みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

神の前の静けさ

2022年11月30日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 8章

 11月最後の日。今年も一か月を残すのみになりました。

 8章は、子羊が七つ目の封印を解いた時に、ヨハネが耳にし、目にしたことが記されています。1節の「天に半時間ほどの静けさがあった」とあります。その後に起こる出来事を考えるならば、この静けさは、神への畏怖に基づくものなのかもしれません。そして、この後に起こる大きなことを予告する静けでもあるのです。私たちが静けさを苦手だとするのは、もしかしたら神の前に立つことを恐れているのかもしれないと、ここから思います。

 次にヨハネは、七人の御使いを見ます。御使いには神から七つのラッパが与えられています。さらに別の御使いは、金の香炉を持って祭壇のそばに立ちます。そして、御使いによって多くの香が神の前に立ち上ります。香は神への祈りに添えられるものだとも書いてあります。祈る者への励ましを得ます。それは、私たちの祈りは神に聞かれているという励ましです。「祈るなんて」「祈るよりも何かをする!」と人は考えます。そうではないのだと、ここから教えられます。「一緒に祈りましょう」はあらゆる課題や問題を解く鍵だ、と思うのです。

 御使いが金の香炉に祭壇の火を満たして地に投げつけると、雷鳴、稲妻、地震が起こりました。七人の御使いがラッパを吹くと、次々に大きな災いが地を襲います。7節以降に描かれる壮絶な光景は、出エジプトの出来事の折りに、神がエジプトに行った不思議/災いと繋がります。ご自分の民の新しい出発のために、彼らを苦しめていたエジプトにさばきが下ったように、神を恐れることのないこの世に神のさばきが下る様子が、ここに描かれます。ラッパは、聖書では終わりの始まりを告げる時、警告として吹かれます。

 本日の「みことばの光」には、本書の最初の読者であるキリスト者たちは、ヨハネが見たこの劇的な幻を、解放の恵みとして聞いたと書いてあります。

 それは、私たちにとっても同じです。


礼拝者たち

2022年11月29日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 7章

 きのうの写真は、子どもたちといっしょに作ったクリスマスのかわいいローソク。5個を一つの袋に入れて、4日に行う地域のクリスマス市(いち)でおわけします。そして売り上げは、この冬ウクライナ・オデーサの教会が取り組む「ホープ・ウィンター」に役立てていただけたらと考えています。

 6章が子羊の贖いを受けない人々の絶望が描かれているとしたら、本章は贖われた者たちの真の希望が輝いているといえるかもしれません。

 ここでヨハネは不思議な光景を見ます。四人の御使いが地の四隅に立って、地にも海にもどんな木にも風が吹きつけないようにしているのです。「地の四方の風」とは、前章で四つの封印が解かれた時にヨハネが見た四人の騎手を指しているようです。それは、もう一人の御使いが地にある神のしもべたちの額に印を押し終えるまでのことだと言います。「みことばの光」は、この間も神は一人でも多くの人を救おうとしていると説きます。あるいは厳しい患難の中にある信仰者を守ろうとしているようでもあります。

 そしてヨハネの耳に、印を押された者たちの数が聞こえてきます。「押された」というのは完了形の動詞。大きな患難の中で、神はわざわいから守られる人々を置いておられ、永遠に印が押されたのです。

 イスラエルの子らのあらゆる部族とは何を指すのでしょう。21章12節には、新しい天と新しい地における都の12の門に、イスラエルの十二部族の名が記されていたと描いています。ヤコブの手紙1章1節には、「神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、離散している十二部族にあいさつを送ります」と書いています。これはキリストの教会を指しています。パウロはガラテヤ人への手紙6章16節で、教会を「神のイスラエル」と読んでいます。

 後半には、白い衣を身にまとった人々、すなわち信仰のゆえに殉教した人々が、神と子羊とを礼拝している様子が描かれます。この光景は礼拝とは何かを伝えています。私たちは、賛美すべきお方を賛美しているか、感謝、誉れ、力、勢いが世々限りなくあるようにとして、礼拝しているだろうかと……。


子羊の怒り

2022年11月28日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 6章

 待降節の最初の日曜日。クリスマス朗読劇の練習がありました。前回の時よりも一段と上達した子どもたち。11日の「本番」が楽しみです。

 ここでは、巻物の七つの封印が次々と解かれていきます。前章で明らかにされたように、封印を解くことができるのは子羊。神の子羊として十字架に架かって屠られたイエス・キリストです。

