詩篇 50篇
浴室のシャワーの出が悪くなったので、ホームセンターでシャワーヘッドを買ってきました。いざ取りつけとなったのですが、ホースの継ぎ手部分が劣化していて、これも買い替えなければならないことが判明。もう一度店に行きます。
50篇は、神がご自分を審判者だと宣言しておられる詩篇です。初めの段落にある動詞に目を留めてみましょう。1節には「語り…呼び集められる」、2節には「光を放たれる」、3節には「来られる。黙ってはおられない」、そして4節には「呼び集められる」と並びます。
なぜ神は呼び集めるのか、また来るのか。それは審判者としてさばくためなのです。その背景には、神は黙っている、神が来ることなどないとうそぶいている者たちの存在があります。
神はまず、いけにえを携え献げる者たちをさばかれます。彼らの献げものを主は受け入れると言っておられます。そのうえで、彼らに「感謝のいけにえを神に献げよ」と言っておられるのです。このことばは23節にも見られます。14節と15節は別のものではありません。もしかしたら、15節だけを読んでいるのではないかと考えました。神への感謝をどこかに追いやってはいないだろうかと…。
「感謝しつつ 主の門に 賛美しつつ その大庭に入れ」という詩篇100篇のことばが心に浮かびます。そのようにして、日曜日には感謝のいけにえを神にささげる礼拝でありたいと願うのです。