みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

全地よ

2021年05月31日 | 詩篇

詩篇 100篇

 5月はきょうが最後の日、コロナで開けた2021年も5か月過ぎてしまうのだという、不思議な感慨があります。あっという間だったという思いが浮かんできます。

 礼拝の初めの『招詞」として読まれることの多いのがこの詩篇ではないでしょうか。

 使用している聖書の大改訂によっても、本篇は3節の「牧場の羊である」が「牧場の羊」と変更しただけなので、暗唱していたことばがスラスラと出るのは嬉しいことです。幼稚園のお友だちも一生懸命覚えていましたが、意味はよく分からなかったことでしょう。でも、何かの拍子に覚えていた聖書のことばが湧いてくる、などということがあるかもしれません。

 今回、『全地よ」という最初のことばが心に留まりました。この詩篇は神を賛美しようという呼びかけ、招きなのですが、その呼びかける相手が『全地」なのです。

 信仰者に「主に向かって喜びの声を上げよ、喜びをもって主に仕えよ」と呼びかけるのは当然だと思うのですが、本篇では、『全地」に呼びかけられているのです。神を主と、王として信じあがめている人々、住む所だけではなくて、そうでないところに住む人々にも主を賛美することが呼びかけられている…。

 ということは、どこにでも神は目を留め、心に留めてくださっているのだということではないか、ということに気づきました。私たちが目を留めることのない人をも神は心に留めてくださるのだという思いがあるのかと問われます。

 神の支配が及び、喜びの声を上げよと呼びかけられている地で、どのように生きていくのかと考えると、狭くなりがちな視野が拡げられます。


仕えること、賛美すること

2021年05月29日 | 歴代誌第一

歴代誌第一 23章24−32節

 風邪を引いてしまったのですが、「もしや…」と、まず疑うのが今のご時世ですね。カレーライスの味もしっかり美味しいので、大丈夫のようです。それに久しぶりに安定の天気の下、外を歩いたらすっかり気分が良くなりました。

 23章後半には、レビ人が主の宮で受け持つ務めをダビデが明確に定めたことが書かれています。ソロモンが神殿を建てるなら、幕屋(会見の天幕)を組み立て聖具類を配置する、移動の際には幕屋を解体して聖具類を運ぶという務めはなくなります。「幕屋時代」には、ケハテ族は聖所の用具の務め、メラリ族は幕屋の板の務め、そしてゲルション族は幕の務めを担っていました。しかし、これからは「幕屋を運んだり、法師に用いるすべての器具を運んだりする必要はない」のです。

 それでは、レビ人たちは何もすることがないのかというと、そうではありません。祭司たちの務めを支えるという務めはこれまでとは変わりません。心に留めたのは30節。ダビデはレビ人たちに務めの一つとして、「朝ごとに、立って主をほめたたえ、賛美し、夕べにも同様にすること」を挙げました。賛美が命じられているのです。

 賛美は、心穏やかなときにするものだと思っていたら、そうではありません。「朝ごとに、…夕べにも」するのです。とても神を賛美する気分にはならない、ということではないのですね。


祝福のために

2021年05月28日 | 歴代誌第一

歴代誌第一 23章1−23節

 天候が目まぐるしく変わる週ですが、外に出られない時には室内で紙飛行機を飛ばしたりしています。4歳の孫が妻と私に作ってくれたもので、これがよく飛ぶのです。私が作った紙飛行機はあまり飛ばなかったのですが、どこで覚えたのでしょうか。

 本章から26章までには、神殿で仕えるレビ部族の人々の名前とその務めについて、ダビデが人数を数え、役割を分担させたことが書いてあります。自分が神殿を建てることは叶いませんでしたが、後継者ソロモンが建てる神殿で神に仕える人々を編成し、確認したのです。

 レビ部族は、創世記後半に登場するヤコブの12人の子どもたちの三番目のレビの子孫たちであり、出エジプト記、レビ記や民数記では、彼らは神への奉仕者として神にささげられました。

 歴代誌は、バビロン捕囚から帰還して国を再興しようとする人々にまず語られたものです。ここにレビ部族の務めにかなりのスペースを割いているのは、国の再興の土台、拠りどころを神への信仰、礼拝に置こうとしているからです。13節に「彼とその子たちが、とこしえに主の前に香を焚き、主に仕え、とこしえに主のみ何よって祝福するため」とあります。これが、レビ部族の務めです。神殿が建てられ、町が再建され、人々の営みが再び為されるようになったとしても、神の祝福がなければ、それは虚しいのです。

 そして、この務めは新約時代の私たち信仰者たちに受け継がれまれてきました。何よりも大切なのは、神の祝福の中に歩むこと、そのためにキリスト者は、主の前に祈りという香を焚き、主に仕える、神の祝福を人々にもたらすのです。とこしえに香は焚かれているだろうか…。


立ち上がって

2021年05月27日 | 歴代誌第一

歴代誌第一 22章

 「みことばの光」8月号を制作中です。いつも美しい写真を提供してくださる方に、8月にふさわしい写真を…とお願いしたところ、早速たくさんの写真が届きました。どれも掲載したいものばかり。いつもありがとうございます。

 主に命じられ、オルナンの打ち場に祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のささげ物をささげた時のダビデのことばから、この章は始まります。「これこそ神である主の宮だ。これこそイスラエルの全焼のささげ物の祭壇だ。」ダビデは、ここに神の宮を建てる決意を固めます。しかし、すでに主はダビデが建てるのではないと言っておられたので、ダビデはわが子ソロモンが神殿を建てるための資材の準備をしています。

 自分が建てることは叶いませんでしたが、ここを読むと、神殿の建設へのダビデの熱意がほとばしり出ているのを感じます。ソロモンに対して、そしてイスラエルの指導者たちにそれぞれ「立ち上がって」と言うことばによって奮起をうながしていることからも分かります。

 この熱心さを考えてみるうちに、やがて神殿を建て上げ、奉献の祈りをささげたソロモンのことばをおぼえました。

「 それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。」(列王記第一 8章27節)

 「立ち上がれ」と誰が自分を誰を鼓舞するのかと考えるのです。私の主なる神のなのか、それとも力ある人なのだろうか…と。


回復のために

2021年05月26日 | 歴代誌第一

歴代誌第一 21章18−30節

 ダビデの大罪ゆえに、主はイスラエルに疫病を下し、その結果7万人が倒れたと14節にあります。三つのうちの一つを選べと言われたダビデが三日間の疫病という罰を選んだのは、期間の短さゆえに民への影響がもっとも小さいからということがあったのかもしれません。

 前日に読んだ箇所ですが、疫病に倒れていく民を見て、「民を数えよと命じたのは私ではありませんか。罪があるのはこの私です。私が悪を行ったのです」と言ったことばに、自分の罪としっかり向き合おうとするダビデの姿を見ます。言い逃れをしたり、隠したりすることによっては決して消すことのできない罪の、最もあるべき解決の道をダビデは採ったと考えます。

 そのダビデにさらに、神からの働きかけがありました。それは、主の祭壇を築くようにとの命令でした。それは、主がご自分からダビデの罪を赦し、ダビデを受け入れ、交わりを回復するとの呼びかけです。ダビデがこの命令に従おうとしたのは当然のこと。彼は、土地の持ち主の申し出をきっぱりと断って購入します。祭壇を築き全焼のささげ物と交わりのいけにえをささげた場所に、やがてソロモンが神殿を建てるのです。

 回復のための働きかけは、神からのもの。しかし、それを受け入れるのか拒むかは私次第なのですね。救いは一方的な神の恵みなのです。


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