10月31日午前9時半に、“三・一”被難公塚に着きました。そこで、曹靖さんは、こう語りました。
日本軍はここに村人を連れてきて殺した。あらかじめ掘っておいた穴に遺体を捨てた。遺体は、村民に埋めさせた。生きている人もいた。深く埋めないでくれというのを、軍人が監視しているから、そうできなかった。
長仙村では共産党組織が活動していた。坡村では、国民党組織が活動していた。長仙村を襲撃したあと、日本軍は、坡村も襲撃した。日本軍の通訳をしていた人が、陽江の部隊から機関銃やら武器を盗んで、坡村に逃げ込んだ。それで、日本軍が坡村を襲撃した。台湾人かもしれない。敗戦間際になっていたので、日本軍にいるとよくないと考えたのかもしれない
日本軍の駐屯地は、中原、陽江、橋園。
人数は陽江がいちばん多かった。あのときは、中原の部隊が指揮して襲撃したが、陽江、橋園の部隊も合流した。陽江、橋園の部隊は村から逃げた人を山の方に包囲して、子どもも老人も殺した。
村民に中原の部隊に来させて、良民証をチエックした。良民証は13歳以上は持たされる。次兄は中原に行って良民証を持たされていたが、殺されなかった。
子どもは1列、大人は2列に並ばせた。子どもを連れた母親は、大人の列に並び、子どももいっしょに殺された。
若い女性が7人、どこかに連れていかれた。陽江のほうに連れていかれて、慰安婦にされたのだろう。見たことはないが、みんなそう言っていた。7人のうち、ふたりはいまも元気だ。(日本が敗けたたあと、7人はみんな村に戻ってきた。村の人は、何も言わなかった。日本は慰安婦のことは否定できない。
日本軍は村を3か月間、包囲した。村の人は、山に逃げて、夜中、日本軍がいなくなると食べ物などを取りに、家に戻った。
わたしは親戚のところにも逃げることができなかった。母はこのころすでに、病気で亡くなっていた。父はシンガポールに行っていなかった。わたしは3番目。長兄は21歳。共産党に入っていたかどうか知らないが、若者が村にいるとあぶないので、村に戻らず、放浪していた。
日本軍の襲撃後、次兄とふたり、食べられず、村を出て、物乞いをしながら、生き延びた。 一時的に村に戻って、日本軍に見つかり殺された人もいた。
この碑ははじめ1947年に国民党が作った。その後、死者の名前が刻まれた4枚の碑の1枚が行方不明になった。文革のときまた壊されたが、1984年に修復した。2001年に土を盛った墓をセメントで固めた。2011年はじめ、屋根、門などを改装し、新しく道を作った。
わたしは、1967年から1987年まで昌江で仕事をしていたので、そのとき石碌鉱山に行ったことがある。日本軍の慰安所の建物が残っていた。
日本の敗戦後、陽江で慰安所の場所を見たことがある。いまは残っていない。
次兄は15歳のとき、国民党に捕まって殺された”。
11時ころ、曹靖さんに、日本海軍海南警備府佐世保第八特別陸戦隊の中原守備隊本部があった所に案内してもらいました。そこは、中原の中心部で、瓊海華僑医院の敷地内でした。
曹靖さんは、こう話しました。
“日本軍の本部の門は、いまの病院の門のあたりにあった。全体が鉄条網で囲まれていた。鉄条網の内側に溝を掘って水を流していた。溝の内側に塀があった。人の背丈より、頭くらい高かった。
地下壕があった。地下にトンネルもあった。
子どものとき日本軍がいなくなってからここに来て、見た。
ここには炮楼はなかった。炮楼は治安維持会にあった。
日本軍は降伏したあと、国民党に建物や武器を渡した。その後、建物が共産党の時代に刑務所として使われたこともあった。いまはその建物は残っていない。
この奥にいま高速道路つくられているが、その向こう(病院から、北方向)に、“三・一”被難公塚がある”。
そのあと、曹靖さんに案内されて、炮楼跡に行きました。そこで曹靖さんはこう話しました。
”2本の通りがあって、それを見渡せる位置に炮楼があった。
さいしょ、日本兵は村人を維持会に集めて、子どもと大人を2列に並ばせた。
そのあと、大人は縄で数珠つなぎに縛って、機関銃で狙いをつけるなか、駐屯地に連れていった。
それを何回かしたので、変に思った人が逃げて、撃ち殺された。発砲のあと、もっとおおぜいの兵隊が来た”。
炮楼の近くに治安維持会があった。治安維持会の建物は解放後、役場として使われたが、役場が新しく作られてからは使われなくなった”。
維持会の建物があった場所は、塀に囲まれ、空き地になっていました。通りの向かい側の警察署のある場所は、日本軍が守備隊本部の建物を作るまえに、兵営とし「接収」していた建物があった場所だとのことでした。
