10年間、年賀状を出さなかった人は?

2011-01-23 00:00:05 | 市民A
大手町の「ていぱーく(逓信総合博物館)」で1月30日まで開催中の特別展「年賀博覧会」へ。

いまどき年賀状でもないのかもしれないが、それでも毎年数十枚を出し、それより若干多く年賀状が届く。デジタル年賀状よりもずっと多い。たぶん、アナログ年賀状とデジタル年賀状の比率というのは、何らかの指標になるのだろうが、何の指標になるのか、実際には見当が付かない。

そして、今年のウサギ年に因んだ過去の年賀切手や年賀はがき(お年玉付き)の特集と並んで、この展覧会では、年賀状そのものの歴史が解き明かされていた。

で、この年賀状の始まりということになると、実は相当古い記録があって、その起こりは新年に朝廷で挨拶をした(朝廷の儀)ところから始まるようだ。その後、それを手紙で行うことになったのは、明治以降の郵便制度による。

そして、昭和11年用からは、「年賀切手」という特別デザインの切手が発行され、大量年賀状時代が訪れるのだが・・・


人々が年賀状で新年の新たな思いや願いや夢を語る時代は、すぐに崩壊してしまったわけだ。

日中戦争が始まる。



昭和13年用のデザインは注連縄(しめなわ)である。そして、これからは年賀状自粛時代に入り、そして昭和15年には、年賀状を出すこと自体が非国民の扱いとなる。年賀状自粛がお触書になった。こうして、年賀気分に浸ることもできず、すべてが戦争遂行のためのみの国家となった。

そして、終戦。


年賀状が、年賀切手とお年玉付き葉書という形で復活したのは、昭和24年用からである。デザインは少女と羽子板。奇しくも、ちょうど10年前、昭和13年用の切手のデザインには「2」という数字がある。2銭だった。昭和24年用にも2.00とあるが、これは2円だった。10年で物価は100倍になった。預貯金はすべて戦時国債に流れて、ほぼ無価値になり、一方、インフレで物価は100倍になった。多くの資産家が無一文になる。



ところで、昭和24年に再開された年賀状だが、当時、別の事情があったそうだ。

大戦で人々の生活(大きく言えば運命)は、荒海に浮かぶ木の葉のように揺れ動く。あるいは沈んでしまう。住所は変わり、勤務先も変わり、職業も変わる。家族構成だった減ったり増えたりだ。多くの人々は自分のことで精一杯で、他人の消息まで気を回すことができなかった。

そして、敗戦後3年半が過ぎ、人々が旧友や近所の知人、遠い親戚などの消息を確かめ合い、悲しんだり喜んだりした情景が目に浮かぶわけだ。

想像するに、兎や牛の絵などではなく、限られた面積の葉書に、小さな文字でびっしりと10年間の困難な状況をしたためた年賀状が行き交ったのだろう。

もう一度、昭和24年用の切手の図柄を眺めれば、少女は羽根を高く投げ上げ、まさに羽子板で強く、高く、さらに遠くへ打ち飛ばそうとしているわけだ。

その後、62年。天高く飛ばされた羽根は頂点を極めた後、落下をはじめ、地に落ちる寸前といったところにあるのだろう。


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