みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

雷の子…、熱心党員…

2013年05月31日 | マルコの福音書
マルコの福音書3章13-19節


 5月末日。早くも梅雨の中休みでしょうか。晴天の朝を迎えました。朝早くの祈祷会のあと見ましたら、教会の玄関脇のガクアジサイが色づいていました。立ち止まって凝視すると、見過ごしていたいろいろなものの美しさやこまやかさにハッとします。もったいないなぁ。

 きょうの箇所には、イエスが12弟子を任命されたことが記されています。「みことばの光」は、イエスが弟子として任命された三つの目的をまとめています。
 第一は、身近に置くため。
 第二は、遣わして福音を宣べさせるため。
 第三は、悪霊を負い出す権威を持たせるため。

 12人はいろいろな表情を見せてくれます。たとえば、マタイはローマのために徴税する取税人。一方の熱心党員シモンはローマにいのちを賭して反抗する人々の中にあった者です。ですから、マタイとシモンとは敵同士だとも言えます。バークレーという人は「もしシモンが他の状況のもとでマタイに出会っていたなら、マタイを殺していただろう」と書いています。
 
 そのような者たちがイエスに召されたということは、教会の姿にも投影されるのではないかと考えました。違っているといっしょにやりにくいものです。どうしてこんなにも違うのだろうかと悩む時、「だからイエスの名のもとに集められたのだ」とうなずかされるのですね。 
   

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じっと見つめていた

2013年05月30日 | マルコの福音書
マルコの福音書3章1-12節


 朝歩きの一コマ。Img_0903 ツツジの花びらが霧雨の中で道路のラインに貼り付いていました。

 昨晩の祈祷会である人が話しておられました。「マルコの福音書を読み始めまして、次から次へと出来事が進むので、イエスさまはさぞやお忙しかったのではないかと思いました。」
 マルコの福音書の特徴である簡潔さとテンポの良さ(?)とを、こんなふうに表現できるのは、すてきなことですね。新鮮な発見でした。

 マルコの福音書ではこれまでに、イエスのことばやふるまいに問題を感じた人々の疑念、不信、そして殺意へと発展していく様子が描かれてきました。

・イエスが中風の人に「あなたの罪は赦されました」と言った時、数人の律法学者は心の中で理屈を言いました(2章7節)。
・イエスに召された取税人レビの家でイエスが食卓に着いていた時、パリサイ派の律法学者たちはイエスの弟子たちに、イエスの弟子たちに疑問を告げました(2章16節)。
・イエスの弟子たちがなぜ断食しないかと、ヨハネの弟子たちやパリサイ人がイエスに言いました(2章18節)。
・安息日に弟子たちが麦の穂を摘んでいるのを見て、パリサイ人たちがイエスに「なぜ安息日にしてはならないことをするのか」と質しました(2章23節)

 彼らが「じっと見ていた」のは訴えるためでした。子どもにでも答えられる質問にさえ口を閉ざし、片手の萎えた人の手がいやされると、ともに喜ぶどころか、いやしたイエスを葬り去ろうと相談する始末です。

 けれども、私たちのうちにも人を批判する思いがふつふつと沸きます。そしてそれは殺意へと容易に発展していくものだということを、罪人の心の闇の深さを覚えます。

  

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花婿、主

2013年05月29日 | マルコの福音書
マルコの福音書2章18-28節


 昨日は「東海地方まで梅雨にはいった模様」と報じられていましたが、この辺りももうすぐでしょうか。
 いつの間にか梅雨の主役が出現! いつも思うのですが、一昨日は色づいてはいなかったのに、今朝はこんなに…。「あなたはいつ装うの?」と聞いてしまいました。Img_0899

 きょうの通読箇所は、「断食」についてと「安息日」についてのパリサイ人たちとイエスとのやり取りが記されています。主イエスが私にとってどのようなお方なのかを、考えてみました。

 まずは「花婿」ということばです。
 以前、教会で結婚式を挙げた二人のことを紹介しました。二人はきっと楽しくゆたかな毎日を過ごしているだろうな、と想像してしまいます。主イエスさまといっしょに過ごすのは、私にとって楽しくてうれしくて、ゆたかな時なのだということを覚えました。さて、そのように楽しんでいるだろうかと自問しています。

