みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

神は立つ

2015年11月30日 | 詩篇

詩篇 82篇

 

 きのうは待降節第一聖日。日本語教会のために礼拝場所を貸してくださっている教会(集会)では、受付に手作りのものがたくさん置いてあります。それぞれが結構な値段がついていましたので、チャリティーなのでしょうか。

 詩篇82篇は「神は会衆の中に立つ」ということばから始まります。詩篇としてはちょっと変わった出だしのことばです。作者は何かもやもやとしたものを抱えていながらも、どうして神は介入してくださらないのだろうかといういらだちのようなものも感じていたように思えます。

 一方に悪者の勝ち誇った笑顔を見、もう一方には貧しい人や弱い人の悲しみを見ながら、一節のことばが歌われるのは、作者がいろいろともやもやしていたものを神に、「なぜですか」「どうしてですか」と訴えていく中で、到達した確信ではなかったのでしょうか。

 きのうは礼拝で「沈黙の恵み」という題の宣教をいたしました。祭司ザカリヤが約10ヶ月口をきけなかったというのは、実はザカリヤに与えられた神の恵みではなかったのかを考えたかったのです。心に引っかかるものを持ちつつ神に訴える、そしてしばし黙して神を覚えることの必要を、このような時だからこそ覚えるのですが…。

 写真は、クリスマスマーケットの中央にある降誕場面。本物の羊がいます。

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主の目の前で

2015年11月28日 | エレミヤ書

きのうの帰宅途中に、電話がありました。自宅の電話の具合が悪いのではないか、との問い合わせでした。帰宅してみると、やはりインターネットのケーブルモデムの具合が良くありません。何度かリセットして回復を試みましたが、ダメ。ムムム、困りました。
ということで、この記事はいつもと違う道具で書いています。

エレミヤ書終章は、バビロンによって、ユダ、エルサレムが滅ぼされたことの記録です。エレミヤの預言どおりになったことを伝えているのです。
心に留めたのは、「主の目の前で悪を行った」とのことばです。これは、ユダの最後の王ゼデキヤについての「評価」です。彼の人生は、神によってこのように評価されたというのです。

自分も他人も避けて通れないのは、評価されることだと思います。自己評価は概して甘く、他人への評価は厳しいと言われます。

神は自分をどのように評価なさるのだろうと考えました。「主の目の前で悪を行った。」とは自分についても言えることではないか、と考えるのです。しかし、その後に「だが、イエスを信じた」と神がご覧になってくれたら、こんなにありがたいことはありません。
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心に希望を抱いて

2015年11月27日 | エレミヤ書

エレミヤ書 51章45−64節

 きのうは午後、ドレスデンの中心街にある十字架教会のクリスマスを迎える礼拝に参加することができました。ここは、宗教改革後に起こった三十年戦争という暗い時代に多くの賛美歌を作ったシュッツに関わりの深い教会。この教会での礼拝が終わると、鐘が鳴り響きすぐ近くの広場のクリスマスマーケットの幕開けです。写真は、礼拝開始前の教会の様子です。

 バビロンが主のさばきによって滅ぼされるとの預言はここまで。この箇所では、バビロンの崩壊はすなわちユダとイスラエルの回復だということが強調されているようにと読みました。

 特に、59節以降に記されている宿営の長セラヤの思いをあれこれと想像してみました。セラヤはユダ最後の王ゼデキヤとともにバビロンに捕囚されます。その時に彼は、バビロンがやがてさばきによって滅ぼされるとのことばが記された巻物を託されます。バビロンに行って、それを開き読んだセラヤはどのような思いだったのでしょうか。押しつぶされるような強大な力を持つバビロンに連れて行かれて、やがてそれが滅ぼされると記されることばを読み、声を出して祈り、その巻物をユーフラテス川に投げ入れよと命じられるのです。

 セラヤはおそらく預言の実現に立ち会うことはなかったでしょう。けれども彼は、神がやがて自分たちの民をユダとエルサレムとに戻すという確かな希望を心に抱くのです。だれにも語れない希望だったかもしれません。しかし、その希望を抱きつつそれから後の日々をセラヤは歩めたのだと思うと、安堵します。

 混沌としている今、自分が確かな希望を抱いて歩める幸いを、改めて覚えました。

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あなたを使って

2015年11月26日 | エレミヤ書

エレミヤ書 51章20−44節

 昨日からドイツ東部に来ています。チェコのプラハとともに「百塔の都」と呼ばれるドレスデンです。ドレスデンは第二次世界大戦の時に大空襲に遭って、壊滅的な被害を被りました。しかし、今ではかつての美しい街の姿を取り戻したことで知られています。といっても、到着は夜。どこがどうやらまだ見当がつきません。

 バビロンは、当時の中東世界では泣く子も黙るというほどの強大な力で知られていました。このバビロンが神のさばきにあって滅ぼされるとの預言がが続きます。「みことばの光」が書くように、この箇所には10回も「あなたを使って」ということばが使われます。印象的な使われ方をしています。声を出して読んでみますと、バビロンの力が神によるものだということが心に留まります。

 しかし、バビロンは自分たちが神に使われているから力があるという大切なことをどこかに追いやり、神をあがめることなく自分たちの栄華や力を誇りました。

 「用いたまえわが主よ…とおり良き管として」とうたう賛美歌(聖歌)を思い起こします。自分の力も知恵も、いのちも、自分のものではなくて、神のものであり、神に用いられるためのものだということを忘れると、いつの間にか「鼻が高くなる」のですね。困ったものです。

 「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」ミカ書6章8節

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主のみわざを語ろう

2015年11月25日 | エレミヤ書

エレミヤ書 51章1−19節

 昨日は午後に、日本からドイツ旅行に来た方々を訪ねてほぼ一ヶ月ぶりにバート・リーベンツェラという場所に行きました。やはり数日前に雪が降ったようで、途中の峠道は雪景色。皆さんはきのうから来月初めまで、おもに旧東ドイツを回られるとのことです。

 エレミヤ書51章は、前章に続きユダを崩壊させたバビロンが神によってさばかれ、崩壊するという預言が記されています。ここには、バビロンの繁栄の姿が描かれます。しかも、それは主によって与えられたというのです。「バビロンは主の御手による金の杯」(7節)。 「大水のほとりに住む財宝豊かな者」(13)。 けれども、バビロンはこれらの物を誇り、頼ったので、主にさばかれてしまいます。

 一方ここには、バビロンによって国を失ったユダの回復の様子も描かれています。心にとどめたのは、「来たれ。私たちはシオンで、私たちの神、主のみわざを語ろう」という10節のことばです。自分たちの罪のために裁かれたにもかかわらず,主は回復してくださるというのです。その時には、主が何を自分たちにしてくださったのかを語り合わないではいられないのです。「ヤコブの分け前はこんなものではない」と19節にあるように、それは語っても語り尽くせないほどです。

 今こそ、主にある者が互いの欠点をあげつらったりすることなくて、主のみわざを語り合うときなのではないか、との問いかけをいただきました。

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