みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

帰りたいのです

2012年06月30日 | 哀歌
哀歌5章


 昨日、「みことばの光」のことで聖書同盟事務所に向かおうと駅に着いてみると、電車が止まっています。人身事故があったとのことでした。やっと来た電車は超満員。このまま1時間乗るのはちょっと…、と思い次の次の電車まで待ちましたら、今度は座ることができました。
 次女も電車通勤ですが、昨日は行きは私と同じ事故の影響で1時間遅刻とのこと。さらに、帰りも人身事故出遅れたといいます。散々な一日だったようです。「家が遠いよ」というつぶやきが聞こえてきそうです。

 今日で哀歌の通読を終えます。
 5章は、「主よ」という呼びかけから始まる祈りです。「私たち」は、自分たちがどれほどの苦しみを受けているかを訴えています。大切なのは、「私たち」が苦しみの原因を自分たちの罪にあると言っていることです。
 「私たちの先祖は罪を犯しました」と祈り、しかしその罪を先祖たちにかぶせて「自分たちはそのとばっちりを受けているのです」などと祈ることはしていません。「私たちが罪を犯したからです」と告白しています。
 そして、この告白こそ希望への一歩。自分のみじめさを見つめたその視線を、天に向け、「しかし、主よ」と祈ることができるのです。そして、帰るための道はすでに備えられています。

 「私たちは帰りたいのです」との祈りが、世界中から、日本中から、この街から、そして教会から、私たちからささげられますように。







聴いて語る

2012年06月29日 | 哀歌
哀歌4章


 英会話教材のCMの中に、「聞いているだけでいいんです」というものがあります。「個人の感想です」という断り書きがありますが、「聞いているだけでほんとうにだいじょうぶなのかしらと思っていたら、ある時に英語で話している自分がいたのです」などという体験談を聞くと、やってみようかしらという気持ちが起こるのですから不思議です。

 普段お付き合いしている友人のなかに、脳性小児麻痺の方がいます。明晰な方で、いつも発想の素晴らしさに感心しているのですが、最初は何を言っているのかよくわかりませんでした。電話ならば、さらにわかりません。普段の話し合いでは言語介助の方がいて「通訳」してくださるのですが、何年もお付き合いしていくうちに、次第に話している内容がことばとして伝わってくるようになりました。それとともに、私の英語のヒアリングも向上するという「おまけ」までついてきたのです。

 哀歌4章は、破壊されて、悲惨な情景が繰り広げられているエルサレムを描いています。そしてそのようになった理由を、「預言者たちの罪、 祭司たちの咎のため」だとしているのです。16節には「長老たちも敬われなかった」とも言われています。彼らは神のことばを聞いてこの都を正しく導く責任を担っていました。ところが、彼らはその責任を放棄して、民を間違った方向に導き、あるいは民の誤りを神のことばによって正そうとはしなかったのです。
 
 預言者は字の如く神からことばを預かって民に語る者。ところが彼らは、神からのことばだと称しながらも、実は自分の心にあることを、人々を気安く支えるようなことばを語っていたのです。
 同時代の預言者エレミヤはそのような預言者を次のように非難して嘆いています。

 「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。」(エレミヤ書6章14節)

 語る人は聴く人でなければならない。この基本をおろそかにしてはならないのです。



主のみもとに…

2012年06月28日 | 哀歌
哀歌3章40ー66節


 ブログの更新が遅くなってしまいました。
 朝一番で梅干しの漬け込みをし、家庭集会の準備をして出向き、「みことばの光」の新しいサイクルの打ち合わせをしていて、「あっ! 忘れてた」と思い出したということです。ごめんなさい。
 お隣の障がい者支援施設からは、梅ジャムを作るいいにおいがしています。何日か煮詰めると、それはそれはおいしいジャムができあがることでしょう。それを練り込んだパウンドケーキ…。想像するだけでもおいしそうです。

