みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

高らかに歌う

2019年06月01日 | 詩篇

詩篇 65篇

 当地で今年19回目の日本映画祭が行われており、3つの作品を観ました。「教誨師」(きょうかいし)という作品は、死刑囚と教誨師を務める牧師とのやりとりとがテーマ。俳優は本物以上にその職業になり切ると言われますが、そのとおりだと思いました。

 本篇には、私が気がついてみたら口にしている聖句があります。それは2節の「祈りを聞かれる方よ みもとにすべての肉なる者が参ります」ということばで、このことばに勇気づけられて祈ることがしばしばです。

 きょうの「みことばの光」は、本篇について「三つの『世界』における神の恵みの豊かさについて語る」としています。ここではその初めの部分に当たる1−4節に目を留めてみます。

 ここには、神の宮における礼拝が歌われています。祈りを聞かれるお方の元にすべての肉なる者が集うのです。その中には、本篇の作者ダビデのように「咎が私を圧倒して」いるような者もいます。いや、すべての者が自分を振り返るときに、そうなのです。罪深く咎が自分を圧倒しているから、そんな者が礼拝のために神の前に出ることはできないというのではなくて、神の恵みとあわれみにただすがって神の宮へと、今ならば礼拝の場へと向かうのです。

 自分に神を礼拝する資格があると誇れる者は何もなく、ただ神が「選び、近寄せられた」者であるということのゆえに礼拝する、明日の礼拝がそうでありたいと願うのです。

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悪事に凝る人とは…?

2019年05月31日 | 詩篇

詩篇 64篇

 祝日の昨日は、当地から西にある町を訪ねました。お住まいの裏には森が…。

 敵の脅(おびや)かしにさらされていたダビデは、神に「私の声を聞き」「私のいのちを守り」「私をかくまってください」と祈り求めています。きょうは「みことばの光」と同じタイトルをつけました。やはり、5節の「彼らは悪事に凝っています」ということばに目が留まったからです。

 悪事に凝る人々はひそかに不正を企み、うまく行ったとほくそ笑んでいます。「人の内なる思いと心とは 底が知れません」ということばも心に突き刺さります。数日前、スクールバスを待っている子どもたちが襲われるという悲惨な事件が起こりました。「みことばの光」を発行する聖書同盟の事務所のすぐ近くでおこったので、他人事ではありません。メディアは犯罪者の家庭環境や生い立ちなどを報じて、「なぜこのようなことが…」と報じますが、本篇に描かれる人間の深い闇を直視すること抜きには、原因を突き止めることができません。

 うそも偽りも、傷害、殺人も、悪と言われるすべては、周囲のせいにして正当化できるものではなく、私が悪を謀る者だから、私たちが悪を謀る者だから、悪事に凝る者だから起こるのだと認めて初めて、本当の解決への道をたどることができるのです。いつの間にか教会は、周りの空気に呑み込まれて人間の罪をはっきりと伝え、神が正しくさばかれるということを語るのを躊躇するようになっているのではないのかと恐れます。

 主にあって喜ぶ正しい人とは、罪に嘆き悲しむという暗闇の中で、イエスの十字架による救いを信じて受け取った者だということを忘れてはならないのです。

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ユダの荒野で

2019年05月30日 | 詩篇

詩篇 63篇

 きょうはドイツ全州が「キリスト昇天日」で祝日です。この10日後の6月9日「聖霊降臨日」、10日が「聖霊降臨月曜日」で祝日になっています。

 詩篇63篇は、「ダビデがユダの荒野にいたときに」というタイトルが心に留まります。昨日まで「みことばの光」で読んできた「サムエル記第一」の21章以下に書かれているダビデの逃亡を思いつつ本篇を読むようにとのことです。

 ダビデはユダの荒野にいました。好き好んでここにいたのではなくて、サウルから逃げていたのです。彼が歌うように、荒野は「水のない 衰え果てた乾いた地」です。そしてダビデはそこで不安定な日々を送らなければならずに、彼のたましいは乾いていました。「あなたに渇き」ということばからは、何もない荒野にあって神との結びつきをしきりに求めるダビデのたましいの渇きが伝わってきます。

