みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

いつまで…、どこに…?

2015年12月31日 | 詩篇

詩篇89篇38−52節

 2015年も大晦日。慌ただしい一日をお過ごしでしょうか。

 きのうは我が家で一足早く、「年内におせちを食べる会」を開催。参加者のおひとりに提供していただいた「おせちセット」に加え、かまぼこ、お雑煮、きんぴらごぼう、イカにんじん(福島の正月料理の一つ)がテーブルに並びました。重箱があるともっと美しかったのですが、そこはドイツということで…。きんぴらごぼうのごぼうは、当地で購入できる西洋ごぼうを用いて作りましたが、なかなかいけます。ごちそうさまでした!

 詩篇89篇の三つ目の区分は、何ともすっきりしない終わり方をしています。作者は二つ目の区分でダビデと交わした契約を決して忘れることはないという神のことばを、これでもか! という勢いで紹介しているのですが、この箇所では、「それなのになぜ主よ、あなたは…」と嘆き訴えています。「あなたは拒んでお捨てになりました」、「あなたは、あなたのしもべの契約を廃棄し」とまで言っているのです。

 作者はこの部分で、必死に答えが見えない問いかけをしているのですが、幸いなことに私たちは、彼の問いかけへの答えを神から賜わっていることに気づきます。48節に「いったい、生きていて死を見ない者はだれでしょう。だれがおのれ自身をよみの力から救い出せましょう」との問いかけのことばに、パウロは、「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」と感謝して告白しています。⇒ローマ8章1、2節

 この箇所についての解説の中に「答えられない質問には、まったく予期したことがなく、非の打ち所のない答えが、将来に与えられることになる」とのことばがありました。キリストが答えだという、非の打ち所のない答えが…。

 それでは、主にあってよいお歳を。


とこしえに

2015年12月30日 | 詩篇

詩篇 89篇19−37節

 近くの川で、きょうはハクチョウを発見。写真をもとに調べてみましたら、コブハクチョウのようです。ちなみに、このブログのタイトルバックになっているのは、この川に架かる橋の上からの一枚です。

 詩篇89篇の二つ目の段落には、神の真実がご自分のことばによって裏づけられています。ここに何度も出てくることばは「わたしは…」。神がダビデを見いだし王として油を注ぎ、ずっと変わらずに彼に恵みを与え、そればかりかダビデの子孫にも恵みを与え、彼らがたとい神に背き罰せられることがあったとしても、ダビデへの約束のゆえに、ダビデに賜わった真実と恵みを子孫たちにも永遠に与えると約束しておられるのです。

 この箇所で目につくのは、「永遠に」「いつまでも」「とこしえまで」ということばです。相手が誠実でなかったとしても、神はダビデとの間に交わした契約を変わらずに守り続けるという誠実なお方なのです。

 シメオンが宮に来た幼子イエスを抱いて神を賛美したことばを覚えました。「御救いはあなたが万民の前に備えられたもので…」御子の誕生は、この箇所で神が「わたしは…」と言っておられる約束のとおりに起こったこと。このお方を信頼して歩むことは間違いない、と教えられます。


徹底して真実な

2015年12月29日 | 詩篇

詩篇89篇1−18節

 暖冬も日曜日まで、と予報されていたとおり、きのうは寒い一日でした。月曜日と木曜日に行われている中心街の教会での「30分オルガンコンサート」に行って来ました。4時半から始まり5時に終わって教会の外に出ると、晴れていたこともありますが、外はまだ暗くなっていませんでした。心なしか昼が長くなったようです。3日間休みでしたので、きょうは街にたくさんの人が出ていました。私たちも…。

 「みことばの光」は、詩篇89篇のはじめの18節に「真実」ということばが4回登場していると書いています。特に、8節の「主よ。あなたの真実はあなたを取り囲んでいます」ということばについて、「神のどこを突いても、その真実さにスキはないということ」だと説明しています。「スキのない真実さ」とは、決して裏切らないということだと思います。

 さらに、この箇所に四回登場する「真実」ということばについて、そのうちの三回について前後を見てみますと、並行することばは「恵み」です。つまり、神の真実とは、神に背いた者に神が恵みを注いでくださるということにおいて、決して偽わることなく、スキがないということです。

