三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「北海事件」 2

2012年04月28日 | 海南島史研究

 1936年9月15日に、日本海軍軍令部は、「北海事件処理方針」をだした。そこには、「北海方面ニオケル兵力行使終了セバ、所要ノ兵力ヲ海口方面ニ駐メ、爾余ノ兵力ハ所要ノ方面ニ集結ス」、「情況ニヨリ海南島モシクハ青島ノ保障占領ヲ行ナウ」と書かれてあった。このときの、軍令部総長は、伏見宮博恭王(1875年~1946年)であった。
 「北海事件」のあと、中華民国政府の張群外交部長(1889年~1990年)と日本政府の川越茂駐華大使(1881年~1969年)の間で、9月15日に南京で1回目の会談がおこなわれ、16日に2回目の会談がおこなわれた。
 このとき、川越茂大使は、日本海軍軍令部の「情況ニヨリ海南島モシクハ青島ノ保障占領ヲ行ナウ」という方針を、日本政府の方針として張群外交部長に伝えたようである。
 のちに、張群は、つぎのように述べている。
    「翌16日、第2次会談が行われた。このとき川越は、北海事件の調査という口実で「日
   本海軍は海南島と青島を保障占領することを考慮している」と、脅迫がましい口調で言っ
   たものである。北海事件は広東省欽州で起きた事件であり、海南島や青島とは見当違い
   も甚だしい。日本の大使ともあろうものが、このような言いがかりをつけて脅迫するという
   のは、まさに、横暴、無理難題であって、まことに憤慨に耐えないものといわなくてはなら
   ない」(張群『日華・風雲の七十年』サンケイ出版、1980年8月、66~67頁)。
                                                  佐藤正人

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