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☆加藤典洋「文学地図」感想

2009年01月25日 15時02分47秒 | 文学
文学地図 大江と村上と二十年 (朝日選書)加藤典洋の「文学地図 大江と村上と二十年」(朝日選書)を読み終えた。
最後の評論「関係の原的負荷」は沢木耕太郎の小説「血の味」、岩明均の漫画「寄生獣」、村上春樹の小説「海辺のカフカ」を取り上げて、親と子の関係について書かれたものだった。
この前よしもとばななの「みずうみ」を読んだ時に、主人公の画家が四匹の猿の絵を描いていて、それが彼女の周囲の人を表しているというところがあった。こういうことは小説を読んでいるとよくあって、これこれはなになにの象徴であるというようなことはよくある。
それは単なるレトリックだとつい最近まで思っていた。
つまり俳句で季語は何だとか、たらちねは母だとか、その類いのもので、四匹の猿は主人公のまわりの半分死んでいる人たちを表している。証明終わり。というようなものかと思っていた。
が、ほんとうはそうではない。それは文学を楽しむためのスタートにすぎないような気がする。
村上春樹の「海辺のカフカ」はほんとうによくわからない小説で、田村カフカの父親がジョニー・ウォーカーであるとか、佐伯さんが母親であるとか、意味不明なのだが、それは主人公のカフカにとって世界がそのように見える、または書いている村上春樹にとってそのようである、ということだろう。
わたしたちの、父親なり母親なりはわたしたちを産んだから父親なり母親なりなのではない。わたしたちが彼らを父親なり母親なりだと信じているから彼らは父親であり母親であるのだ。わたしたちにとって。
だからもしも親子関係を回復するために父親や母親が必要であるならば、それは生物学的な意味での父親や母親を連れてくる必要はない。本人がそうであると信じることのできる人を連れてくる必要があるのだ。
「海辺のカフカ」はそういう話なのだな、と思った。
そう考えると人間というのは結構文学的に生きているのだなあと思う。

沢木耕太郎の本は読んだことはない。沢木耕太郎が本名でないことも今回初めて知った。加藤典洋が彼の出自に対して踏み込んだ仮説を立てているのに驚いた。
しかし、おそらく沢木耕太郎の「血の味」は読まない。あまり面白そうではない。

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