みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

みことばに支えられる

2021年04月30日 | 使徒の働き

使徒の働き 4章23−37節

 運転免許証を忘れたので、市内は歩いての移動になるのですが、たくさんの発見があります。かつては営業していた商店の看板にも興味が湧きます。すでにないメーカーの看板が堂々と置かれているのを見ると、懐かしさとともに寂しさも覚えます。

 権力者たちに脅されたが、それに屈することなかったとの報告を聞いた教会は祈りました。ここで、ルカは彼らが心を一つにして神に向かって声を上げたと書いています。何事かが起こった時、教会は、キリスト者は祈るのです。困り切って意気消沈しそうなときも、事が良い方向に動いたときも祈ります。

 祈りの中で彼らは、ペテロたちが体験したことをみことばに照らして理解しています。自分たちは強く、脅した人々は弱いという理解ではありません。神は力のあるお方で脅した人々がどんなに大きな権威を持っていたとしても、その比ではないとして祈っていることに目が留まります。

 そして、きょうの「みことばの光」が書いていますが、彼らは「神様、今私たちは脅されています。脅す彼らから守ってください」とではなく、「大胆にみことばを語らせてください。みわざを行ってください」と祈っています。心がくじけそうになることは日常のこと。しかし、そのような中でも、イエスが自分に与えられた使命を決して忘れることなく、その務めを行なわせてくださいと祈るそれは、とてもすがすがしいものだと読みました。


恐れから来る脅し

2021年04月29日 | 使徒の働き

使徒の働き 4章13−22節

 坂のある町を上り下りしました。現在住んでいる町も、長く住んできた町も坂はありませんでしたので、とても新鮮に思いました。でも息が上がりかけもしました。毎日歩いていたら、足腰が丈夫になることでしょう。谷間を鉄道が通り、駅があります。走る電車を下に見るのもよかったですね。

 並み居る権力者たちの前に、ペテロたちは立たされ、脅されます。けれども彼らはそれに屈することなく、大胆に振る舞いました。

 ここには権力を持つ人々が何を恐れているのかを垣間見ることができます。人々が自分たちをどのように評価するか、自分たちは回りからどのように見られているのかということです。人々の前に自分たちが力を持っていることを示そうとして、ペテロたちを脅すのです。21節の「人々の手前」ということばが心に残ります。

 他方この時のペテロたちには、そのような恐れはありません。彼らは権力者たちに媚びることなく、常に堂々としています。そしてそれがさらに、権力者たちをおびえさせているのです。ですから、ペテロたちは結果として釈放されてしまいました。「脅せば言うことを聞く」ということは今に至るまで続いています。脅されてしおれてしまうので、力ある人々は安泰でいられるのです。

 私たちは誰を、何を恐れて生きているのかとの問いをここから受けているようにと読みました。


神に導かれる時

2021年04月28日 | 使徒の働き

使徒の働き 4章1−12節

 昨日は、6年ぶりにあるご夫妻を訪ねました。相変わらず物事を前向きにとらえておられるのが話の端々に感じられて話に花が咲き、気がつくと2時間以上経っていました。「男の長話」というのがあるのでしょうか。

 ここでペテロたちは、エルサレムの宗教指導者たち、権威者たちの前に立たされることになります。イエスをメシアと信じる人々が男だけで5000人になったというのは、権威ある人々にとっては脅威となりました。それゆえの迫害だったのでしょう。

 ペテロたちは捕えられ、翌日大祭司たちの前での尋問が行われたのですが、それがまた、福音を宣べ伝える機会ともなりました。物事が自分たちの思いの通りにならなくとも、彼らは自分たちにイエスが授けてくださった務めを行なうことができたのです。

 「神に導かれて」とはキリストを信じる者がよく口にすることばですが、それはどのような場合なのだろうかと立ち止まってみます。もしかしたら、自分たちに都合がよいように周囲が整えられることを期待しているのではないか、ペテロたちが突然捕えられ一晩労に留め置かれたというのは、「まずいことが起こった」と意気消沈するようなことかもしれません。

 以前のペテロなら、弟子たちなら、逃げ出したり、あらぬことを言ってその場をしのぐようなことをしてしまうような局面です。しかし彼らはそうではなかったのです。「聖霊に満たされて」というのがその場合の鍵のことばのように読みました。

 自分の身に「ひどい」「辛い」ことが起こった時、「神に導かれて」と思えるのだとしたら、なぜなのでしょうか。


私ではなくイエスが…

2021年04月27日 | 使徒の働き

使徒の働き 3章11−26節

 気持ちの良い天候が続きますが、風は冷たく、きょうの最低気温は3月頃のものだと予報されていました。スーパーに行くと、ここならではの食べ物が野菜のコーナーにありました。「焼き芋」です。昔は焼き芋やさんが通りを歩きながら焼き芋を売っていましたが、今は甘くてほくほくの焼き芋をスーパーで買うことができます。

 「美しの門」で生まれ月足の不自由な人がいやされたという出来事は大勢の人々を集めました。ペテロは予め計画していたのではなかったのですが、集まった人々にイエスの福音を語ったのです。きょうの「みことばの光」はペテロの宣教を分かりやすくまとめていますので、ご参照ください。

 「このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました」という16節を心に留めました。「みことばの光」はこのことを取り上げて、「焦点を自分から神に移す」という見出しをつけています。人の目には、癒やしを行なったのはペテロとヨハネと見えます。しかしペテロは、宣教の初めに私ではなくて、イエスなのだと言って、人々の焦点をイエスに向けさせています。

 昔も今も、社会は良くも悪くも人に焦点を当て、その中に歩む私たちは、自分がどのように評価されるかということに心が向きやすいものです。ペテロやヨハネにとって、自分たちが奇跡を行なったのですから、自分に人々の目を向けさせ、ヒーローとなるチャンスが訪れたということになります。けれども彼らは、そのような道をたどることはしません。

 焦点をイエスに、神に当てようと生きる、かっこいいですが、簡単なことではないと思います。


私にあるものを

2021年04月26日 | 使徒の働き

使徒の働き 3章1−10節

 日曜日の午後、教会の子どもたちのスポーツクラブを見学しました。以前は野球チームでしたが、今は野球だけでなくサッカーもして、子どもたちを飽きさせず体を動かす楽しさを十分に体験できるものでした。練習の後は牧師によるお話。

 3章ではエルサレムの「美しの門」での出来事と、それを契機にペテロが福音を語ったことが記されています。使徒の働きには、人の目を引く不思議が比較的多く記されていますが、それはイエスの福音を宣べ伝えるためのきっかけ、導入であることが多いのだと、ここを読んで改めて考えました。

 ここでは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」という6節のことばを心に留めました。

 「私にあるもの」とは何でしょう。ペテロは多くの人々がほしがる、とりわけ、施しを求めに美しの門に連れて来られたこの人にとって何よりも必要な金銀はないと言うのです。彼はがっかりしたに違いないかと想像します。しかし、この人は金銀に優るものを自分のものとしました。 

 ペテロに限らず、キリスト者は「私にあるものを」と言えるものを持っているのだと考えるなら、喜びが湧いてきます。それを誰かに、「あげよう」と言う勇気があるのだろうか…。


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