ベルクソンの「時間と自由」(岩波文庫)を読み終えた。
たとえば、「愛と恋はちがう。愛はこういうもので、恋はこういうもの。あなたの言っているのは愛じゃない。」というような台詞を聞いてなんだか感じる馬鹿らしさというか、よくわからなさは、それが感情を言っているわけではなく、言葉の定義を一生懸命議論しているからだろう。
ある感情を愛と言ったり恋と言ったりするが、それは便宜的にそう呼んでいるだけで、もともと愛という感情が人間に備わっていてそれを感じているわけではない。
と、いうようなことを読んで思ったけれど、こういうことはとても説明しにくいなあ。
ベルクソンの言う「持続」というのは、言いたいことはわかるんだけれど、いったいどんなものかお前は知っているのか、と言われると大変心許ない。
わたしたちが素朴に感じている時間概念は、空間概念を応用していて、過去とか現在、未来というような線状のものを想像しているが、ほんとうに直接的に感じているのはそんなものではなく、それが「持続」なのだ。とは言うのだが、それがどんなものだが、想像してみるしかない。なんとなく、わかるような気もするのだが。
いまでも子供なのだが、僕の甥がもっと子供だった時に、「明日」と言うべきところを「昨日」と言っていて間違ってたいへん恥ずかしがっていたのだが、たぶん彼にはまだ時間の概念に空間の概念をうまく応用できていなかったのだろう。
ベルクソンの本、次は「物質と記憶」を読むつもり。
ベルクソンがたいへん賢いということは読めばよくわかる。
たとえば、「愛と恋はちがう。愛はこういうもので、恋はこういうもの。あなたの言っているのは愛じゃない。」というような台詞を聞いてなんだか感じる馬鹿らしさというか、よくわからなさは、それが感情を言っているわけではなく、言葉の定義を一生懸命議論しているからだろう。
ある感情を愛と言ったり恋と言ったりするが、それは便宜的にそう呼んでいるだけで、もともと愛という感情が人間に備わっていてそれを感じているわけではない。
と、いうようなことを読んで思ったけれど、こういうことはとても説明しにくいなあ。
ベルクソンの言う「持続」というのは、言いたいことはわかるんだけれど、いったいどんなものかお前は知っているのか、と言われると大変心許ない。
わたしたちが素朴に感じている時間概念は、空間概念を応用していて、過去とか現在、未来というような線状のものを想像しているが、ほんとうに直接的に感じているのはそんなものではなく、それが「持続」なのだ。とは言うのだが、それがどんなものだが、想像してみるしかない。なんとなく、わかるような気もするのだが。
いまでも子供なのだが、僕の甥がもっと子供だった時に、「明日」と言うべきところを「昨日」と言っていて間違ってたいへん恥ずかしがっていたのだが、たぶん彼にはまだ時間の概念に空間の概念をうまく応用できていなかったのだろう。
ベルクソンの本、次は「物質と記憶」を読むつもり。
ベルクソンがたいへん賢いということは読めばよくわかる。