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☆「三島由紀夫」とはパタリロだったのか

2007年09月03日 02時27分46秒 | 文学
橋本治の「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」、長すぎる。
なかなか読み終わらない。
ほとんどどうでも良くなってくる。
「三島由紀夫」のことなんかもともとどうでもいいんだよ! そんなに興味もないんだよ! っていう気分になってくる。
気分になって、それだけである。(橋本治は独特な語り方でどうしてもマネがしたくなる)
橋本治が言うには物語の中に、行動する三島由紀夫と認識する三島由紀夫がよく登場するらしいが、そんなにいっぱい三島由紀夫なんか出てこなくていいよ。気持ち悪い。
しかし改めて考えると、13歳の少年が登場しても、おっさんが登場しても、美しい女が登場してもその人物に三島由紀夫の顔をのっけて小説を読むのって、なんだか可笑しい。登場人物全員パタリロとか、全員「うる星やつら」のチェリー(錯乱坊)とかそういう不気味さがある。
(なんで、パタリロとチェリーかというと、なんとなくどこからでもどんな扮装をしてでも登場してきそうなキャラクターだから)
三島由紀夫の小説はこれまでいくつか読んだことはあるが、ほとんどおもしろいと思ったことがない。「音楽」と「三島由紀夫レター教室」がおもしろかった。「禁色」もまあまあ。
ほかには、「金閣寺」「仮面の告白」「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」「午後の曳航」を読んだが苦痛だった記憶しかない。
「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」で、戯曲「サド侯爵夫人」を高く評価しているようなので機会があれば読んでもいいかもしれないとは思うが、加藤典洋の本を読んで「英霊の声」を読もうかなと思いもう何年も経過しているので、読むとしても結構先のことになるだろう。
読まないかも。

いまは、三島由紀夫を読むくらいなら、橋本治を読み続ける。
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