三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島瓊海市中原鎮で 2

2011年12月21日 | 海南島史研究
 10月31日午前9時半に、“三・一”被難公塚に着きました。そこで、曹靖さんは、こう語りました。

 日本軍はここに村人を連れてきて殺した。あらかじめ掘っておいた穴に遺体を捨てた。遺体は、村民に埋めさせた。生きている人もいた。深く埋めないでくれというのを、軍人が監視しているから、そうできなかった。
 長仙村では共産党組織が活動していた。坡村では、国民党組織が活動していた。長仙村を襲撃したあと、日本軍は、坡村も襲撃した。日本軍の通訳をしていた人が、陽江の部隊から機関銃やら武器を盗んで、坡村に逃げ込んだ。それで、日本軍が坡村を襲撃した。台湾人かもしれない。敗戦間際になっていたので、日本軍にいるとよくないと考えたのかもしれない 
 日本軍の駐屯地は、中原、陽江、橋園。
 人数は陽江がいちばん多かった。あのときは、中原の部隊が指揮して襲撃したが、陽江、橋園の部隊も合流した。陽江、橋園の部隊は村から逃げた人を山の方に包囲して、子どもも老人も殺した。
 村民に中原の部隊に来させて、良民証をチエックした。良民証は13歳以上は持たされる。次兄は中原に行って良民証を持たされていたが、殺されなかった。
 子どもは1列、大人は2列に並ばせた。子どもを連れた母親は、大人の列に並び、子どももいっしょに殺された。
 若い女性が7人、どこかに連れていかれた。陽江のほうに連れていかれて、慰安婦にされたのだろう。見たことはないが、みんなそう言っていた。7人のうち、ふたりはいまも元気だ。(日本が敗けたたあと、7人はみんな村に戻ってきた。村の人は、何も言わなかった。日本は慰安婦のことは否定できない。
 日本軍は村を3か月間、包囲した。村の人は、山に逃げて、夜中、日本軍がいなくなると食べ物などを取りに、家に戻った。
 わたしは親戚のところにも逃げることができなかった。母はこのころすでに、病気で亡くなっていた。父はシンガポールに行っていなかった。わたしは3番目。長兄は21歳。共産党に入っていたかどうか知らないが、若者が村にいるとあぶないので、村に戻らず、放浪していた。
 日本軍の襲撃後、次兄とふたり、食べられず、村を出て、物乞いをしながら、生き延びた。 一時的に村に戻って、日本軍に見つかり殺された人もいた。
 この碑ははじめ1947年に国民党が作った。その後、死者の名前が刻まれた4枚の碑の1枚が行方不明になった。文革のときまた壊されたが、1984年に修復した。2001年に土を盛った墓をセメントで固めた。2011年はじめ、屋根、門などを改装し、新しく道を作った。
  わたしは、1967年から1987年まで昌江で仕事をしていたので、そのとき石碌鉱山に行ったことがある。日本軍の慰安所の建物が残っていた。
 日本の敗戦後、陽江で慰安所の場所を見たことがある。いまは残っていない。
 次兄は15歳のとき、国民党に捕まって殺された”。

 11時ころ、曹靖さんに、日本海軍海南警備府佐世保第八特別陸戦隊の中原守備隊本部があった所に案内してもらいました。そこは、中原の中心部で、瓊海華僑医院の敷地内でした。
 曹靖さんは、こう話しました。 
   “日本軍の本部の門は、いまの病院の門のあたりにあった。全体が鉄条網で囲まれていた。鉄条網の内側に溝を掘って水を流していた。溝の内側に塀があった。人の背丈より、頭くらい高かった。
    地下壕があった。地下にトンネルもあった。
    子どものとき日本軍がいなくなってからここに来て、見た。
    ここには炮楼はなかった。炮楼は治安維持会にあった。
    日本軍は降伏したあと、国民党に建物や武器を渡した。その後、建物が共産党の時代に刑務所として使われたこともあった。いまはその建物は残っていない。
    この奥にいま高速道路つくられているが、その向こう(病院から、北方向)に、“三・一”被難公塚がある”。

 そのあと、曹靖さんに案内されて、炮楼跡に行きました。そこで曹靖さんはこう話しました。
   ”2本の通りがあって、それを見渡せる位置に炮楼があった。
    さいしょ、日本兵は村人を維持会に集めて、子どもと大人を2列に並ばせた。
    そのあと、大人は縄で数珠つなぎに縛って、機関銃で狙いをつけるなか、駐屯地に連れていった。
    それを何回かしたので、変に思った人が逃げて、撃ち殺された。発砲のあと、もっとおおぜいの兵隊が来た”。
    炮楼の近くに治安維持会があった。治安維持会の建物は解放後、役場として使われたが、役場が新しく作られてからは使われなくなった”。
 
 維持会の建物があった場所は、塀に囲まれ、空き地になっていました。通りの向かい側の警察署のある場所は、日本軍が守備隊本部の建物を作るまえに、兵営とし「接収」していた建物があった場所だとのことでした。
   佐藤正人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海南島瓊海市中原鎮で 1

