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☆久しぶりの加藤典洋

2009年01月24日 21時07分24秒 | 文学
加藤典洋の「文学地図 大江と村上と二十年」(朝日新聞出版)を読んでいる。1989年以降の短めの文芸時評がたくさんと、長めの文芸評論が三つ入っている。
文芸時評はぱらぱらと流し読み。ちょうど加藤典洋が文芸時評を担当していた当時の新聞を取っていたこともあり、いくつか覚えている文章もあった。
時評でもっとも興味を持ったのは秋山駿の「私小説という人生」だった。最近再び小林秀雄付近に惹かれているからだろう。
「大江と村上 一九八七年の分水嶺」というタイトルの評論はとてもおもしろかった。
村上春樹が大江健三郎に対して文句を言っていたということが分かっただけでも大発見だった。村上春樹の初期の小説には「吉本隆明」だとか「大江健三郎」だとかという名前も出てきていたように記憶するが、「そんな時代があってまわりの人間は読んでいた(が、自分は関係なかった)」のように言っていた印象しかない。
取り上げられていた村上春樹の「パン屋再襲撃」はこの間読んだ。マクドナルドで眠り続ける若者を政治に無関心でい続ける人々と解釈するところに感心した。この感心は村上春樹に向けられるべきものか、加藤典洋に向けられるべきものかよく分からない。
村上春樹の小説が、案外時代の状況に即して書かれているというところにも深く感じるところがあった。頭の中だけで描かれて書かれたものには読んでも感触が伴わない。やはり何かモノに触れる感触、抵抗感が欲しい。
よしもとばななの小説にはなんだか最近その感触がない気がする。
大江健三郎の「取り替え子」は読んだのだが、その続編を読んでいない。加藤典洋が続編の「憂い顔の童子」に実名で登場することを知り、興味を持って「取り替え子」を読んだように思うのだが、続編まで手が回らずに終わってしまった。
二つ目の評論「「プー」する小説 二〇〇四、「種ナシ」の文学」はあまりおもしろくなかった。阿部和重にどうしても興味が持てないせいもあるかもしれないが、こじつけの感じが強かった。評論がこじつけと感じるか、なるほどと感じるかはかなり微妙な部分だ。
いま三つ目の評論を読んでいる。

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