どこにいるのよ、サラマンディアゴス

2009-02-23 00:00:04 | 映画・演劇・Video
週末に、麻布演劇市というのがあって、六本木にある区民センターで観劇。劇団は「OSA・LUストリート」。実は港区に勤務していると、超格安なのである。




『どこにいるのよ、サラマンディアゴス』というのは、元々『どこにいるんだウィッツェンハウセン』という。有名なオーストラリアの現代劇の書き直しバージョンである。

何を書き直したかというと、『ウィッツェンハウセン』劇は、登場人物たちがほとんど男性なのだが、『サラマンディアゴス』は、ある事情で、女性バージョンになっている。

ある事情というのは、おそらく役者の数が女性の方がずっと多かったからではないかと推定するのと、舞台の設定が、まことに奇妙な場所だからなのかもしれない。

トイレである。

女性事務員「サラマンディアゴス」さんが、会社のトイレに立て篭もったのだ。そうなると、一つしかないトイレットルームのドアの前に、事務の女性たちがずらっと並んでしまう。そして、そこであれこれと、経営者の悪口を言い合うのだ。(日本の男性用トイレには、ドアがないので列ができない)


それで、原作の『どこにいるんだウィッツェンハウセン』は1960年代にメルボルンのラ・ママ劇場で上演された。このラ・ママ劇場での上演が、オーストラリア演劇の原点だそうだ。それ以前は、主にオーストラリアでは、英米の戯曲が演じられ、自国の作品はほとんど存在しなかったそうだ。第二次大戦後、元々のアングロ・ケルティック系の支配する社会に、特に荒廃した東欧諸国から大量の移民が流入していたそうだ。そして、白豪主義の国是の中で、原住民、東欧移民たちを社会のあらゆる面で差別していた。

会社は、経営者や上級管理職は一般事務員を虫のように扱うし、そこに人間性のかけらも見られない。

もちろん、現代の日本も「格差社会」という言葉があるが、それは主に、「経済格差」という意味であって、「人種差別」とか「身分格差」というようなトーンは薄いのだが、当時のオーストラリアは、さまざまな矛盾が圧縮されていたわけだ。

つまり、オーストラリア演劇というのは、オーストラリア人としての人間性の奪回運動という側面があった。

それで、この劇が、そういう筋書きであることは、しばらくしてわかるのだが、まあ深く考えずに、劇中人物になったつもりで楽しむことにする。サラマンディアゴス嬢は、役員にぐうたれた後、トイレに立てこもり、ドアを壊して強制排除しようとすれば自殺する、と脅す。ドアの隙間からトイレットペーパーに書いた決起文が送り出される。そのうち、その紙を読んだものが、「サラマンディアスの言うことも正しい」というようなことになっていく。

ところで、今一歩、階級闘争風の芝居にはのめり込めないのだが、当然、そういう線でやっているのだろう。「そういう過激な行動は、劇だけで楽しみましょう」ということだろう。

人間性回復とか反体制というのは、日本でも近松にはじまり、寺山修二なんかもそういう傾向にある。演劇の基本なのかもしれない。


ところで、劇が終わり、外に出れば六本木の雑踏である。マッチ売りの少女ではなく、大麻売りの黒い人たちがうろうろしていて、くれぐれも視線が合わないように下を向いて歩かなければならない。階級闘争がまったく似つかわしくない異次元の街である。


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