 教会に今、50年ぶりだという方が通(かよ)っておられます。教会の幼稚園を卒園して少しの間日曜学校に通っていたのですが、教会に来るのはそれ以来なのだそうです。
 今でも「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」ということばを覚えているとのことでした。イエスを誘惑する際の悪魔のことばですが、牧師の話に「不思議なことばだ」と思ったといいます。

 哀歌3章40節の「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう」ということばを読み、その方のことを思いました。50年ぶりに主のみもとに立ち返ろうとしている人を、主はどのようにご覧になっているのだろう。どんなに遠く離れていても、「立ち返ろう」「戻ろう」という人を神は大喜びで迎え入れてくださるとは、ルカ15章にある放蕩息子の話から思うことです。

 「もう絶望だ」というような局面にあっても、そこから御名を呼び求める者の叫びを神は聞いておられ、帰って来るのを心待ちにしておられる…。
 絶望が希望に変わる瞬間です。
 



待ち望む、主を待ち望む

2012年06月27日 | 哀歌
哀歌3章19-39節


 梅干しを漬けるため、越生(おごせ)町まで梅を買いに行きました。 Img_3278
 毎年お世話になっている梅農家の作業場には、子どもの姿が。私たちのやり取りを見て、合いの手を入れてきます。愛想も良く、その場の雰囲気を和ませます。
 「お孫さんですか」と聞くと、お隣のお子さんとのこと。梅の選果の機械がおもしろくて、幼稚園が終わると作業場に来て「お手伝い」をしてくれるのだそうです。
 楽しくお買い物ができました。

 哀歌3章の中段は、これまでとは少しトーンが違っています。
 19、20節前半には、これまでと変わらず「私」の苦しみが訴えられています。けれども、その後でかすかな光が差し込んでくるような印象です。
 「みことばの光」では、苦しみ抜き、嘆き抜いた者だけが、主の恵みやあわれみがわかると解いています。ギリギリまで自分の罪と向き合っている先に、神にある希望が待っているということだと思います。

 「私が」「私が」から「主は」「主こそ」へと転換するキーワードは「待ち望む」です。罪と戦って勝利するという力や望みが自分の中にはないと徹底的にわからなければ、待ち望むようにはならないのかも知れません。
 そのように考えると、罪ゆえに町が破壊された悲しみを嘆き歌うという哀歌は、希望に至る王道を読む者すべてに示しているということになります。

 




聞かれない祈り

2012年06月26日 | 哀歌
哀歌3章1-18節


 梅雨の晴れ間といっては良すぎるほどの晴天。一日雨の心配もないことから、午前中はふとんを干して出かけることができそうです。休みの昨日、昨年結婚したご夫妻を東京に訪ねました。二人で協力して一つの生活をしておられる様子。楽しいお茶の時間でした。

 「みことばの光」には、毎日読む聖書について説明するページのほかに「特集」ページがあります。「哀歌」にも「…読む前に」「書名と特徴」そして「『嘆き抜く』ということ」の3つの記事があります。
 「『嘆き抜く』ということ」の中で、「いのちをかけて国の存亡を語り、語ったとおりになったことを、民と共に嘆き抜いていった」作者のことに触れられています。
 神のことばを語り、証しする者としてふさわしいのだろうか、と自問しています。

 きょうの箇所に「主は私の祈りを聞き入れず」とのことばがあります。ここで主は、徹底的に「私」の敵となっておられます。「十字架上でのイエスの叫びを思い浮かべた」と「みことばの光」にありました。
 イエスが十字架上でお祈りなさった祈りを御父はお聞きにならなかった。だからこそ、罪人をお救いになるという神のご計画が成し遂げられる道が開かれたのだ、ということに気づきます。

 聞かれない祈りは、私の救いのために必要なことだったのです。さて、「祈りは何でも聞かれる」と安易に話してはいないのかということについても、考えるのです。
 
 



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