11月27日、朝10時から、追悼の場を整備するグループが、新しく木を植え、草刈りや清掃作業を行い、紀州鉱山「現地調査」のグループは、湯の口の鉱口、飯場跡、板屋の選鉱場跡や坑口、「英国人墓地」の調査を行い、12時過ぎに合流しました。
午後1時に、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する4回目の集会が開会されました。
はじめに、紀州鉱山の真実を明らかにする会事務局は、
「昨年は、韓国の江原道から強制連行された丁榮さんの息子さんの丁炳碩さんがこの追悼集会に参加した。
丁炳碩さんは、三重県と熊野市がこの土地に課税したことに驚き、憤っていた。
ことし2月に韓国江原道議会の議員一同が三重県と熊野市に「嘆願書」という形式で、課税に抗議する文書を出した。
3月には江原道議会が『日帝強制徴用による「紀州鉱山」韓国人犠牲者にかんする資料』を発行したが、その編者の丁乙權江原道議会副議長は丁炳碩さんの息子さんだった。
丁炳碩さんは本年6月亡くなった。
12月1日に予定されている3回目の裁判で、津地方裁判所は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行という基本問題を避けて判決を出そうとしている。
これかも共に日本の侵略犯罪の歴史的責任を問う民衆運動をすすめていきたい」
と報告しました。
金順子さんが、追悼碑と亡くなった朝鮮人の名を記した35個の石の前で、追悼の舞を舞いました。
参加者全員で献杯し、献花したあと、参加者から次の意見や感想が述べられました。
「歴史的事実を調べていく必要がある」、
「なぜ故郷を離れてここで亡くならなければならなかったのかを、各地で一人でも多くの人に知らせる責任がある」、
「悲しみの気持ちをみんなに伝えていかなくてはならない」、
「歴史の事実を風化させず、事実を伝えていこう」、
「紀和町の谷間に朝鮮のメロディーが流れ、追悼の想いを強くした」、
「村から誰を日本に強制連行させるかを決定するとき、面長は、自分の子どもなどは行かせなかった。
その面長は、解放後、殺された。
本当の加害者は、日本政府であり石原産業である。この近くにある熊野市紀和鉱山資料館では、石原産業の社長であった石原広一郎を「紀和町の輝かしい近代鉱山史を築きあげた」と説明している」、
「今回の裁判を35人はどんな想いで見ているかと思うと、裁判を頑張らなければと思う」、
「父も母も紀州鉱山で働いていた。イルカボーイズが来たとき、母は接待役を頼まれた」、
「今まで強制連行の問題を避けていたと思う。日本は深い反省がないとこれから100年うまくいかないと思う」、
「裁判に、かなり力を費やしてきた。会の歴史認識と日本社会の歴史認識とのギャップの大きさを感じる。この裁判は、このギャップを埋めるという大切な裁判である」、
「35人の亡くなった朝鮮人を追悼する集会をつくり出すために奮闘してきた皆さんの魂の熱さに感謝している。来年、東京で呼びかけていきたい」
「多様な表現を通して、豊かな追悼集会を参加できた。これをエネルギーとバネにして、また来年も追悼集会に参加したい」
「亡くなった英国人捕虜にくらべ、亡くなった朝鮮人に対しては不当な扱いがされていると思う」。
山口から参加した李陽雨さんがギターをひきながら追悼の歌を歌いました。
「俺の父親は炭焼 俺はそのせいで釜のそば……山から山への流れ者 眠る所も釜のそば」
という歌詞で、季節労働で各地を廻りながら生活を支える父親を思う歌。続いて「ドクダミ草」という題の、
「かたすみに 人目もふれずに咲いている 浮かんでいるような白い花 嫌われて 変な花 それでも命を守る花」
という歌詞の、真実を生きる民衆の姿を歌にした歌が披露されました。
最後に、近くの紀宝町に住む紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員が、
「遠くのところからありがとうございました。
追悼集会に対する皆さんの気持ちを感じました。そんな想いで生きていきたい」