 ダビデを慕って人々も同行していましたが、かといってダビデにはだれも相談相手になってくれる人はいなかったことでしょう。彼はそこで神を切にあえぎ求めたのです。神の力と栄光を見せてほしいという心からの叫びが伝わってきます。

 荒野には神への礼拝をするための祭壇も聖所もありません。けれども、どこにいてもそこから神をあえぎ求めるのであれば、そこが神の聖所、神にお目にかかる場所になるというのは、すばらしいことです。窮状にあって彼は神をほめたたえます。神への賛美を絶やすなとの強い促しをおぼえます。

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どんな時にも信頼できるもの

2019年04月01日 | 詩篇

詩篇 62篇

 4月を迎えました。昨日はこれまで教会が9年以上使用してきた場所での最後の礼拝。貸してくださった教会の礼拝に出席して、神と皆さんに感謝を表わすことができました。次の日曜日からはそれぞれが別の場所で礼拝することになります。

 夕方公園を歩いていると、いろいろなことが頭をよぎり恐れや不安が心を支配しました。そのような中で帰宅して、本篇を読みました。8節は私の「愛唱聖句」の一つですが、「民よ。どんな時にも神に信頼せよ」ということばがこの時ほど心に響いてきたことはありません。改めて、神のことばが自分を支えているのだということを確認することとなりました。

 「みことばの光」がまとめていますが、この詩篇では、なぜ「どんな時にも神に信頼せよ」と呼びかけられるのかの理由が三つ挙げられています。

 一つは、「私の救いは神から来る」からです。どんなに相手が強く恐ろしくても、神は私を救ってくださるとの確信です。そして、私たちだれもを支配している罪と死からの解放という究極的な救いも、神の御子イエスさまの十字架と復活によって成し遂げられました。

 次は、「私の望みは神から来る」からです。いろいろな望みを私たちは抱くのですが、多くはシャボン玉のように消えていきます。けれども、失望に終わらない希望ということばがローマ人への手紙にあります。そんなすばらしい希望を持っているのだから、「あなたの顔を上に上げよ」との促しに感謝します。

 そして、「力は神のもの、恵みも神のもの」だからです。自分が弱さに嘆くからこそ、心の醜さや貧しさにがく然とする時こそ、神が力と恵みを求める者に与えてくださることに気づきます。

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神にあって私たちは…

2019年03月30日 | 詩篇

詩篇 60篇

 このブログは日曜日が休みなので、3月はこれが最後ということになります。日本では年度末ですね。どのようにお過ごしでしょうか。

 昨日は聖書博物館(聖書の家)を訪ねました。見学者は私たちを含めて3名。それほど大きな建物ではありませんが、最上階が旧約聖書の世界、1階が新約聖書の世界、そして地階はクリスマスと聖書翻訳についてという構成でした。子どもたちの見学者も多いのか、いろいろな工夫が凝らされて2時間があっという間に経ちました。

 60篇の標題からは、ダビデたちが北方で戦っていた時、イスラエルは死海南部でエドムによって苦戦していたという背景を知ることができます。この詩篇の主題は敗北から立ち上がる、ということでしょう。

 1−4節では敗北の苦しみが現れています。起こったのは、敵と戦って負けたというということです。しかしダビデは神が自分たちを拒み、破り、怒ったと受け止めるのです。神は自分たちに味方するとして戦いに臨んでみたら、敗れてしまった、神が私たちをお怒りになっているのだと嘆き、回復を求めて祈るのです。

 神が自分たちを敗戦に追いやったならば、もう神には頼まないとなるはずなのに、ダビデはそれでも神に願います。5−8節では、神の約束、ことばを覚えているダビデがその約束を盾にして自分たちを助けてほしいと祈るのです。「どんなときにも神に信頼せよ」とは、これから読む詩篇62篇8節のことばです。

 敗北で意気消沈しておしまい、ということではなくて、敗北の中でさえ、いや、敗北の中でこそ、「神よ」「主よ」と願う信仰を、主イエスによって賜わっているのだということに気づかせてくれます。

 幸いな週末と日曜日をお迎えください。

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2011-2019© Hiroshi Yabuki