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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「佐世保海軍病院跡を訪ねて」

2016年10月22日 | 海南島史研究
http://asd12.web.fc2.com/
■佐世保海軍病院跡を訪ねて(1997年)
    ~父の足跡を追ってみる~       ※原文は元号使用

 佐世保は半世紀ぶりの訪問である。 一九四五年六月二十九日の佐世保大空襲により佐世保海兵団の兵舎も焼失したそうであるが、僅かにレンガ作りの塀らしき場所だけが残っていた。海兵団跡地内には現在、米軍ニミッツ・パーク、自衛隊佐世保病院等が同居している。
 一九四三年に父が疾病のため佐世保海軍病院へ入院した時、母と見舞いに訪れた思い出の地である。下関市から佐世保に向い一泊、翌日病院を訪れた。 守衛が「お前達は何処から来たのだ」と横柄な口をきくので、母は「あっちから来た」と返事してやったと自慢話を聞いたことがある。
 やがて長いテーブルがある食堂のようなところへ案内された。そこには、おだやかな顔をした父が待っていた。 始めて見る父でした。「遠いところよく来たな」と私を抱き上げてくれた。
 今も、その光景は忘れる事はない。4歳の時でした。帰りに菓子をもらった。見たこともない黒いかたまりの菓子だった。後から母に、それはチョコレートだと聞かされた。

   【写真】海軍病院にて(左が父)
   【写真】佐世保海兵団跡地
   【写真】自衛隊佐世保病院(資料館7Fより撮影)
   【写真】海上自衛隊佐世保資料館
   【写真】戦艦三笠(パンフレットから拝借)

 佐世保に父の生活していた痕跡が残ってはいないだろうかと思い、佐世保水交社跡(佐世保海兵団集会所)に建てられた7階建ての自衛隊佐世保資料館を訪ねた。父も幾度となく出入りした場所であろう、資料館事務所に行き氏名、入団の時期、階級を告げ調査をお願いしたが、特務士官以上の資料は残っているが下士官以下は無いとの返事であった。 終戦から60年の月日が流れ、戦場の最前線で戦ってきた小兵達の記録は無いとのことであった。もう過去の出来事として忘れ去られてしまったのだろう。
 佐世保史料館は侵略戦争への反省は全くなく、旧海軍の栄光の軌跡を追い、その歴史と伝統を海上自衛隊がそのまま受け継いでいることを、はばかることなく示していた。
 戦後、父が戦争体験を話してくれた事があった。それは住民を壕に集めて一度に虐殺する作戦だったそうです。ある日、住民を壕に入るように命令し 最後に入り遅れた幼い兄弟がいたそうです。入り口の前で、たおれた弟を兄が抱きかかえるようにして入ったそうです。その直後、手榴弾を投げ込まれたのである。 非戦闘員である住民や幼子まで容赦なく虐殺したのだ。この凄惨な光景を見ていた父は、このことが重く心にのしかかっていたのだろう酒が入ると泣きながら話していた事を覚えている。その父も一九六八年に他界した。 あの呪わしい戦争を体験した人々もしだいに数少なくなってきて戦争体験も風化しつつあることは残念でなりません。
 長い間タンスの中で眠っていた軍人恩給手帳を取り出し、戦場でどんな体験をしたか足跡を追って見ることにした。それがせめても父への供養になるのではないかと思った。1932年から1943年まで、上海事変、日中戦争から太平洋戦争までの期間のうち、2度にわたり従軍し通算9年間の出来事がつづられていて侵略戦争の一片を垣間見ることが出来た。この戦争体験談は1941年8月の海南島討伐の「Y-四作戦」だと思われる。

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              父の軍歴 (軍人恩給手帳写)

1932年6月1日   現役編入
  同年6月30日  佐世保海兵団入団     
  同年11月13日 海軍三等水兵を命ズ  
        同日 戦艦陸奥乗船を命ズ (佐世保海兵団)
1933年6月29日  馬鞍群島に向ウ 佐世保発 (陸奥)
  同年7月4日   基隆帰着
  同年7月13日  南洋群島ニ向ウ 馬公発(遠洋航海)
  同年8月21日  木更津沖帰着
  同年8月25日  1933年度特別大演習ニ付御紋菓下賜セラル

 戦艦陸奥の写真も乗員に下賜された。A4大の大きさでカラー写真(中央上部に金の菊の御紋があり、昭和天皇のお姿もある)お召し艦といわれ、天皇陛下が乗船される戦艦であった。

  同年10月28日 補充交代、上海陸戦隊ニ転勤を命ズ、即日佐世保海兵団ニ仮入団セシム
  同年11月1日  海軍二等水兵を命ズ (上海海軍特別陸戦隊)

 上海特別陸戦隊の増設部隊(第三艦隊)河川砲艦を主体とする艦隊で第一次上海事変後の揚子江流域を監視した

  同年11月2日  知床便佐世保発(揚子江)
  同年11月4日  入隊 乗艦を出雲ニ指定ス  (第三艦隊)
1934年4月13日  両陛下ヨリ侍従武官ヲ御差遣、御紋付き煙草下賜セラル

