三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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日本の侵略犯罪の記録 2

2011年12月13日 | 海南島史研究
 きのう(12月12日)、2月9日に続いて、ソウル記録情報センターで、軍人・軍属として旧日本海軍に入れられていた人たち6千人ほどのの書類を見ました。
 その書類 のなかに、海南島で亡くなった10人ほどの人の記録がありました。
 その中には、1942年7月14日に「南方政務部」に「嘱託(無給無得)」として「採用」され、同じ日に海南島で「熱帯熱マラリヤ性肺炎」で「戦病死」し「現地処理(西松組)」されたと書かれていDさんの書類、1943年12月10日に「南方政務部」に「嘱託(無給無得)」として「採用」され、同じ日に海南島で「熱帯熱マラリヤ」で「戦病死」し「現地処理(西松組)」されたと書かれているEさんの書類、1944年5月10日に「南方政務部」に「嘱託(無給無得)」として「採用」され、同じ日に海南島で「両側性肺炎」で「死亡(非公務死亡)」し「現地処理(西松組)」されたと書かれているFさんの書類、1944年5月26日に「南方政務部」に「嘱託(無給無得)」として「採用」され、同じ日に海南島で「肺結核」で「普通死」し「現地処理(西松組)」されたと書かれているGさんの書類、1945年3月21日に「南方政務部」に「嘱託(無給無得)」として「採用」され、同じ日に海南島石碌で「戦死(陸上戦闘)」し「現地処理(西松組)」されたと書かれているHさんの書類、1945年4月12日に「南方政務部」に「嘱託(無給無得)」として「採用」され、同じ日に海南島「喃淋」で「マラリヤ」で「戦病死」し現地処理(西松組)」されたと書かれているIさんの書類がありました。
 このうち、Fさん以外の5人の書類にはすべて、「靖国神社 合祀手続済」という判(1959年7月31日付け)が押されていました。
                                       佐藤正人
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