千年に一度というのは、小さな確率なのだろうか

2011-05-08 00:00:23 | 市民A
静岡県にある浜岡原発の停止が大きな問題になっている。その前に東電の賠償責任の限界についての議論もある。値上げして賠償に充てるという、いかにも東電ロジックを誰も覆そうもない状況だ。官房長官は、値上げの前にコスト削減と、正論を言うが、そもそもコスト削減する気があれば、原発を作らなくても、今の電力料金でやっていけるだろう。すべてが高コストの商法で、その下々まで広がる巨大利益構造が既に実在している。

原発についての意見は、様々な正反対の意見が関係者や専門家や学者たちの口から溢れるが、そういう仕事をしている人たちの多くが、利益構造にあずかっているか、あるいはあずかり損なっているわけで、自分の意見が正しいというより、正しい方がいい、と思っているわけだ。

仮に、東電の責任となったとしても、福一の危険は、立地上の問題と、設計上の問題と、事故後のオペレーションの問題ということになるが、そうなると、東電だけの問題にとどまらないはずだ。安全と認定したのは誰で、設備を作ったのは誰で、とか責任追及の泥沼にはまるような気がする。

事故の原因が、軽油発電機の冠水という矮小化された問題になってしまっているが、その他にも使用済み核燃料をいつまでも保管し続けていることや、同一箇所に6基もまとめて原子炉を設置して危険が複乗化していること(柏崎もそうだったが)など多数の問題は地元の自治体も含め、元々誰の目にも見えているので、その責任は誰のせいか、ということになる。


そこで本題。西暦869年に起きた貞観地震のこと。今回の地震・津波と極めて似ているとされる。M8.5以上の地震が起きれば原発は危ないという説もあった。ただ、何となく多くの人は、100年に一度の地震は問題だが1000年に一度は無視してもいいと思っていたかもしれない。

実際、貞観地震は1000年前ではなく、1142年前だし、M8.5ではなくM9.0だったのだが、被害の巨大さは、Mの大きさではなく、加速度と津波の高さや速さに関係するのでM8.5とM9.0の差はここでは論じない。1000年(1142年でもいいが)について考えてみる。

現代日本の寿命は、女86歳、男78歳である。平均すると、82歳である。82年間生きる人間が1000年に1回起きる巨大地震に遭遇する率はどれ位なのか。冷静に考えれば、82/1000程度であることがわかるだろう。8.2%である。安全を考える上で、リスクが8.2%というのは無視しうる小さな数字と言えるだろうか。8.2%の確率で破綻する国の国債(日本かな?)って、売れるだろうか。あるいは利回りはどれくらいになるのだろうか。

といっても、日本を離れてもっと住みやすい国を探そうという人がたくさんいるわけもないし、結構、日本人の住みやすい場所は環太平洋の海が近くにあって魚の美味い国が多いので、結局どこでも地震リスクはあまり変わらない。

だから、リスクから逃げるよりも、リスクに耐えうる社会構造にすべきなのだろう。


で、浜岡原発だが、ず~っと前から、よりによって危ない場所に作るなあと思っていた人は多いだろう。さらに、先日、静岡方面に行った時に現地の人に話を聞いたところ、原発はもとより、今までの東海地震対策はすべて見直さないと、ダメだろうということだった。想定している津波の規模が違うそうだ。

といっても、防波堤の高さを増すといっても現在の防波堤の上に糊で貼りつけるわけにはいかないから新設になる。3階建の防災センターを5階建にするといっても上に二階を乗せるわけにはいかない。新設。避難所の場所だって高いところに変え、迅速に逃げられるように新たに道路は必要。さらに静岡県の海岸は、内部まで平野が続く。


例えば、自民党政権だったら、浜岡原発について別の選択をしていただろうか、と考えると、やはり同じようなことになったのではないだろうか。政策の問題と言うよりも確率の問題なのだろう。


中部電力は、原発停止要請に直ちには応じないようだが、たぶん、代替燃料(LNGや重油など)の供給のメドが立っていないというのが真相なのではないだろうか。何しろ、週末で、買い付けるべく取引先は休日である。すぐには決まらない話だろう。それに命令ではなく要請である。

金曜夕方の首相の演説の中で、「原発停止を中部電力に要請した」というくだりがあって、ちょっと違和感を覚えた部分があった。法令外の頼みごとをするのだから、「中部電力」と呼び捨てにしないで「中部電力殿」とか、殿とか様とか付ければいいのに、あるいは、「中部電力株式会社」というように正式名称で呼ぶとかすればいいのにと感じたわけだ。威張るのは、彼の人間性なのだろうか。


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