 通称「恩賜の煙草」と言い、戦時中、天皇陛下から兵士たちに下賜された煙草のことである。 約8センチ四方のケースに入っており、煙草の長さは7センチ程度。一本一本に金色の菊の御紋が入っていた。

  同年6月6日   乗艦を對馬ニ変更ス 第三艦隊
  同年8月8日   乗艦を對馬ヨリ安宅に変更ス
1935年4月11日  両陛下ヨリ侍従武官ヲ御差遣、御紋付き煙草下賜セラル
  同年4月30日   帰休前に付、佐世保海兵団ニ入団を命ず
  同年5月1日   海軍一等水兵ヲ命ズ (佐世保海兵団)
1935年5月31日  現役満期
  同年6月1日  予備役編入
              1941年6月1日 後予備役編入
              予定、後予備役満期1944年5月31日
              1944年6月1日第一国民兵役編入
              第一国民兵役編入満期1951年7月23日

 【豫後備役】 現役終了後ただちに5年間の「豫備役」編入となり、豫備役期間が終了すると、 さらに10年間の「後備役」に編入されます。後備役期間が終了すると、「第一國民兵役」に編入されます。

1939年3月8日  法律第一号ニヨリ予備役1年、後予備役2年延長セラル
  同年      鎮海警備隊付ヲ命ズ 鎮海着入隊
  同年9月12日 充員招集を命ゼラレ佐世保海兵団ニ入団   
1940年5月10日 佐世保発戦地、戦務 (加算率三ヶ月)
  同年5月8日  第三遣支隊司令部付 青島根拠地隊 付ヲ命ズ(即日光済ニ便乗)

 雑役船、光済は戦後、復員兵輸送に使用された。

  同年5月10日 佐世保発北支方面戦地戦務(加算率三ヶ月)
  同年5月12日 青島着入隊 乗艦ヲ磐手ニ指定ス
           青島を拠点に華北方面の哨戒任務を担当
1941年1月7日  佐世保海兵団付ヲ命ズ(即日北安丸便乗)
  同年1月9日  佐世保帰着
  同年4月17日 佐世保鎮守府第一特別陸戦隊付ヲ命ズ(即日逢海丸便乗)南支方面戦地戦務
  同年4月24日 海南島討伐作戦に従事  佐鎮一特
        同日 三亜着、即日入隊
  同年8月9日~30日 Y-四作戦に従事

 鉄鉱石等の資源を求めての侵略戦争で「Y-四作戦」は佐世保鎮守府第8特別陸戦の作戦名。
 『海南警備府戦時日誌』によれば 8月の1か月間に、黄竹鎮村落などを遺棄死体89、射刺殺53、捕虜24、帰順26、焼却兵舎84、討伐回数202と残虐行為を重ねていました。戦後、当時の上層部は住民虐殺として広東で処刑されている。

  同年9月22日  三亜発(北泰丸便乗)
  同年10月3日  佐世保着
  同年5月1日~11月20日 南支方面事変地勤務 (加算率二ヶ月)
  同年11月28日 佐世保鎮守府特別陸戦隊ニ編入
        同日 佐世保発(幾内丸乗船)
  同年12月4日  パラオ着 (不健康地域勤務)
  同年12月4日~12月31日 南洋方面戦地戦務
1941年1月1日   蘭領東印度方面作戦に従事

 ボルネオ作戦に参加 日本軍の司令官、今村均中将が3個師団と1旅団を率いて1942年1月12日、ボルネオ島の北部のタラカンを占領した。ここは日本が石油等の資源を求めての戦争であった。
 海南島討伐戦争と大きく違うことは終戦後、今村は軍事法廷に引き立てられたが参考人として100人以上の白人や現地人がことごとく、 今村の軍政の正当適切であったことを立証して今村は無罪になったことである。

  同年3月10日  佐世保鎮守府第一特別陸戦隊ヲ第四警備隊ニ改編
       同日  第四警備隊付ヲ命ズ 、第一南遣艦隊に編入

 南遣艦隊を改名したものである。南遣艦隊の任務を引き継ぎ、シンガポール攻略を支援した。

  同年10月31日 任海軍三等兵曹
  同年11月1日  勅令第六百十号ニ依リ海軍二等兵曹トナル
1943年1月8日   1942年度四警初任下士官特別教育終了
  同年3月18日  第二種症(膀胱炎兼肺結核、病院ニ入院を命ズ)
  同年9月14日  入院中の儘佐世保第一海兵団に送籍 氷川丸病院船に転院
  同年10月31日 佐世保海軍病院に転院
  同年11月8日  支那事変ノ功ニ依リ金四十円を授ケ賜ウ  賞勲局
              支那事変従軍記章授興             賞勲局
              給一級俸
  同年11月11日 嬉野海軍病院に転院
1944年7月15日  疾病ニヨリ召集解除(公務)
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 当時の上官が書いたものであろう。インクはにじみ、紙はボロボロになっていて、読みとれないところも数箇所あったが出来るだけ忠実に写したつもりである。黄色文字の部分は調査した参考資料である。