 救い主がお生まれになるとのお約束は、すでに最初の人が神に背いたときから明らかにされました。さらに時が下り、たくさんの預言によって救い主がおいでになるとの約束がなされています。そして、神は真実にこの約束を果たしてくださり、御子イエスをこの世界に生まれさせてくださったのだと思うと、感謝に堪えません。

*写真は「幼子を祝福するシメオン」(シュテーデル美術館)


しかし、この私は

2015年12月28日 | 詩篇

詩篇 88篇

 きのうは「降誕後主日」でした。教会ではクラリネットとピアノによる特別賛美のひとときがありました。一曲目は「優しくも愛らしき」。讃美歌21では「飼いばおけにすやすやと」として親しまれている愛らしいクリスマスの讃美歌です。そして二曲目は「アメイジンググレイス」でした。暖かで優しさが伝わってくるような神さまからの素晴らしい贈り物でした。

 詩篇88篇のタイトルには「コラの子たちの賛歌」とあるのですが、どこにも神への賛美は見当たりません。ですから、ある人々はこの詩篇の後半はどこかに紛失してしまったのだとさえ考えます。確かに、この詩篇には苦しみのただ中にある作者の神への祈りと、神が作者に何をなさったのかが交互に歌われています。まとめると次のようになります。

作者は主に

・昼は、叫び、夜は、あなたの御前にいます
・私は日ごとにあなたを呼び求めています。あなたに向かって私の両手を差しのばしています。
・しかし、主よ。この私は、あなたに叫んでいます。

主は作者に
・あなたはわたしを最も深い穴に置いておられます。
・あなたの激しい憤りが私の上にとどまり、あなたのすべての波であなたは私を悩ましておられます。
・あなたは私の親友を私から遠ざけ、私を彼らの忌みきらう者とされました。
・主よ。なぜ、私のたましいを拒み、私に御顔を隠されるのですか。
・私はあなたの恐ろしさに耐えてきて、心が乱れています。
・あなたの燃える怒りが私の上を越え、あなたからの恐怖が私を滅ぼし尽くしました。
・あなたは私から愛する者や友を遠ざけてしまわれました。

 こんな目に遭わされてもなお、神に信頼して呼び求める作者のひたむきさが痛々しいほど伝わってきます。こんなにもひどいことをされたのであれば、もう祈るのをやめたら…と言ってやりたくなるようにも思えます。それでも、彼は主に祈るのをやめません。何があっても信頼しているのです。ここに、作者と主との強い絆を確認できます。

*写真はルカス・クラナハによるマリヤとエリサベツ、それに幼子イエスの降誕の絵(シュテーデル美術館)


私の心を一つに

2015年12月26日 | 詩篇

詩篇 86篇

 きょう26日は、ドイツでは「クリスマス第二日」という祝日です。ですから、日曜日までの三連休ということになります。街は静かでした。きのうの「クリスマス第一日」には、午後からシュテーデル美術館に行きました。クリスマスにちなんだ受胎告知やキリスト降誕についての14ー16世紀前後の作品をたくさん観ることができました。

 この一枚は、いわゆる古典絵画であるのに、子どもたち(翼があるので御使いでしょう)の表情が豊かだと思いました。赤ちゃんを見ている表情から、好奇心と喜びが伝わってきます。

 きょうの聖書は詩篇86篇。

 「みことばの光」は、この詩篇の作者ダビデが意識した悩みと苦しみとが二つあったと書いています。一つは自分自身についてのものであり、もう一つは敵の存在でした。悩まない人がうらやましいと思うこともあるでしょうが、人は生きているならば悩みます。悩み続けるのだと思います。

 キリスト者も、悩む者であるのは変わりありません。ダビデは自分の悩みを神に訴えます。それでは、祈ることで悩みがなくなったのかというと、そのようには歌っていないように思えます。

 「心が千々乱れる」という表現がありますが、悩みは心を乱します。そのような中で、自分にはわからないことばかりでありながら、すべてを知る神に「私の心を一つにしてください」と祈ることのできるさいわいを、覚えるのです。


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