二ノ宮知子の「のだめカンタービレ」の最新刊の20巻まで読んだ。
たぶんもう終わりかけで、恋人同士が次々とくっついていく。
少女マンガでは結末になんらかの恋愛の落とし前をつけなければならない。それは少年マンガで誰が一番か最終的に勝負して決めなければならないのと似ている。
なかなか興味深いテーマだと思う。
僕は、のだめと千秋は一度共演したあと恋愛関係としては別れて、それぞれのコンサート旅行へ旅立つのがもっともすっきりとした終わり方なんじゃないかと思っているのだが、そういう終わりにはならないんだろうなあ。
21巻の発売まで、のんびり物語中で演奏される音楽を一緒に聴きながら一冊ずつ読んでいこう。
ピアニスト物語が読みたくなり、村上春樹の短編集「東京奇譚集」のなかの「偶然の旅人」を読む。ゲイの調律師の話。
やはりうまいなあ。ほんとうに感心する。
「のだめ」の正しいカレーの理論で、正しい小説は美しいとでも言いたくなる。
通勤時にベルクソンの「時間と自由」(岩波文庫)を読んでいる。
短い単位で区切られているのでバスでも読みやすい。(しかしあまり共感を得られる意見ではないかもしれない。)
痛いという感覚を「ひどく痛い」とか「より痛くない」と表現するが、痛さの量の増減が存在するわけではなく、質の変化があるのだと説く。
同じように色についても、赤と青の間に紫があるように思ってしまうが、そのような赤とか青とかのインクの量の増減を私たちが感じているように思うのは実は錯覚であると説く。赤と青があって、その間に赤紫と真紫と青紫が存在して、その赤紫と真紫の間に赤真紫と真赤紫が存在するような、そんな藤間紫な感覚はじつは真実とは違う、赤と青と紫は感じている質が違うのだ、というようなことをベルクソンは繰り返し語る。
「道徳と宗教の二源泉」でも同じような論理を語っていたのでわかりやすい。
つまり、手のひらをだんだんと強くつねると、「ちょっと痛い」から「やや痛い」「痛い」「すごく痛い」「ものすごく痛い」「もうやめて」になるのだが、「手のひらをつねる」から「手のひらをくすぐる」にゆっくりと移行するような場合を考えると、だれも「ちょっと痛い」と「くすぐったい」の間を埋めようとはしない。「つねる」と「くすぐる」が質が違うように「弱くつねる」と「強くつねる」も質が違うのだ。(そもそも強くとか弱くとかいう表現がすでに量を表しているがほかに言いようがないので仕方がない。)
というような話が繰り返される。
しかしそれと時間と自由とどういう関係があるのかまだ分からない。どこに連れて行かれるのかわからない。(あのー、先生、いいかげん理解できましたのでそろそろ、次に……、と言いたい。)
ベルクソンは相変わらず賢い。そして、ものすごく文学的だということをあらためて認識した。
なんでこんなにすっきりとしつこく繰り返し語っているのに前回読んだときにまるっきり理解できなかったんだろうか。