「御福餅」を許せるか?

2007-11-06 00:00:22 | あじ
0a3bf914.jpg本当は、赤福のことを書きたかったのだが、次々に事実が判明し、想像の通りとなった。"なま物"商売の鉄則は、「売切御免」のはずだが、冷やしたりはがしたりと「禁じ手」の数々。話題としては、猫の食い残した鯵の干物のように、既に骨だけになってしまったので、別の観点で考えてみる。


まず、御福餅の件。「先付け日付問題」と「砂糖と小豆の比率の偽装」を見破られた。というか、赤福と同じ手口。売れ残った餅の話はこれからなのだろうが、たぶん、・・・。

実は、御福をずっと前に食べたことがある。赤福と間違って買ったわけだ。細かく言えば、餅も餡もいくぶん御福の方がクラシックな味(創業は赤福が先だが御福の方が古典的な味。マクドナルドとモスバーガーみたいなもの)。御福の餅はやや固く(先付け日付だったからだろう)、赤福の餡は水っぽい(水っぽいのは解凍のせいだったかな)。個人的には、御福の餅+赤福の餡が好きだが・・。

そして、以前は、赤福と御福は両者並べて売られていたように記憶するが、最近は、同一売場ではいずれか一種類(大部分は赤福の場所だが)しかないそうだ。強く「地域的独占」というカルテル行為を思い出す。というのも、一時、御福は経営難に陥り、赤福から経営指南を受けたそうだ。その際、赤福流のコストダウン手法を教わったのだろう。

そして、こういう赤福から伝染したような違法行為に対し、皆さんは、どう思うのだろうか。単に、「やはり御福も許せない」という人や、「違法行為のマネをしなければ赤福に負けるのだからしかたない」という方もいるだろう。犯罪許容度の差なのだろう。何となく、許せない人と、許せるという人が半々じゃないかな。

私個人は「許せない」派。安易に違法なコストダウンに走ったが、サプライチェーン・マネジメントの本でも読んで新鮮な製品を顧客に提供すべきだった。

そして、赤福にしても御福にしても、いずれ誰かが法の裁きを受けるとするなら、「社長・会長」ということになるだろう。実際、この手の事件の場合、実行犯である一般従業員やそれを指揮する中間管理職までは捕まらないことが多い。しかし、他の刑事事件、例えばオウム真理教事件では実行犯も罪は重いし、終戦後の軍事裁判では、多くの職業軍人がB級戦犯として厳しく裁かれた。実行犯(従業員)を許してしまうから発覚が後れ、深みにはまる。


ところで、視点を変えて、この赤福の製品の話だが、白い餅の上に餡が塗られている。握り寿司のように、餅の上だけだ。実は、常々、赤福は、なぜ餡で全面的に餅の周りを包まないのだろうか、と思っていた。結局、売れ残ったときに餡を餅を分離するのに便利だからなのだが、本当は餅の上だけに餡が塗ってあるのが古典的なのか、それとも手抜きなのか。

ここで、時代を遡り、江戸時代の日本を考える。「お伊勢参り」は人生最大のビッグイベントだった。特に、江戸方面から東海道を西に向かい、伊勢から大坂・京都を経て、今度は中山道で帰ってくるというのが一般的。その道中の楽しみの一つが、街道筋の甘味だった。その中でも、江戸末期1845年に武州世田谷を出発した24歳の農民である田中国三郎の道中日記というのが有名である(幕末というのは、もう士農工商制度自体が崩れ始めていて、24歳の農民が食道楽の旅行に行けるようになっていた)。

彼は、東海道から伊勢神宮を通り、大坂からさらに山陽道を広島に向かい、瀬戸内海を渡り、松山の道後温泉から丸亀まで四国を歩いたあと、再び畿内に戻り、京都を経て中山道で江戸に戻る。旅程3ヶ月で世田谷の田植えに間に合わせる。

その国三郎の道中日記という記録の中に、克明に各地の甘味が記されている。3ヶ月間に156種類の菓子を食べているというのだからすごい。1日1.6回のオヤツだ。ところが、残念ながら、伊勢には4日間も滞在しているのだが、餅を食べていないようだ。というのも、当時は一般的に食事は朝夕の二回だった。旅で歩いているから餅を食べるのであって、滞在している時にはオヤツを食べないようだ。

そして、この「国三郎の日記」は、現在、羊羹で有名な虎屋が所有しているようなのだが、この虎屋は江戸時代は京都で店を展開していたのだが、12代店主黒川光正が明治初頭に東京に本拠を移す。その際、東海道を往復する時に様々な甘味類を研究。「伊勢参宮献立」というのを作っているのだが、その中に、「小倉野の餡に”餅を包みて”、重箱で出す」とある。伊勢とは若干離れた草津の餅を元に虎屋の作ったお菓子献立なのだが、やはり”餅に餡を乗せる”というのは一般的ではないのだろう。”餡で餅を包む”のが本式で、握り寿司のように”餅に餡を乗せる”というのは、やはり、売れ残ったときの後始末を考えてのことなのだろうか。


さらに色々調べてみると、「お伊勢参り」といっても信心深い人はほんの一握りで、多くは、不道徳、不信心の旅と化していたようで、伊勢には怪しい店が多数あったらしい。もちろん、明治・大正・昭和と時代が進み、色々な歴史環境は変化し、そういう怪しい店の大部分は現存していないのだが、まだ、少しは残っていたわけだ(私の居住する神奈川でも、鎌倉や寒川といった大神社の隣接地では「バチアタリ商法」も、一部見られる)。


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