3 南呂鎮での聞き取り
ト文村を出て、南呂鎮に行きました。
南呂鎮の中心部で鍾時常さん(1924年生)から話を聞きました。
“軍営は尖端がとがった木と鉄条網で囲まれていた。望楼作りや道路工事に駆りださ
れ、石運びや掃除の仕事をさせられた。
陵水の飛行場でも働いたことがある。トラックで陵水まで運ばれ、1週間働いてから、
逃亡して、歩いて何日もかけて故郷にたどり着いた。陵水は水事情が悪く、井戸を掘ると
塩水をふくんだ水が出て、その水を飲んだ人は病気になりたくさん死んだ。
日本軍は少女を機関銃で撃ち殺したり、村民を縛って頭から熱湯をかけたりして殺し
た。家族が殺されたので、埋められていた遺体を掘り出そうとしてみつかり銃殺された人
もいる。60歳代の夫婦は銃剣で刺し殺された後、焼かれた。一家3人が働かないといっ
て殺されたこともある”。
日本軍が村民を強制労働に駆り立てるために過酷な迫害をおこなった事実が浮き彫りになりました。
4 羊角嶺の水晶鉱山で
3月23日の朝、屯城鎮の符名鳳さんのお宅を訪問しました。符名鳳さんは今から11年前の2000年に佐藤正人さんが出会い、近くの羊角嶺の水晶鉱山に案内していただいた人です。
水晶鉱山は、現在は水晶が採れなくなっていますが、観光公園として開発する準備をしているところで、そのための資金を集めているそうです。
符さんは自分の体験をつぎのように話しました。
”12歳のころ日本軍にむりに水晶鉱山で働かされた。父も母も病弱で働けなかった
ので、代わりに自分が働かされた。
当時、ここから20キロほど離れた烏坡鎮の村に住んでいた。そこにも日本軍の駐屯
地があり、水晶鉱山で働く人を各村から30-50人位ずつ出すよう強いられた。各村の
保長が25の村から1000人くらいを集めた。
トラックで鉱山に運ばれ、3ヶ月ほど働かされた。鉱山で住んでいた家は、草で屋根
をつくり、床にも草を敷いただけのものだった。
働いているとき、仕事が遅いといって胸ぐらをつかまれ、投げ飛ばされて、そのとき石
の角が足に当たり、足が傷ついた。傷跡がまだ残っている”。
符さんはズボンをまくって傷跡を見せてくれました。話を伺った後、車で羊角嶺の鉱山跡に案内していただきました。
鉱山の入口から徒歩で山道を歩いてほどなく、鉱山労働の犠牲者の追悼碑が建てられている場所に着きました。碑には「羊角嶺被日冠惨殺無 殉難同胞坆」と刻んでありました。ここには犠牲者の遺骨はないそうで、山のあちこちに埋められているとのことです。
符さんはここで3ヶ月はたらき、食事はおにぎりが2個、塩漬け大根が2切れで、ご飯には砂が混じっていました。逃げてつかまると銃殺されたそうです。
そのあと、別のルートから鉱山の頂上に上りました。上から鉱山を採掘した場所を見下ろすと、そこには水がたまり、巨大な池になっていました。ここからは屯昌の町が一望できました。
日本軍は鉱山の採掘労働に地域住民を動員して、きわめて過酷な条件で働かせていた状況が、符さんの話からうかがえます。
斉藤日出治