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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

恵まれた人生

2025年01月03日 | 詩篇

詩篇 70篇

 昨日、このブログを運営している企業へのサイバー攻撃でしばらくの間、閲覧も編集もできない状態が続きました。日本ではすでに復旧してご覧になることができるのですが、当地ではなお不可能です。日本の携帯電話会社のローミングを用いるとアクセスできるので、最小限の費用で済むように、文章を整えてからアップロードしています。ご不便をおかけします。

 年末から年始にかけて詩篇を読んでいます。68―69篇に比べ、70篇は短いのだと、改めて思いました。

 「急いでください」という始まりと終わりのことばに包まれるような構造の本篇は、ダビデが自分をすぐに助けに来てくださるように、「神よ」「主よ」と叫び求めています。

 その間にダビデは、自分以外のことについて二つのことを主に願っています。前半は、ダビデの敵たちについての願いです。ダビデは彼らが恥を見、卑しめられるように、自分のところから立ち去るようにと願っています。この願いから、ダビデがこの時どんなに大きな危機の中にいたのかが分かります。
 
 後半の願いは、主を慕い求める人々についての願いです。その人々が主にあって楽しみ、喜びますようにと願っています。

 ここを読んで、自分の周りにはいろいろな人がいるということに気づかされます。ダビデのように自分のいのちを狙っている人があるいはいるかもしれません。一方でいっしょに神を喜び、神をほめたたえる人もいます。その人々の中に生きる私は、「急いで私を助けてください」と祈ることのできる神を持つのです。

 こんなに恵まれた人生はありません。


信仰者が本領を発揮するとき

2025年01月02日 | 詩篇

詩篇 69篇

 2025年の初めの日はどのようにお過ごしでしたか。私は午後から鉄道でのショートトリップを楽しみました。全くの遅延なし。金曜日に長めの旅を控えているのですが、どうなることでしょう。今年は仕事をする部屋の壁に世界のクリスチャン鉄道ファンが作成されたカレンダーが貼られています。

 呑み込まれようとしているダビデ、信仰者の危機。しかしそれはまた、信仰者がその本領を発揮する時でもあるのだと、この詩篇を読んで思いました。それはここで祈っているダビデがどんなに大きな危機にあっても、強大な敵に対しても、立派にふるまったということによってではないのです。

 彼は自分が泥沼から、大水の底から救い出されるよう、奔流が押し流すことがないよう、穴の中に呑み込まれることがないようにと必死に神に祈っています。そうなのです。彼は自分の弱さに悩んでいるのです。弱さに悩むだけではありません。5節でダビデは、自分が愚かであり、数々の過ちを犯す者だとも告白しています。

 彼の苦境は敵のあざけりや攻撃だけではありません。8節には、兄弟たちからものけ者にされていると嘆きます。辛いときに頼れるはずの肉親もよそよそしくしているのです。

 しかしその時こそ、信仰者はその本領を発揮します。ありのままを神に願う祈ることができるという、それこそが信仰者の「実力」なのだと、ここを読んで教えていただきました。

 6―7節に目が留まります。神を慕い求める者の行く末が、泥沼にあるダビデの信仰にかかっていると彼は祈ります。そしてダビデの苦境が彼の神との関係にかかわる者だったということも分かります。

 最後にダビデは、神をほめたたえます。苦しんで痛みの中にいながらも…。

 このダビデの祈りから私たちは主イエスのお姿がくっきりと刻まれるのを知ることができます。私たちの罪を贖うためにお受けになった主イエスの苦しみの跡を、本篇から辿るものです。


ほむべきかな 神

2025年01月01日 | 詩篇

詩篇 68篇

 皆様、明けましておめでとうございます。2025年をどのようにお迎えになりましたか。この文章を書いている時はまだ12月31日なのですが、外では花火や爆竹の音が賑やかです。

 年末年始の「みことばの光」は詩篇を読むことが多いのですが、今年の初めは詩篇68篇。ここでダビデが歌う神は、弱い立場の人々の側に立ち、本来ならば力なく敗北を重ねている彼ら、彼女たちに輝かしい勝利を与えられるお方です。一方で、世にあって権力や知恵、富を誇りとする者たちを斥けられます。

