漂泊の画家、ゴーギャン

2009-09-06 00:00:50 | 美術館・博物館・工芸品
近代美術館で開催中(7/3~9/23)のゴーギャン展に行ってから1ヶ月ほど経っている。あまりに強烈な印象を持て余していたのだが、そろそろ書いてみる。あまり、まとまりがつくとも思えないが。


世界には、何枚かの「名画」というのがある。例えば「モナリザ」とか。

g1そういう、超破格の一枚が、今回登場した、『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』。1897年から98年にかけ、タヒチにまで漂泊していたゴーギャンが人生の最後の力を振り絞り完成させた巨大な作品である。

実は、ほぼ同じ時期に、日本科学未来館で「アフリカで生まれた人類が、民族に分かれて世界に散らばっていった過程を調べる科学」の講演を聴いたのだが、その講演のテーマが、『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』であった。狭い東京で時僅かして二度も同じテーマにぶちあたる。確かに、ゴーギャンがタヒチで見た人たちの表情や風習、宗教はヨーロッパとは大きく異なるわけで、大いに感じることがあっただろう。

実際には、タヒチの人たちは、アフリカから早い時期に脱出し、ユーラシア大陸の南岸をまっしぐらにタヒチまで来たようだ。


さて、作品のサイズは139センチ×374センチであるから、かなり大きく、横長である。おそらくは、日本の絵巻を参考にしてのではないかと考えられる。絵巻は、一枚の作品の中に、同時発生的なできごとを描く場合(合戦絵巻とか)と、歴史的な時間の流れ(伴大納言絵巻)を描く場合があるが、ゴーギャンは、タヒチの人たちを超時間的、超空間的に描いている。

生まれたばかりの乳児もいれば青年男女がいる。世間話をするオバサマ方。そして、まもなく黄泉の国に旅立つ老婆。象徴的に犬などの小動物が描かれ、さらに悪霊や、神も登場する。

それが、人類のすべてさ。

たぶん、そう言いたかったのだろうか。

g2さて、ゴーギャンと言えば、ゴッホの耳切り事件に関係があるとされ、一説では容疑者の一人らしいが、年譜をみていると、ゴッホの弟である画商テオが、ゴーギャンの絵画に「これはスゴイ」と、目をつけたところからの関係のようだ。かなり性格は異なっていて、どこにも共通点は見えない。

ゴッホは、まじめ一筋で、コツコツと努力を積み上げ、ついに美術史に燦然と輝く糸杉画法を確立させる。

一方のゴーギャンは、パリ生まれであるにもかかわらず、両親の政治的問題でペルーで少年時代をすごす。その後、船乗りになったあと、株式仲買人で大もうけする(客からまきあげたのかな?)その資金で、結婚するも、アマチュア画家となる。そして貧乏方向に進んでいき、おきまりのようにモデルと関係ができたり、世界放浪の旅に出たりする。そして画商テオに見出されるわけだ。

だから、画風を確立させようなどと思ってなかったのだろう。元々、絵が巧かったのだろう。展覧会に出品された各作品だが、技法的には若いときと晩年と、大きなテクニカルな差はみられない。もちろん絵画にこめるスピリチュアルは、加齢とともに飛躍的に増大していく。

そして、彼は43歳から45歳にかけて最初のタヒチ生活を送り、描きためた作品を船に乗せてパリに持ち帰り、凱旋バーゲンをしたのだが、評判倒れで、売り残してしまう。

g3パリの画壇に受け入れられないことを悟ったゴーギャンは、「二度とフランスの土を踏まない」と堅く決意し、南洋の土となるべく再度、タヒチに住まいを構える。そこで、数々の名画を残すわけだ。

世界の名画である『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』は渾身のエネルギーで完成される。フランスから見捨てられた彼は、にもかかわらず、この大作をフランス政府に寄贈する。

にもかかわらず、この作品は、現在、ボストン美術館の所蔵になっている。

この大作はどこから来たのか、どこへ行くのか、なのだろうか。

g4完成後3年、1901年にゴーギャンはタヒチを離れ、さらにフランスから遠い、もう南アメリカ大陸に近いマルキーズ諸島に移住。力尽きたかのように大人しいタッチの絵画を残し、自分の墓地となる山の上の教会を描いたあと、1903年、完全に人生を燃焼させてから、亡くなる。55歳。

ところで、彼が画家に転じてから数年後、ゴッホに会う前の短い期間に、妙なところに遊んでいることがわかった。パナマとマルティニーク島である。カリブ海。実は、このマルティニーク島というのに、ある記憶がオーバーラップしたわけだ。ちょっとした発見。