野口英世像の周辺事情

2015-08-11 00:00:26 | 歴史
noguchi激夏の上野公園を歩くことになり、日陰の道をさがす。道じゃない所に木陰はあるが、デング熱という記憶がある。遠い記憶のようだが去年のこと。暑過ぎて蚊の種類が違うのだろう。デング熱は9月になってからかな。ということで、半木陰道を歩いていると、国立科学博物館の前で、前髪パーマの方の銅像が登場。野口英世さんだ。でも、なんとなく上野公園にあることに唐突な感じがした。

そして後日、色々な角度で調べてみたのだが、「上野の銅像」という観点でまとめてみることにした。

上野公園には、現在5つの銅像があるそうだ。

1.西郷隆盛 これは有名。さらに犬付き。西郷どんと犬の彫刻家は別人だ。なぜ、上野公園かというと、江戸を無血(ではないが)開城したあと、上野の森に立て籠もった残党を打ち払ったからだ。ただし、一網打尽にできず、多くの敵が逃げ出して、その後の東北北海道での戦闘が続くことになった。

2.小松宮彰仁親王 赤十字活動の中心人物だが、昭和の初めに建立された関係もあり、軍服で乗馬している。宮家は戦後なくなり、銅像が残った。

3.野口英世 実は、世界的医学者であり研究中コンゴで亡くなった野口英世を記念する銅像を戦後の平和国家日本にも建てようという運動があって、やっとの思いで資金が集まったそうだ。1951年に建立。手に持つのが試験管。細菌の研究ならシャーレの方が似合うが、立像となると試験管ということになったのだろう。以上の三人は全身像で、それぞれ犬、馬、試験管という小道具が使われている。

4.ボードワン博士 オランダの医学者だが、消極的意味合いであるが、上野公園があるのは彼のおかげとも言える。明治の終わりに東京大学医学部を大きくしようということになり、転居先候補地が二つに絞られたそうだ。本郷と上野。博士は、上野の森を開発することによる自然破壊を懸念し、本郷を推薦したそうだ。

さらに、この博士像(胸像)には重大な問題があった。1973年に建立された時、発注を受けた外国人彫刻家は、博士の顔を確認せずに自分の弟をモデルにしてしまった。しかし、その後、博士の顔のデータが明らかになり、似ていないことが発覚。2006年に胸像はすげかえられることとなった。偽物の行方は不明。

5.安井誠一郎 初代東京都知事。1947年に初代東京都知事となっている。本人の名誉のために書くが、胸像が建立されたのは本人の没後4年後、1966年である。


ここで一考すると、本来なら銅像を建てるべき人がいることに気付く。上野という地名の元にもなっている。藤堂高虎だ。近江生まれで戦国時代後期に活躍し、主を7人換え、最後は家康の右腕となる。築城の名手である。江戸の都市計画も彼の町割りによる。地下鉄が複雑なのも彼のせいだ。伊賀上野を本拠地としていたため、江戸での住いの地を上野と呼ぶことになった。付け加えると松尾芭蕉も藤堂藩の武士で、上京したのも藩のコネだった。

ネットで調べたところ、高虎の銅像は今治城、津城、滋賀県の高虎公園内に三像があるがいずれも馬に乗っているようだ。坐像としては伊賀上野城にある(観たことはある)。日光東照宮にも像があるようだが詳細はわからない。

弊ブログでは彼の書いた藤堂家の家訓二百ヶ条の現代語訳&解釈について、今でも訪問者が続いているようで、もし建立をめざす寄付金集めがあれば1万円は出してもいいと思うのだが、さらに調べると、何としたことか藤堂家の墓地が上野にあることがわかった。

そして、その場所は、上野動物園の園内なのである。

ということで、今度は藤堂家の墓参りに行こうかと思うのだが、動物園に墓参りに行くというような人は、1年間に一人でもいるのだろうか。黒服だけは避けなければならないだろう。

ところで、米国にある野口医学研究所だが、そこのサプリを最近は愛飲している。小袋に分けて輸入したりはしていない。


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