 次に「主」ということばです。
 安息日についてのやり取りの中で、イエスさまは「人の子は安息日にも主です」と言われました。どのように過ごすのかを含めて、安息日についてのすべてはイエスさまのご主権のうちにあるのだというと、神が定められた律法の真意を取り違えて本末転倒をすることがありません。
 このことは、神のことばを自分の都合の良いように引き寄せるという愚かさからも自分を守るのだと考えました。

   

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罪人を招くために

2013年05月28日 | マルコの福音書
マルコの福音書2章1-17節


 月曜日、二人で家の中の片づけをしました。懸案だった百科事典を屋根裏に運び上げることもでき、さらにすっきりしました。この百科事典には思い出が詰まっています。厳しい経済をやりくりして、2ヶ月に一度配本されるということで、本屋さんに頼んで半額ずつ毎月払いで24巻を揃えたものです。
 辞書とか事典とかを読むのが好きなので、ずいぶん楽しませてもらいました。百科事典に付属の地図帳の誤りを見つけて出版社に知らせたら、お礼にとプレゼントをいただいたのも良い思い出の一つです。
 「屋根裏に運び上げたらあまり開かなくなるね、いつかは「book何とか」に持っていくのかな」などと話しました。

 思い出といえば、きょうの聖書箇所にも思い出があります。
 学生時代に教会で聖書をいっしょに仲間と学ぼうということになり、マルコの福音書を読み始めました。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか」とのイエスの問いに、「どっちなのだろう?」「こっちだ」「そっちだ」と、教会にあった注解書などを開いては論じ合ったことがありました。

 「罪を赦す」「罪人を招くために来た」とおっしゃるイエスの権威を、この箇所を読んで覚えます。問題が起こって「うーん」といっしょになって悩むのが私たちお互いではないでしょうか。神の前での人間の罪を互いに抱え込んでいるのですから…。しかし、「赦す」と宣言してくださるお方が自分の上におられるのは、何とありがたいことでしょう。しかも、この方は「罪人や取税人たちといっしょに食事を」なさるのです。

 昨日行われたある政党の代表の記者会見の様子を垣間見て、自分よりもはるか上に力のあるお方がいることを認めて生きることの大切さを覚えました。

   

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そこにも福音を

2013年05月27日 | マルコの福音書
マルコの福音書1章35-45節


 日曜日はどのようにお過ごしになりましたか。
 通っている教会では、自動車で30分ほどのところにある教会墓地で「召天者記念礼拝」を持ちました。礼拝が始まることには陽射しが強くなって、暑さを感じる中での礼拝でしたが、時折吹き抜ける風がかえって心地よかったです。
 午後には、中学生を招いてのウェルカムパーティーに加えてもらいました。改めて年の差を感じましたが、やっぱりいいですねぇ、中学生といっしょにいるのは…。

 マルコの福音書をゆっくり読み進めています。
 何となくわかったふうな聖書のことばも、立ち止まってみるといろいろなことを考えさせてくれます。きょうは「さあ、近くの別の村里へ行こう」というイエスのおことば。弟子たちの「みんながあなたを捜しております」ということばにお答えになったものですが、不思議な答えだと思ったのです。

 安息日に、そして安息日明けにイエスがなさったことは、またたく間にカペナウム中に伝わりました。人々はイエスを求めていました。「みんなが」ということばに熱気を感じます。「それならば戻りましょう」「そうです。イエスさま今がチャンスです」と来るはずが、「さあ、近くの別の村里へ行こう…」というのです。

 マルコの福音書の出だしは「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」です。ヨハネが捕らえられたあと、ガリラヤに行かれたイエスは「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と福音を宣べられました。
 そしてここでも、「そこにも福音を知らせよう」と言っておられます。

 イエスが何のために出て来られたのかがはっきりと伝わってきます。人気を得たり、権力を振りかざすためにではなかったということではなかったのです。

  

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