1887年。マルティニーク島

2009-09-07 00:00:15 | 歴史
mar1ゴーギャン展に行った後、生涯、漂泊の運命を選び、太平洋の南東に浮かぶマルキーズ諸島(Marquises Islands)で亡くなった彼の人生と作品を重ね合わせているうち、39歳の時に旅行に行ったカリブ海の小島であるマルティニーク島(Martinique)の記載を見つける。似たような名前だが、太平洋と大西洋ということで、地球的規模では近くであっても、二つの島の往来は、今でも困難だろう。

実は、以前、ある人物の経歴を調べていたところ、この島で暮らしたという人物がいた。

その人物は、日本名「小泉八雲」。マルティニークに住んでいた時には別の名前である。

ラフカディオ・ハーン

彼も、ゴーギャンに負けず劣らぬ世界漂泊者だ。

では、二人の漂泊年譜を場所にフォーカスして追ってみる。

ゴーギャン

1848年 パリに生まれる。父はオルレアン出身のジャーナリスト。母はペルーの貴族の血統。
1848年 ペルーへ移住
1855年頃 帰国。
1865年 船員として商船に乗る。
1872年 パリで株式仲買商となり経済的に成功、デンマーク女性と結婚。
1879年 第4回印象派展に出品。その後1886年の最後の印象派展まで出品。
1883年 職を辞して画家を志す。
1886年 ブルターニュ地方のポン=タヴェンに滞在。

1887年 パナマおよびマルティニーク島に旅行。

1888年 アルルでファン・ゴッホと短期間の共同生活。
1888年 ゴッホの耳切り事件の後、パリへ帰る。
1891-1893年 最初のタヒチ滞在。
1893年 帰国、パリでタヒチで制作した作品による個展。
1894年 ブルターニュに滞在。
1895-1901年 2度目のタヒチ滞在。
1897-1898年 《我々はどこから来たのか》を描く。
1901年 マルキーズ諸島のラ・ドミニック島(現ヒヴァ=オア島)に移り住む。
1903年 心臓発作により死去。55歳。

次に、ラフカディオ・ハーン

1850年  ギリシアラフカディオ島で誕生。父はアイルランド出身の軍医。母はギリシア人。
1852年 父母はアイルランド、ダブリンに移住。
1854年 父が西インドに赴任中、母は精神を病みギリシャへ帰国。ハーンはダブリンで大叔母に育てられた。
1856年 父母は離婚し父は再婚。
1863年 フランスの神学校に行く。帰国しセント・カスバーツ校入学。
1865年 左目に怪我をし視力がなくなる。
1866年 父は西インドから帰国途中に病気で死亡。大叔母は破産。
1867年 セント・カスバーツ校退学、ロンドンに行く。
1869年 ニューヨークへ移民船で渡り、シンシナティに行く。
1872年 トレード・リスト紙の副主筆。
1875年 当時違法だった黒人と結婚。
1877年 離婚。ニューオーリンズへ行く。
1884年 ニューオーリンズで開催された万国博覧会の会場で外務省の担当官会う。

1887年~1889年 西インド諸島マルティニーク島に移住。

1889年 ニューヨークに帰る。
1890年 ハーバー・マガジンの通信員としてニューヨークからカナダのバンクーバーに立ち寄り4月4日横浜港に着く。7月、アメリカで知り合った外交官の斡旋で、島根県松江の中学校の英語教師に任じられ、松江到着。
1891年 小泉節子と結婚。以降、熊本(1891年)、神戸(1894年)、東京(1896年)と転職を重ねる。
1904年 新宿区の自宅で亡くなる。54歳。

驚いたことに、1887年。どちらもマルティニーク島にいたことになる。

ゴーギャンは、まだ売れない39歳の画家(その後、画商であるゴッホの弟テオと巡り合う)。

一方のハーンは37歳。駆け出しのジャーナリストの椅子を放置して、西インド諸島で島に伝わる伝奇の収集を行っていた。後にニューオーリンズ一帯を襲う台風を題材とした「チータ」という小説を書く。

2人は、面識があったのだろうか。今のところ、そういう記録は見ていない。なにしろ、ハーンは日本でこそ小泉八雲として有名だが、国際的には無名人。ただ、大きな島ではなさそうだし、顔を合わせたことはあるのだろう。

「陰気なアイリッシュウイスキー野良、キモい奴だな」

「島の娘を口説いてヌードを描きまくるプレーボーイ、許さじ・・」