佐藤正人
日本軍はここに村人を連れてきて殺した。あらかじめ掘っておいた穴に遺体を捨てた。遺体は、村民に埋めさせた。生きている人もいた。深く埋めないでくれというのを、軍人が監視しているから、そうできなかった。
長仙村では共産党組織が活動していた。坡村では、国民党組織が活動していた。長仙村を襲撃したあと、日本軍は、坡村も襲撃した。日本軍の通訳をしていた人が、陽江の部隊から機関銃やら武器を盗んで、坡村に逃げ込んだ。それで、日本軍が坡村を襲撃した。台湾人かもしれない。敗戦間際になっていたので、日本軍にいるとよくないと考えたのかもしれない
日本軍の駐屯地は、中原、陽江、橋園。
人数は陽江がいちばん多かった。あのときは、中原の部隊が指揮して襲撃したが、陽江、橋園の部隊も合流した。陽江、橋園の部隊は村から逃げた人を山の方に包囲して、子どもも老人も殺した。
村民に中原の部隊に来させて、良民証をチエックした。良民証は13歳以上は持たされる。次兄は中原に行って良民証を持たされていたが、殺されなかった。
子どもは1列、大人は2列に並ばせた。子どもを連れた母親は、大人の列に並び、子どももいっしょに殺された。
若い女性が7人、どこかに連れていかれた。陽江のほうに連れていかれて、慰安婦にされたのだろう。見たことはないが、みんなそう言っていた。7人のうち、ふたりはいまも元気だ。(日本が敗けたたあと、7人はみんな村に戻ってきた。村の人は、何も言わなかった。日本は慰安婦のことは否定できない。
日本軍は村を3か月間、包囲した。村の人は、山に逃げて、夜中、日本軍がいなくなると食べ物などを取りに、家に戻った。
わたしは親戚のところにも逃げることができなかった。母はこのころすでに、病気で亡くなっていた。父はシンガポールに行っていなかった。わたしは3番目。長兄は21歳。共産党に入っていたかどうか知らないが、若者が村にいるとあぶないので、村に戻らず、放浪していた。
日本軍の襲撃後、次兄とふたり、食べられず、村を出て、物乞いをしながら、生き延びた。 一時的に村に戻って、日本軍に見つかり殺された人もいた。
この碑ははじめ1947年に国民党が作った。その後、死者の名前が刻まれた4枚の碑の1枚が行方不明になった。文革のときまた壊されたが、1984年に修復した。2001年に土を盛った墓をセメントで固めた。2011年はじめ、屋根、門などを改装し、新しく道を作った。
わたしは、1967年から1987年まで昌江で仕事をしていたので、そのとき石碌鉱山に行ったことがある。日本軍の慰安所の建物が残っていた。
日本の敗戦後、陽江で慰安所の場所を見たことがある。いまは残っていない。
次兄は15歳のとき、国民党に捕まって殺された”。
11時ころ、曹靖さんに、日本海軍海南警備府佐世保第八特別陸戦隊の中原守備隊本部があった所に案内してもらいました。そこは、中原の中心部で、瓊海華僑医院の敷地内でした。
曹靖さんは、こう話しました。
“日本軍の本部の門は、いまの病院の門のあたりにあった。全体が鉄条網で囲まれていた。鉄条網の内側に溝を掘って水を流していた。溝の内側に塀があった。人の背丈より、頭くらい高かった。
地下壕があった。地下にトンネルもあった。
子どものとき日本軍がいなくなってからここに来て、見た。
ここには炮楼はなかった。炮楼は治安維持会にあった。
日本軍は降伏したあと、国民党に建物や武器を渡した。その後、建物が共産党の時代に刑務所として使われたこともあった。いまはその建物は残っていない。
この奥にいま高速道路つくられているが、その向こう(病院から、北方向)に、“三・一”被難公塚がある”。
そのあと、曹靖さんに案内されて、炮楼跡に行きました。そこで曹靖さんはこう話しました。
”2本の通りがあって、それを見渡せる位置に炮楼があった。
さいしょ、日本兵は村人を維持会に集めて、子どもと大人を2列に並ばせた。
そのあと、大人は縄で数珠つなぎに縛って、機関銃で狙いをつけるなか、駐屯地に連れていった。
それを何回かしたので、変に思った人が逃げて、撃ち殺された。発砲のあと、もっとおおぜいの兵隊が来た”。
炮楼の近くに治安維持会があった。治安維持会の建物は解放後、役場として使われたが、役場が新しく作られてからは使われなくなった”。
維持会の建物があった場所は、塀に囲まれ、空き地になっていました。通りの向かい側の警察署のある場所は、日本軍が守備隊本部の建物を作るまえに、兵営とし「接収」していた建物があった場所だとのことでした。
佐藤正人