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「韓国社会に「トレランス」広めたホン・セファ氏死去…最後の願い「成長から成熟へ」」

2024年04月19日 | 韓国で
「The Hankyoreh」 2024-04-19 11:24
■韓国社会に「トレランス」広めたホン・セファ氏死去…最後の願い「成長から成熟へ」

【写真】ジャン・バルジャン銀行頭取を務めたホン・セファ氏=パク・スンファ記者eyeshoot@hani.co.kr//ハンギョレ新聞社 

 韓国社会に「トレランス」を伝えた作家でありジャーナリスト、社会運動家であるホン・セファ氏(ジャン・バルジャン銀行頭取)が18日に死去した。享年77。
 故人は1947年12月10日、ソウル鍾路区梨花洞(チョンノグ・イファドン)で生まれた。ほどなく朝鮮戦争が勃発し、親と離れ離れになり鍾路区蓮建洞(ヨンゴンドン)の母方の実家に預けられて育った。母方の祖父は人生の知恵を教えてくれた人だったという。京畿中・京畿高校を経て、1966年にソウル大学金属工学科に入学した。
 ホン・セファの名が韓国社会に広く知られるようになったきっかけは、フランスに亡命中だった1995年に出版した自伝的エッセイ『私はパリのタクシー運転手』(日本語題『コレアン・ドライバーは、パリで眠らない』みすず書房)だった。亡命者として暮らすことになった激動の過程とパリ生活のエピソードを交え、読者の熱い反応と支持を受けた。本全体を貫く「トレランス(寛容さ)」は、白黒論理が支配する韓国社会に知的省察のきっかけを与えたという評価を受けている。
 ホン・セファ氏が亡命者になったのは、ドイツのデュッセルドルフに続いて定着したフランスのパリにいた頃、南朝鮮民族解放戦線(南民戦)事件が起きてからだ。当時、ホン氏は貿易会社デボン産業の海外支社に勤務する社員だった。1977年、韓国民主闘争委員会(民闘)の盟員を経て、南民戦の闘争家となったが、組織員という事実が明らかになり、故国に帰れない境遇となった。
 亡命20年目にして1999年にようやく帰国し、この時出版した文化批評エッセイ『セーヌは左右を分かち、漢江は南北を隔てる』(ハンギョレ出版、日本語版はみすず書房)が書店総合部門のベストセラーになり、作家として改めて地位を固めた。
 2002年に完全帰国したホン氏は、同年2月、ハンギョレ新聞社に入社し企画委員と編集委員を務め、2009年にはハンギョレが発行する「ル・モンド・ディプロマティーク」韓国版の編集人を務めた。ハンギョレの企画委員として働いていた当時、多様な市民の声と意見を盛り込んだ『なぜなら』という紙面を作った。『なぜなら』は現在まで続いており、専門家やジャーナリスト中心の世論の地形で市民の声を代弁する公論の場となっている。ホン氏はハンギョレを離れた後も、物静かでまっすぐな性格で多くの後輩から尊敬を受けた。韓国社会の代表的な知識人であり活動家、政党員として、2011年に進歩新党の共同代表、2013年に季刊誌「言葉と弓」発行人となり、2015年からは罰金刑を宣告され罰金を払えず刑務所に入る人々を支援する社会団体「ジャン・バルジャン銀行」の頭取となった。
 故人は生前のインタビューで、ソウル大学金属工学科1年だった1966年の秋夕(チュソク、旧暦8月15日)の時、父親の故郷であった出来事を「思惟体系の土台を崩した人生の分岐点」だったと述懐している。忠清南道牙山郡塩峙面大洞里(チュンチョンナムド・アサングン・ヨムチミョン・テドンリ)のファンゴルで、親族の代父から朝鮮戦争期に住民の間で起こった虐殺の全貌を聞いたのだ。その現場に3歳だった本人が母親、弟と一緒にいたという衝撃的な事実も知ることになった。村の公会堂に閉じ込められた一家は「指一本」で生死が分かれる運命にあった。親族は家族単位で皆殺しにされた。この事件以後、母親は去り、1歳だった弟のミンファは死んだ。日本から帰ってきてアナーキスト活動をしていた父親は逃避生活中で、事件当時はいなかった。
 放浪を始めたホン氏は落第して学校を辞め、1969年にソウル大学文理学部の外交学科に再び進学した時には別人になっていた。演劇部の活動をしながら学生運動に没頭した。1970年の労働者チョン・テイルの死と1975年の人民革命党事件関連者8人に対する死刑執行に接し、闘争家になることを決心した。これらが南民戦に入るきっかけとなった。
 故人は昨年9月、メディアのインタビューで「理性の光を失った瞬間、私たちは人間であることを放棄することになる。孟子は惻隠の心、羞悪の心、辞譲の心、是非の心を語った。言葉を変えれば『トレランス』だ」と語った。昨年1月、ハンギョレに最後に載せられた同氏のコラムのタイトルは「最後の願い:所有から関係へ、成長から成熟へ」だった。「自然と人間、動物と人間、人間と人間の関係は成長するのではなく成熟するもの」と書いた。
 故人は昨年2月、がんの診断を受けたが抗がん治療をせずに活動を続けた。12月頃からがんが全身に広がり、京畿道一山(イルサン)の国立がんセンターとソウル中浪区(チュンラング)の緑色病院を行き来して治療を受けてきた。病状が重くなり、妻を含む家族が韓国に来て臨終を見守った。遺族は妻のパク・イルソンさん、子どものスヒョンさん、ヨンビンさん。葬儀は18~21日、ハンギョレ新聞社の社葬で行われ、葬儀場はソウル西大門区の延世大学校新村セブランス病院斎場に設けられた。告別式および出棺は21日午前8時。

コ・ギョンテ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2024-04-18 21:11
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