしている時に律法の書が見つかります。それを読み聞かされたヨシヤ王は神の前に深く罪を悔い改めます。

 ヨシヤが女預言者フルダのところに行かせたのは、神が今、ユダをどのようにご覧になり、何をなそうとしておられるのかを知るためでした。神はフルダによって神のさばきが現実であることを語られます。それとともに、ヨシヤの真実な悔い改めゆえに今ある民が災いには会わないと、あわれみを明らかにされます。

 それを聞いたヨシヤは神に従って歩むことを民の前で誓い、さらに民にもこの誓いに加わるようにと促すのです。しかし、ヨシヤの治世の13年に預言者としての働きを始めたエレミヤは、この時代の人々のことを次のように語っています。

 「ユダの王、アモンの子ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に主の言葉があり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。」(エレミヤ25章3節)

 エレミヤによって神がお語りになったことによるならば、ヨシヤといっしょに誓った民の誓いとはどのようなものだったかと、疑問が湧いてきます。もしかしたら、彼らの誓いは表向きのものだったのかもしれません。


悔い改めた王

2021年09月11日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 33章

 先日、公園の林檎について書きましたが、昨日は2個だけもぎって、歩きながらいただきました。渋くて甘い味。あまり採られていない理由が分かりました。

 信仰の王ヒゼキヤの後継はマナセ。しかしその歩みはヒゼキヤとはまったく違うものでした。列王記や歴代誌を読んでいて不思議に思うのは、偶像に走る王の子どもが神を敬ったり、神の前に敬虔な王の後継がとんでもない王であったりするということです。

 クリスチャンの家庭では、信仰の継承が課題だと言われますが、このような箇所を読むと、「こうやったらうまくいく」とか「親がこうであれば子どもも…」などと簡単には行かないのではないかとの思いにもなります。どんなに良い環境の中で育ったとしても最も大切なお方を選ぶのか背を向けるのは、その人自身なのだということは確かなことです。

 マナセは、父ヒゼキヤ王の時代が神殿の修復をはじめとする改革をぶち壊してしまいました。しかし、マナセの治世は南王国ユダの王たちの中では最も長い55年です。無能な指導者ではなかったのでしょう。マナセはいわゆる「親アッシリア」の姿勢を持つことで、国の延命を図ったのではないか、ということが考えられます。「偶像導入」もその一つかもしれません。

 主はマナセの背教に黙ってはおられません。マナセはアッシリアに捕えられてバビロンに引いて行かれます。そこで彼は罪を悔い改めたと歴代誌は記します。しかし、列王記はこのことには触れないのです。歴代誌の読者は神に背いて国を失った民の子孫。国の再出発に際して、罪を神に悔い改めるならば神は赦してくださる、だから罪を悔い改めて立ち上がろうというメッセージを届けようとして、マナセのこの出来事を人々に伝えたのではないでしょうか。


ホットライン

2021年09月10日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 32章20−33節

 「昨日まではまだ緑色だったのに…」見上げると木の葉が秋の装いをまとっています。秋がやって来ました。当地の秋は駆け足で通り抜けるように思います。

 ヒゼキヤ王は強大なアッシリアを退けることに成功しました。センナケリブの怒濤の勢いはしぼみ、帰国後彼は殺されてしまいます。一方のヒゼキヤは、あのアッシリアを破ったゆえに評価は高まり、23節によると「すべての国から尊敬の目で見られるように」なったのです。

 しかし、聖書はヒゼキヤの別の面を記します。彼はまるで、ジェットコースターに乗っているかのように、昇らされたり降らされたりということを経験するのです。彼は病に倒れて死の淵に立たされます。この出来事は、アッシリアのユダへの攻撃、エルサレム包囲以前のことと考えられています。

 病の中で祈るヒゼキヤに主はしるしをくださったとあります。列王記第二20章に書かれている、主が日時計の影を10度戻されたという出来事を指しているのでしょう。

 癒やされたヒゼキヤは、しかし心を高ぶらせ、主の怒りが下ったと25節にあります。それは、バビロンからの使節に見せなくても良いものまでを開示してしまったという罪を犯すのです。ここでもヒゼキヤは主に祈ります。ここでは罪を悔い改める祈りです。

 ここを読んで気づくのは、彼は二つの大きな人生の危機を、どちらも主に祈ることによって通り抜けることができたということです。病を得ることもあります。罪を犯して主のみこころを踏み外すこともあります。しかし、私たちにはヒゼキヤのように、祈りというラインが天との間に結ばれているのです。たくさんのラインが互いの間に結ばれている現代、最も確かなものは、神との間のホットラインです。


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