みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

みな同じように

2020年07月31日 | ルカの福音書

ルカの福音書 13章1−9節

「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」 13章3節

 7月最後の日、予報では当地の気温が35度、明日は36度となっていました。私たちが住むのは最上階の屋根の下なので、さではきっとたいへん! と氷を作って備えることにしました。どうなるでしょうか。

 何かの事件や事故に巻き込まれていのちを落とすようなことがあると、何が悪かったのかなどと無責任な詮索をするようなことがあります。日本では昔から、「罰(ばち)が当たる」ということばがあります。

 二つの事件をめぐっての2節と4節のイエスの問いかけは、事件の原因をそのように考える人が圧倒的に多かったということをうかがわせます。しかし、イエスは「そんなことはありません」と否定します。

 心に留まるのは、「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」と3節と5節で繰り返されていることば。神の前に罪を悔い改める必要のない人は誰もいないということを教えておられるイエスのことばには、もしも罪を悔い改めるのであれは、神は赦してくださるという約束も伴っています。

 6節以降にあるイエスのたとえは、悔い改めを先延ばしにすることなくとの促しでもあります。「見よ、今が恵みの時、今は救いの日です。」(コリント人への手紙第二 6章2節)


あなた任せでなく

2020年07月30日 | ルカの福音書

ルカの福音書 12章49−59節

「あなたがたは、何が正しいか、どうして自分で判断しないのですか。」12章57節

 「みことばの光」では、ルカの福音書をゆっくりと読み進めていく感があります。ここでイエスは、ご自分が再びおいでになる時に備えてという文脈の中で話しておられます。

 弟子たちには、イエスが再びおいでになるまでに避けられない「分裂」について話されます。それはイエスを巡っての分裂です。イエスは弟子たちに人と人との円滑な関係、波風の立たない人間関係の術(すべ)を教える宗教家、道徳家ではありません。むしろ「地上に火を投げ込むため」に来たと言われるのです。

 イエスはいわゆる「七つの幸い」の中で、「平和をつくる者は幸い」であると言っておられます。しかし、その平和とは、「まあ、いろいろあるけれども、ここは仲良く…」というようなものではないと、この箇所から分かります。

 群衆には、時代をを見分けよとお語りになります。今がいつで、どこに向かっていくのかを見分けよと言うのです。最初に書きましたが、イエスのここでのことばは、ご自分が再びおいでになる時に備えてという文脈でのもの。そうであれば、この時群衆に話すナザレ人のイエスが彼らにとって誰なのかについての決断を迫っているのです。

 「何が正しいか、どうして自分で判断しない」のかとの問いは、先入観や誰かに偏見を吹き込まれて思考停止をしている彼らに、よく考えよと迫っているのです。あなた任せにすることなくと、心に迫る問いかけです。


思いがけない時に

2020年07月29日 | ルカの福音書

ルカの福音書 12章35−48節

「あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのです。」12章40節 

 梅雨明けが待ち遠しい日本ですが、先日災害時の「避難勧告」と「避難指示」がどのように違うのかが分かりにくいので一つにすることを検討中だとのニュースがありました。間違えるといのちが失われることなのですね。

 ここでイエスは二つのたとえを用いておられます。それぞれのたとえの鍵のことばは、「思いがけない時に」です。

 初めは、主人の帰りを待つしもべたちのたとえです。ここでしもべたちは、いつ帰って来るのかが分からない主人を待ちます。「腰に帯を締め」は準備ができているということです。そして思いがけない時に帰って来た主人は、今度は自分が腰に帯を締めて待っていてくれたしもべたちをもてなし、給仕するというのです。

 ここから、キリストの再臨を待つ者たちへの祝福の約束を覚えます。再びおいでになった時、キリストは待ち続けていた者たちに宴、祝福を与えてくださるのです。それがあまりにも素晴らしいものなので、しもべたちはおいでになるのを待ち続けられるのです。

 次は、主人からしもべたちを任された管理人のたとえです。ここでも主人は思いがけない時に帰って来ます。いつ主人が帰って来てもよいように管理人としての務めを忠実に行う者と、「どうせ遅くなる」として自分が管理人であることを忘れて務めを怠る者がここには出てきます。そして、帰って来た主人から彼らはそれぞれの生きかたに応じての報いを受けます。

 心に留めたは「主人の思いを知る」ということば。47−48節から「それなら、主人の思いを知らないほうがよい」という結論は導き出せません。

 自分は主の御思いを知っているのだろうかと、そして、知っていたいと願うのです。


小さな群れよ

2020年07月28日 | ルカの福音書

ルカの福音書 12章22−34節

「小さい群れよ、恐れることはありません。」12章32節

 動画サイトで学習して、購入したバリカンで散髪してもらいました。概ね良好。でもちょっとだけ「タイガー」部分も…。気になるのですが、だからといっていじるとどんどん短くなって…と悲劇が訪れそうなので、生えてくるまで我慢することにしました。私の担当も概ね良好のようです。それにしても、プロ用のバリカンは素晴らしい!

 ここも、イエスが弟子たちへのことばです。ここでは、イエスに従い、イエスに遣わされるものが直面する問題、具体的には「何を食べようか、何を着ようか」ということを心配するのをやめよとの勧めです。

 イエスはいわゆる「山上の説教」の中で同じことを教えておられるのですが、ここはエルサレム途上での弟子たちへの教えですので、特に弟子として味わうことになる苦難の一つとしての何を食べるか、何を着るかなのだと考えることもできます。

 イエスが彼らを遣わすのだから、何の心配もいらないというのは、10章で弟子を派遣する際からの一貫した教えです。

 32節のことばに目を留めました。「小さい群れよ」と主イエスは呼びかけます。イエスに従う者たちは、常に「小さい群れ」なのではないだろうか…と。そして前節では、あれこれ心配することなく、むしろ大胆に「御国を求めよ」とあります。その続きとしてイエスは、天のお父さまは小さな群れであるイエスの弟子たちに、喜んで御国を与えられると約束しておられるのです。小さいことに嘆くなかれ!

 縮こまりがちな今、心が大きくされるようなことばだと思いました。


自分の、自分の、自分の…

2020年07月27日 | ルカの福音書

ルカの福音書 12章13−21節

「自分のために蓄えても、神に対して富まないものはこのとおりです。」12章21節

 少し前に公園の林檎の話をしましたが、こちらではお家の庭やいわゆる貸し農園にも林檎など果物の木があります。もちろん、人様の庭や畑の果物は、それがどんなに美味しそうに見えても採ることはできませんね。でも、スーパーでも買える林檎なのに、どうして採って食べたくなるのでしょう。

 ここでイエスが話しておられるたとえに登場する金持ちの農夫は、努力家であり、賢くもあります。収穫物を無駄にすることなく蓄えるという術を心得ています。でも、神は彼を愚か者だと言われます。神のことばにはおべっかやうそがありません。裏も表もありません。ですから、神は彼はまさしく愚か者だと評したのです。

 彼の愚かさとは何でしょう。「休め、食べて、飲んで、楽しめ」と自分に言うことでしょうか。そうではなく、彼のことばに目を留めて読みますと、「私の作物」「私の倉」「私の穀物や財産」そして、「自分のたましい」ということばが連なります。「私の…」「自分の…」ものだと取り違えていたことが愚かだと神はご覧になったのです。

 彼が自分のものだとしたものは、突き詰めて考えるならば、神が与えられたもの。その神は彼のいのちをおとりになることのできるお方です。彼の生活設計は、実は彼を生かし、働かせてくださる神を除外したものでした。

 そして、「神に対して富む」とはどのようなことなのでしょうか。


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