みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

自分を省みるとき

2020年04月30日 | 列王記第一

列王記第一 2章1−15節

私は世のすべての人が行く道を行こうとしている。あなたは強く、男らしくありなさい。」列王記第一 2章10節

 激動の4月が終わろうとしています。見えない敵を相手に、人類は静かな戦いをしているようです。その戦いの中で同士打ちをしたり相互不信に陥ったり、しかし一方で利他の行為に感動の涙を流すこともありました。あなたの4月はいかがでしたか。

 この箇所には二人の死が描かれています。

 ダビデは死を前にして、後継の王ソロモンに王としての務めを授けます。その中にはヨアブ、バルジライ、シムイになすべき正しいことを行うようにとの課題もあります。ダビデが死の間際までやり残したことをソロモンに負わせたということではありません。決して個人的な恨みを果たしてほしいと頼んだのでもありません。

 彼は、「世のすべての人が行く道を行こうとしている」この時、改めて自分を省みるとともに、この国が神の選びにふさわしくあるために何を為すのが新王の務めであるかを知り、課したのです。

 アドニヤは、こともあろうに老いた父ダビデの妻であったアビシャグを妻にしたいとの願いを明らかにします。きょうの「みことばの光」にはこのことについて、「アドにやには何の悔い改めもなかった」と書いています。自分を省みるどころか、せめて自分の欲望を成し遂げたいと願う姿には惨めささえ覚えます。15節の彼のセリフは、まるで自分ではなくソロモンを王とした主が間違っていると言いたげでもあります。

 死の間際にならなくとも、毎日自分を省みるときを持てるのは幸いなことだと、そのための道を、主イエスが設けてくださったのはありがたいと、心から思います。


雌ろばに乗る王

2020年04月29日 | 列王記第一

列王記第一 1章32−53節

王は彼らに言った。『おまえたちの主君の家来たちを連れて、私の子ソロモンを私の雌ろばに乗せ、彼を連れてギホンへ下れ。』」 列王記第一 1章33節

 ある方から手作りのマスクを送っていただきました。一生懸命作られたことが分かります。早速ペアで記念写真を! ここではお見せできませんが…。今週から当地では電車やバスに乗る時、お店にはいる時にはマスクをつけることが義務づけられました。

 日本でマスク姿は当たり前の景色でしたが、当地では全くありませんでした。それが今ではマスクをつけるのが普通になりました。こんな時に、ありがたい贈り物でした。

 「主は生きておられる」と言ってからの老王ダビデの行動は素早いものがありました。早速ダビデの側近を呼んで、ソロモンを王にすることについての細やかな指示を与えています。神のみこころに従い、それを行うときに。神は年齢のいかんにかかわらずにそのために必要な知恵や力を授けてくださるのだと知り、励まされます。

 ここでは、ソロモンがダビデの雌ろばに乗ることも指示されています。やがてイエス・キリストがろばに乗ってエルサレムに入城する姿へと通じるような情景です。

 現王の雌ろばに乗るということは、ソロモンが正式に王になったことを示すものですから、アドニヤがいくら多数派工作をしても何の力もありません。新しい王の前で、いのち乞いをするアドニヤの姿は哀れです。神によらずに悪意によってつながれた絆のもろさのようなものもここからおぼえるのです。


「主は生きておられる」

2020年04月28日 | 列王記第一

 「王は誓って言った。『主は生きておられる。』主は私のたましいをあらゆる苦難から贖い出してくださった。』」 列王記第一 1章29節

 久しぶりに、隣町にある韓国と日本の食材を扱っているお店を訪ねました。店主ご夫妻はお元気で互いに無事を喜びました。禁止されている教会での礼拝の再開について、方向が出されつつあります。

 王位の継承をもくろむアドニヤを食い止めようとする、バテ・シェバとナタンの行動、ことばがここに記されています。昨日も書きましたが、ナタンもバテ・シェバも神がお考えになっていることに従わなければ、という一心で行動しているのです。

 6節に「彼(アドニヤ)の父(ダビデ)は、『おまえは、どうしてこんなことをしたのか』と言って、彼のことで心を痛めたことは一度もなかった」とありました。あるいはこの時も、ダビデはアドニヤの行動に何も言えないままにしようと思っていたのかもしれません。

