みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

ただ中にいる神

2020年03月19日 | ゼパニヤ書

ゼパニヤ書 3章

 この章からは、ご自分の民への神の熱い思いが伝わってきます。

 神のことばは再びイスラエルの民へと向けられます。1−4節には、神の都エルサレムの政治家、預言者、祭司たちの堕落した姿が浮彫にされます。民を神のみこころを行うものに導くために立てられた指導者たちは、自分たちの欲のために民から奪い取っていたのです。

 「主は、そのただ中にあって正しく」という5節のことばに目が留まります。世がどんなに酷い有様であったとしても、「神はその中にあって正しい」と信じ続けることの肝要を教えられます。

 神はイスラエルを守るために、諸国の民にさばきを下されることについては2章に明らかにされました。それを受けてご自分の民に、「あなたはただ、わたしを恐れ、戒めを受け入れよ…」と勧めます。この勧めの後半からは、神が愛に基づく厳しいさばきを下すお方だということがわかります。

 この章全体に、「ただ中」ということばがちりばめられています。ご自分の民がどんなにずたずた、ぼろぼろであっても神は彼らのただ中におられる、時にはさばく方として、時には守る方として、そして時には救いの勇士として…。

 イエス・キリストこそ、「あなたがたのただ中にいる神」であることに気づかされます。


尋ね求めよ

2020年03月18日 | ゼパニヤ書

ゼパニヤ書 2章

 ウイルスのニュース続きで何となく縮こまった感がありましたので、近くの公園に。久しぶりに訪ねたそこは色とりどりの春の花が咲いていました。いつもは自転車など通らないはずの小道を子どもたちが自転車でやって来ます。なぜだろう…と思っていましたら、友だちが道に凹凸をつけていたのです。モトクロスコースだったのですね。その小道の両側には「熊ニンニク」が生い茂っており、盛んに摘んでいる方もおられました。

 本章4節以降には、ユダの周辺諸国への神のさばきのメッセージが書かれています。ペリシテ、モアブ、アモン、クシュ、アッシリアとイスラエルの民にとっては脅威の相手です。

 ここでは、3節の「主を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ」ということばを思いました。1節から3節には、イスラエルの民への神からの呼びかけ、命令があります。2節では「…ないうちに」と3回繰り返され、3節では「…を尋ね求めよ」が3回繰り返されています。

 主の怒りの日のために何を備えとするのだろうかということをこれら三つの『尋ね求めよ」から考えるのです。そのために昔も今も人々が身を削り、他人をけ落としてまでも求め続けているもの、そして得たものは何の役にも立ちません。

 3番目の「柔和さを尋ね求めよ」とのことばは、聖書協会共同訳では「謙遜を求めよ」と訳されています。新改訳2017もほかの箇所では『謙遜」「へりくだり」と訳します。

 ここから、主を尋ね求めよ、義を尋ね求めよ、謙遜を尋ね求めよは、自分を追い求めることではないのだと教えられます。


主の日は近い

2020年03月17日 | ゼパニヤ書

ゼパニヤ書 1章

 昨日は小さなピアノの発表会にお邪魔してきました。当初は、礼拝で使用している場所で行っていただく予定でしたが、新型コロナウィルスの影響でその場所が使えなくなり、急きょ教えている方の自宅で行うことになりました。

 演奏する三人のお友だちとお母さん、そしてお友だちとお母さんも来られて、大盛況でした。この場所で行えてかえって良かったのでは…と思いました。みんな伸び伸びと演奏して感動しました。私はひと足お先にイースターの話をさせていただきました。

 1節には、ゼパニヤ書の時代背景があります。「ヨシヤの時代」は、南王国ユダの末期近く。彼は王として、いわゆる宗教改革を推し進めた善王として名を残しています。ヨシヤが何をしたかを記した列王記第二22−23章や歴代誌第二34−35章に、ゼパニヤの名はありません。しかし、ヨシヤ王の改革には、ゼパニヤの働きが何らかの影響を与えたと考えられます。

 わずか3章から成る本書は、一貫して来るべき主の日についての預言が書かれています。その日は、神を神とせずに自分たちの思い描いた偽りを神として拝むような者たちへの、神の厳しいさばきの日として描かれています。そこに容赦はありません。

 思いやりとあわれみに満ちた神がこのようにお語りになるのは、どれほど彼らの罪が甚だしいものだったかを示しています。

 「主の日は近い」は、神の民にとっては待望すべき日です。「来てもらっては困る」と混乱することなく、「主よ来てください」と待ち望みたい、です。


「私だけは特別だ」

2015年03月14日 | ゼパニヤ書

ゼパニヤ書 2章4節―3章8節

 きょうはJRのダイヤ改正日。上野と札幌を結んでいた寝台特急北斗星は消え、東京と金沢をつなぐ北陸新幹線が開通します。北斗星が走り始めた頃、客車の方向幕に「札幌」と書いてあるのを上野駅で見て、不思議な気持ちになったことを思い出しました。

 最寄り駅の時刻表も大幅に変わりました。時刻表で無印というといちばん多く向かう行き先駅ということですが、それがきのうまでは「上野」でしたがきょうからはなんと「小田原」! その他、「熱海」「伊東」「沼津」などという行き先があります。上野と東京をつなぐ「上野東京ライン」が開通したので、東海道線への直通列車が増え、「上野行き」が大幅に減ったのです。…とまあ、趣味の世界になるとこんなにも饒舌になってしまいます。

 ペリシテ、モアブとアモン、クシュ、アッシリヤというと、どれもが旧約聖書時代にはイスラエルの近隣の国々。いろいろな確執がありました。神はこれらをそのわざにしたがって正しくおさばきになるというのです。特に強大な力ゆえに「私だけは特別だ」とうそぶくアッシリヤが獣の通る町となると切り捨てます。「高慢は破滅に先立つ」のです。しかしそれは、イスラエルを贔屓(ひいき)しているということではありません。主の目はエルサレムに注がれているのです。

 自分の力を誇って高慢になるのではなく、このような者を神が愛し救ってくださったことに感謝し、神をほめたたえて「私は特別だ」と言えるさいわいを覚えました。


わたしは、わたしは、

2015年03月13日 | ゼパニヤ書

ゼパニヤ書1章―2章3節

 

 ゼパニヤはユダの王ヨシヤの時代の預言者だと、1章1節からわかります。水曜日の午前に、通っている教会でおこなっている祈祷会では、ここのところずっと聖書を読む会の手引きを用いて、聖書を学び合っています。ヨシヤ王については「旧約聖書の聖徒たち2」の中で取り上げられていますので、ぜひみなさんで聖書をお読みください。とても良い学び合いができます。

 「ゼパニヤ書を読む前に」にあるように、この書は「主の日」を繰り返し語っています。それは神がさばきと救いを明らかにされる日だから、備えよと語るのです。

 きょうの箇所を読み心に留めたのは、「わたしは」ということばも繰り返されているということです。主の前に悪を行いながら悔い改めようとしない者たちが「主は良いことも、悪いこともしない」(12節)とうそぶいているのをお聞きになった主が、そうではないと身を乗り出すようにして、声を大きくして「わたしは」…とおっしゃっているような絵を思い浮かべます。

 もしかしたら、神に信頼しているはずのキリスト者でさえも、主は何もしてくださらないと不満を覚え、高を括(くく)るようなこともあるかもしれません。そんな私たちに主は、「わたしは…」を語ってくださり、御手を伸べてくださるのを、きょう一日の中でいくつ認めることができるでしょうか。


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