1936年9月15日に、日本海軍軍令部は、「北海事件処理方針」をだした。そこには、「北海方面ニオケル兵力行使終了セバ、所要ノ兵力ヲ海口方面ニ駐メ、爾余ノ兵力ハ所要ノ方面ニ集結ス」、「情況ニヨリ海南島モシクハ青島ノ保障占領ヲ行ナウ」と書かれてあった。このときの、軍令部総長は、伏見宮博恭王(1875年~1946年)であった。
「北海事件」のあと、中華民国政府の張群外交部長(1889年~1990年)と日本政府の川越茂駐華大使(1881年~1969年)の間で、9月15日に南京で1回目の会談がおこなわれ、16日に2回目の会談がおこなわれた。
このとき、川越茂大使は、日本海軍軍令部の「情況ニヨリ海南島モシクハ青島ノ保障占領ヲ行ナウ」という方針を、日本政府の方針として張群外交部長に伝えたようである。
のちに、張群は、つぎのように述べている。
「翌16日、第2次会談が行われた。このとき川越は、北海事件の調査という口実で「日
本海軍は海南島と青島を保障占領することを考慮している」と、脅迫がましい口調で言っ
たものである。北海事件は広東省欽州で起きた事件であり、海南島や青島とは見当違い
も甚だしい。日本の大使ともあろうものが、このような言いがかりをつけて脅迫するという
のは、まさに、横暴、無理難題であって、まことに憤慨に耐えないものといわなくてはなら
ない」(張群『日華・風雲の七十年』サンケイ出版、1980年8月、66~67頁)。
佐藤正人
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