 しかし、バテ・シェバとナタンのことばが、ダビデに生気を取り戻させました。「主は生きておられる」ということばは、流れに逆らわないとか、多数の声に従おうとするのをやめて、主のみこころを求めそれに従おうとの決意の表れではなかったかと考えるのです。

 聖書には、「主は生きている」ということばが慣用句、あいさつことばのように用いられている場面もありますが、ここではことばどおりにダビデの思いがイスラエルの王として戻るべきところに戻ったということを表しています。

 多数の声に流されず立つべきところに立つために、「主は生きておられる」との事実に気づかされるのは大切なことです。

*本日はプロバイダーのメンテナンスで、アップロードが遅くなりました。おわびいたします。


くみしない人々

2020年04月27日 | 列王記第一

列王記第一 1章1−14節

しかし、祭司ツァドクとエホヤダの子ベナヤと預言者な単、それにシムイとレイ、およびダビデの勇士たちは、アドニヤにくみしなかった。」列王記第一 1章8節

 きのうの礼拝で、詩篇136篇を交読しました。司会者と出席者が交互に読んでいくのですが、この136篇は出席者側は「慈しみはとこしえに」(新共同訳聖書)ということばだけを繰り返すのです。司会者の部分では、創造から出エジプト、さらにバビロン捕囚とイスラエルの歴史の中で神が民に与えられた恵みを次々と読み上げていきます。

 さて、「慈しみはとこしえに」という同じことばをどのような口調で、というよりもどのような思いで読んでいくだろうかと礼拝を終えても考えていました。神の慈しみ、恵みのみわざを数え上げることを毎日する、そんな一週間を過ごしたいと思いました。

 「みことばの光」は、今日から列王記を読みます。しばらくは、列王記とルカの福音書を交互に読んでいくことになるのです。そして列王記の初めに描かれるのは、弱りゆくダビデ王の後継者を巡っての確執です。父王が衰弱していく様子を見て後継者として名乗りを挙げたのはアドニヤ。彼は生き残っているダビデの子どもたちの中で最年長だったこともあり、自分が後を継ぐとして立ち上がったのです。

 そして彼が試みたのはいわゆる多数派工作。ダビデ王の下での将軍として幾多の戦いも制したヨアブ、そして祭司のエブヤタルを自分の側に引き入れます。しかし預言者ナタンはこれにくみしません。なぜでしょうか。アドニヤを個人的に嫌っていたとか、王にふさわしくないと見ていたとかという理由ではありません。

 ナタンは、預言者としてダビデの後継の王は神がお定めになっているとの確信に基づいて行動するのです。ナタンはソロモンの母バテ・シェバにアドニヤの企みをダビデ王に知らせるようにと告げます。そのことばが13節です。

 右か左かを判断しなければならない時に、信仰者は何を考慮するのでしょう。


イエスの前に

2020年04月25日 | ルカの福音書

ルカの福音書 5章12−26節

しかし、大勢の人のために病人を運び込む方法が見つからなかったので、屋上に上って瓦をはがし、そこから彼の寝床を、人々の真ん中、イエスの前につり降ろした。」 ルカの福音書5章19節

 晴天が続いています。このような陽気を"Postkarte Wetter" と言うのだと、ある方が教えてくれました。陽射しと青い空、それが花の色と木の新緑を輝かせているような天候のことらしいですね。まさに「絵はがきのように美しい天気」です。

 ここは、イエスが二人の病を癒されたという記事です。一人は全身ツァラアトに冒された人、もう一人は中風をわずらっている人です。ツァラアトというのは旧約聖書のヘブル語で、皮膚だけでなく家の壁や衣服にも表れるので、「皮膚病」とは訳さずに、新改訳聖書ではそのままのことばを用いています。

 この二つの出来事を比べてみて、いろいろなことが分かります。どちらも病に冒されているということでは同じ悩みを抱えています。一方の人は自分でイエスのところに来ましたが、もう一方の人は友人に連れて来られました。

 私はここで、イエスが二人をどのように癒やしたのかが心に留まります。ツァラアトに冒された人には、手を伸ばしてその人にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と声をかけられました。中風の人には、まず「友よ、、あなたの罪は赦された」と言われ、さらに「起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい」と声をかけられました。

 大切なのはイエスの前に出ること、イエスのところに行くことなのだということを教えられます。信仰とはこのことです。イエスは、一人ひとりに最もふさわしいことばをおかけになってその人を癒やし、罪をお赦しになるのだということなのですね。


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