 3−4節に目を留めたいと思います。ここでは正しい者たちが力いっぱい神を喜び踊る姿が印象的です。「正しい者たち」を別の日本語聖書は「神に従う人」と訳します。「正しい」ということの基本と神とあるべき関係にあるということ、それゆえにその人は神に従い、神に従うならば正しく歩もうとします。この一年の初めに「主よ、あなたの前に正しい者でありたい」との祈りを捧げたいと思います。

 11節には、「主はみことばを与えてくださる」とあります。そのみことばは次の行では「良い知らせ」とあります。この年も、主が与えてくださるみことばは、常に「良い知らせ」だとして、みことばに聴く者でありたいと願うのです。

 そして、19節の「ほむべきかな 主。日々 私たちの重荷を担われる方」にも目を留めます。この一年、重荷を背負うような経験がきっとあると思います。そのようなときに、主が私たちの重荷を日々になってくださるという事実に気づきたいです、自分一人で重荷を抱え込んでしまわないように。

 本篇の最後の「ほむべきかな 神」ということばを覚え、常に口ずさむ一年をと決めました。


祝福をいただいた者として

2024年12月31日 | 詩篇

詩篇 67篇

 2024年最後の日になりました。子どもの頃は大晦日(おおみそか)というとクリスマスの次に嬉しい日で、なぜか母は大晦日にご馳走を作っていたということを思い出します。

 詩篇67篇を読んで思うのは、広がりということです。私たちをあわれみ祝福してくださるようにとの願いに始まるこの詩は、「すべての国々」「諸国の民」「国々の民」そして、終わりには「地の果てのすべての者」が神をほめたたえ、神を喜び、神を恐れるようにと、祈りが広がっていきます。

 だれもが普段考えるのは自分のこと、また家族のこと。もちろん何も問題ではありません。しかし神の民は、私をあわれみ祝福してくださいとの願いに終わることなく、すべての人々が神をほめたたえるようにとの祈ります。年の終わりにこの祈りに出会えたことを、神に感謝しました。

 さらに気づくのは、「私」はここで、「私たちをあわれんでください」と祈り、「私たちを祝福してください」と繰り返し祈っています。地の果てのすべての者がどのようにして神をたたえ、神を喜び、神を恐れるようになるのか、それは、神に祝福された神の民によってなのだと考えました。

 そして、神がアブラハムに約束されたことばを思いました。創世記12章3節です。「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」祝福をいただいた者は、だれのために、どのように歩むのかを考えつつ、新しい年へと向かいたいと思います。


呼びかけ合える

2024年12月30日 | 詩篇

詩篇 66篇

 「冷蔵庫の中にいるような寒さ」というような、気温の低い日が続きます。しかし、冬至からほぼ10日、少しずつ昼が長くなっているのが嬉しいです。今年も残り2日です。

 詩篇66篇を読んで気づくのは、呼びかけのことば。

 1節に「全地よ 神に向かって喜び叫べ」とあり、5節には「さあ 神のみわざを見よ」とあります。さらに6節には「さあ 私たちは神にあって喜ぼう」、8節に「国々の民よ 私たちの神をほめたたえよ」と続きます。さらに16節に「さあ聞け すべて神を恐れる者たちよ 」とあります。

 呼びかけるというのは、自分以外のだれかがいるということです。昨日は今年最後の日曜日の礼拝でした。しばらくぶりにお二人の方が礼拝に参加されました。お祈りしていましたのでこんな喜びはありません。「さあ…!」と互いに呼びかけ合う人がいるということが、どんなに嬉しいかと思いました。

 次に呼びかけの内容です。そのすべてに共通なのは、呼びかける側も呼びかけられる側も神を恐れているということです。神がなさったことを喜び合える、神のことばをいっしょに聞くことのできる、神がなさったことをいっしょに見ることができる、そして神をいっしょに賛美し礼拝することができるのとは、なんと素晴らしい環境だろうかと思いました。

 20節に目が留まります。「御恵みを私から取り去られなかった」という告白は、この一年の私の頼りない歩みを愛と忍耐をもって支えてくださる神のみわざを一言で表しています。


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