とあいさつしました。
前夜、紀南国際交流会代表の戸地功さんから、この集会のために花束が届けられていました。
竹本昇
午後1時に、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する4回目の集会が開会されました。
はじめに、紀州鉱山の真実を明らかにする会事務局は、
「昨年は、韓国の江原道から強制連行された丁榮さんの息子さんの丁炳碩さんがこの追悼集会に参加した。
丁炳碩さんは、三重県と熊野市がこの土地に課税したことに驚き、憤っていた。
ことし2月に韓国江原道議会の議員一同が三重県と熊野市に「嘆願書」という形式で、課税に抗議する文書を出した。
3月には江原道議会が『日帝強制徴用による「紀州鉱山」韓国人犠牲者にかんする資料』を発行したが、その編者の丁乙權江原道議会副議長は丁炳碩さんの息子さんだった。
丁炳碩さんは本年6月亡くなった。
12月1日に予定されている3回目の裁判で、津地方裁判所は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行という基本問題を避けて判決を出そうとしている。
これかも共に日本の侵略犯罪の歴史的責任を問う民衆運動をすすめていきたい」
と報告しました。
金順子さんが、追悼碑と亡くなった朝鮮人の名を記した35個の石の前で、追悼の舞を舞いました。
参加者全員で献杯し、献花したあと、参加者から次の意見や感想が述べられました。
「歴史的事実を調べていく必要がある」、
「なぜ故郷を離れてここで亡くならなければならなかったのかを、各地で一人でも多くの人に知らせる責任がある」、
「悲しみの気持ちをみんなに伝えていかなくてはならない」、
「歴史の事実を風化させず、事実を伝えていこう」、
「紀和町の谷間に朝鮮のメロディーが流れ、追悼の想いを強くした」、
「村から誰を日本に強制連行させるかを決定するとき、面長は、自分の子どもなどは行かせなかった。
その面長は、解放後、殺された。
本当の加害者は、日本政府であり石原産業である。この近くにある熊野市紀和鉱山資料館では、石原産業の社長であった石原広一郎を「紀和町の輝かしい近代鉱山史を築きあげた」と説明している」、
「今回の裁判を35人はどんな想いで見ているかと思うと、裁判を頑張らなければと思う」、
「父も母も紀州鉱山で働いていた。イルカボーイズが来たとき、母は接待役を頼まれた」、
「今まで強制連行の問題を避けていたと思う。日本は深い反省がないとこれから100年うまくいかないと思う」、
「裁判に、かなり力を費やしてきた。会の歴史認識と日本社会の歴史認識とのギャップの大きさを感じる。この裁判は、このギャップを埋めるという大切な裁判である」、
「35人の亡くなった朝鮮人を追悼する集会をつくり出すために奮闘してきた皆さんの魂の熱さに感謝している。来年、東京で呼びかけていきたい」
「多様な表現を通して、豊かな追悼集会を参加できた。これをエネルギーとバネにして、また来年も追悼集会に参加したい」
「亡くなった英国人捕虜にくらべ、亡くなった朝鮮人に対しては不当な扱いがされていると思う」。
山口から参加した李陽雨さんがギターをひきながら追悼の歌を歌いました。
「俺の父親は炭焼 俺はそのせいで釜のそば……山から山への流れ者 眠る所も釜のそば」
という歌詞で、季節労働で各地を廻りながら生活を支える父親を思う歌。続いて「ドクダミ草」という題の、
「かたすみに 人目もふれずに咲いている 浮かんでいるような白い花 嫌われて 変な花 それでも命を守る花」
という歌詞の、真実を生きる民衆の姿を歌にした歌が披露されました。
最後に、近くの紀宝町に住む紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員が、
「遠くのところからありがとうございました。
追悼集会に対する皆さんの気持ちを感じました。そんな想いで生きていきたい」
とあいさつしました。
前夜、紀南国際交流会代表の戸地功さんから、この集会のために花束が届けられていました。
竹本昇