 しかし、次々に解かれることによってヨハネが見る光景はどれもが悲惨なものです。白い馬に乗る者は征服者、赤い馬に乗る者は平和を奪い取る者、黒い馬に乗る者は飢饉を象徴しています。そして青ざめた馬に乗る者は「死」だというのです。

 これらはヨハネがパトモスの島でこの幻を見てから今まで、この世界が何一つ克服できないままでいるものです。そしてこれらは、神が定めた日までなおも人を嘆きと悲しみに追いやります。

 それゆえ、第五の封印が解かれたときにヨハネが見た天上の景色では、殉教者たちがなぜ血の復讐を地上で行わないのかと、主に問うています。10節に「聖なるまことの主よ」とあります。それは地上の悲惨な出来事を引き起こす者たちに、正しいさばきをという願いが込められたことばだと思います。

 しかし、子羊が第六の封印を解いたとき、地上で悪を行う者たちへの子羊の怒りが下るのです。あらゆる人々が天変地異に恐れる様子が15節に描かれます。

 自分にとって子羊が誰なのかは、ここに描かれるさまざまな出来事を見る分かれ目になるのです。


屠られた子羊こそ

2022年11月26日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 5章

 創造主への礼拝が4章での幻だとしたら、5章のそれは贖い主への礼拝です。そしてここでは、七つの封印で封じられていた巻物の封印を解くのにふさわしいのは誰かという、問いかけへの答えが明らかにされます。

 巻物に書かれているのがこれから先起こることだというのは、本書を読み進めていくとわかるのですが、ここでは、誰が巻き物を開き、封印を解いて見ることができるのかというのが課題です。

 ヨハネは4章1節で「この後必ず起こることを、あなたに示そう」という声を聞きました。ですから、巻物を見た時、彼はこの中に書かれていると信じて疑うことはありませんでした。ところが、それを開くことのできる者はこの世界には誰もいないのです。ヨハネの落胆はどれほど大きなものだったのか、それが号泣に表れているのです。

 その時彼は、巻き物を開いて七つの封印を解くことができるのは、ユダ族から出た獅子、ダビデの根だと知らされます。ここでヨハネは、獅子の姿を思い描いたことでしょうが、実際に彼の目の前に現われたのは、子羊でした。その姿を6節では「屠られた姿で子羊が立っている」と描いています。そして子羊が御座についておられる方から巻き物を受け取ったのです。イエスはユダ族から出た獅子であられながらも、子羊としてこの世界に登場されました。そして、屠られたのです。何のために…。その血によって人々を神のために贖われるためでした。

 この章の後半には、御座についておられる方と屠られた子羊への賛美がささげげられます。屠られることによって勝利する子羊。このお方こそ、私たちが賛美すべき主です。

 日曜日から待降節。幸いな時でありますように。


必ず起こること

2022年11月25日 | 創世記

ヨハネの黙示録 4章

 80歳で天に召された方の葬儀に参列しました。伝道者の書7章2節に「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ」ということばどおりでした。

 黙示録は4章から次のセクションに入ります。1節にあるように、この後必ず起こることを主イエスはヨハネに伝えるのです。

 それに先立ってヨハネは、じつに不思議な光景を次々に見ることになります。天にある開かれた門、天の御座、御座の回りの虹、御座の回りの24の座。そこに座す24人の長老たち、御座からひらめく稲妻、御座の前の火のついた7つのともしび、御座の前のガラスの海、さらに、四つの生き物。

 また彼は、さまざまな音も聞きます。ラッパのような音で語りかける声。これは1章10節にもありました。イエスの御声です。雷鳴、生き物の翼の音、生き物による絶え間のない神への賛美です。まさに、ヨハネは神の臨在、御国の輝きを五感で味わったのです。それは、これから彼が見ようとしている幻が揺らぐことなく確かなものだということを、そして必ず起こることを確信させるに十分なものでした。

 24人の長老が自分たちの冠を御座の前に投げ出して、主お一人が栄光と誉れ、力を受けるにふさわしい方だとする姿に、自分が何を求められているのかを教えられます。人よ高ぶるな、神の前にへりくだり、ひれ伏せと…。


2011-2024 © Hiroshi Yabuki