2011年12月20日 | 海南島史研究
 1945年農歴3月1日(普通暦4月12日)に、日本海軍海南警備府佐世保第八特別陸戦隊の中原守備隊、陽江守備隊、橋園守備隊の将兵が、楽会県互助郷(現、瓊海市中原鎮)の坡村、長仙村、三古村、南橋村、雅昌村、佳文村、鳳嶺村、吉嶺村、官園村を襲撃し、おおくの住民を殺傷し、家を焼きました。このとき、日本軍は、子どもや高齢者を除くおおくの村人を中原の燕嶺坡に集めて殺害しました。
 幸存者のひとりである曹靖さんは、その事実を伝えるために、生き残った村人の証言を聞き記録し、2000年4月に『日本法西斯“三光”政策罪行録 回顧長仙聯村“三・一”血泪史』をだしました。2005年8月にその修訂版をだしたあと、さらに細部を厳密に書いて2008年5月に新版をだしました。海南島近現代史研究会がことし2月11日に発行した『海南島近現代史研究』第2号・第3号に、その紹介と抄訳を掲載してあります。このブログに2009年11月20日から12月3日に、その抄訳の草稿を13回にわけて連載してあります。村人の証言については、このブログの2008年4月30日の「燕嶺坡、戴桃村、鳳嶺村、長仙村、橋園で」、2009年12月5日~7日の「中原鎮・博鰲鎮・陽光鎮で」1~3などをみてください。

 1947年農暦3月に、燕嶺坡の虐殺現場に「“ 三・一” 被難公塚」が建てられました。その墓碑には、「楽会県互助郷坡村長仙三古南橋雅昌佳文鳳嶺吉嶺官園等村抗戦死難民衆公墓」と刻まれています(写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』〈紀州鉱山の真実を明らかにする会制作、2007年2月〉14頁を見てください)。
 毎年農暦3月1日に、そこにおくの村人が集まって追悼集会をおこなっています(2008年の追悼集会については、このブログの2008年4月6日の「2008年農暦3月1日」をみてください。これは、海南島近現代史研究会『会報』第2号、49~50頁にも掲載してあります)。
 わたしたちが、はじめて曹靖さんから直接話を聞かせてもらったのは、2007年10月19日でした。曹靖さんは、『海南島近現代史研究』創刊号(2008年8月)に、「熱烈祝賀日本《海南島近現代史研究会》成立」を寄せてくれました。

 ことし10月31日朝、瓊海市内から、曹靖さんと、中原の燕嶺坡の“三・一”被難公塚に向かいました。
                                        佐藤正人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

保亭黎族苗族自治県の保亭と加茂で 2

2011年12月19日 | 海南島史研究
 11月1日夕刻、陳厚志さんに案内されて、加茂の黄世真さんの自宅を訪ねました。黄世真さん(90歳)は、つぎのように話しました。

   “日本兵は恐ろしい。1940年、日本が加茂に来たとき、20歳だった。
    日本兵はわるいことばかりした。
    日本軍のためにしごとをしたのに、殴られた。不愉快だ。四つん這いにさせて、軍靴でけっとばした。女性には、四つん這いにさせて、スカートをまくったりした。棒でスカートをまくりあげた。
    指だけで支えさせてよつんばいにさせ、腹の下に銃剣を置いた。3本の指で。力をぬくと、刃先が腹を切る。背中はまっすぐしなければいけない。姿勢を変えると殴られる。何回殴られたか覚えていないほどだ。
    父の弟の息子は、あの格好をさせられて、殴られて死んだ。しごとを一生懸命しないといって。名前は、黄亜川。30歳くらいだった。
    加茂から陵水までの道路工事だった。
    日本兵の靴は、底がとがっている。それで蹴られると痛い。何回も蹴られた。
    共産党だといって日本兵が17人を殺したことがあった。保亭ではもっと殺された。
    わたしは、道路工事、水運び、田んぼしごと、いろいろさせられた。
    稲の栽培をしていたが、収穫すると、かならず日本軍にぜんぶ渡さなければならなかった。
    渡さないで見つかると、軍につかまる。拷問されて殺される。それでぜんぶ、日本軍に渡した。
    山に行って、自然になっているもの、いもなどを掘って食べた。
    日本兵がときどき、家を捜索した。米を炊いたあとが残っていたり、米粒でも見つかると、殺された。
    日本軍が来たときの家の場所はここだ。草ぶきの家だった。
    朝から軍営の方に、道路工事とか野菜作りで行った。
    金はもらったことがない。塩だけ少しもらった。昼食も自分で持っていった弁当を食べた。山でとったさつまいもなど。
    女性も道路工事とか、水運びとか、させられた。
    10代くらいの若い女性が見つかれば、性的な悪いことをしていた。何回も見たが、いまは年を取ってはっきり覚えていない。
    日本兵は、若い女性の手を引っ張って、林の方に連れていった。女性は声を出せない。声を出すとほかの人の注目を集めて、ひどい目にあう。黎族の女性は下はスカートをはいただけなので、強姦するのはかんたんだった。
    道路工事をしているときに女性が引っ張られていった。陳金玉さんもいっしょに道路工事をしていたときに引っ張られていった。連れて行かれ、家に戻り、翌日また道路工事に出て連れて行かれる。何日もこういうことが続いた。陳金玉さんが強姦されたのは14歳のころ。わたしの方が年上だ。
    おおぜいが共産党にはいった。死んだ人も多かった。男5人が入ったのを知っている。    日本軍と戦って、2人か3人、死んだ。
    わたしは、日本が敗けていなくなったあと、共産党の道案内をして、国民党を襲撃したことがある。そのときに足に当った弾の傷あとがいまも残っている。
    日本軍がはいって来る前は田んぼもあり、農業をして、食べ物はなんでもあった。
    日本軍が来てからは、道路工事を無料でしなければならないし、田畑でとれたものは出さなければならない。農業をする時間もなかった。山で取ったものを食べるだけ。服も着替えはないし、生活はたいへんだった。
    日本軍は豚やにわとりを見つけたら、すぐ捕まえた。にわとりは逃げるのが早く、捕まえられなかったら、持ち主に怒った。
    日本が敗けてから、日本兵は長い行列をつくって村の前を通りすぎていった。200人~300人。おおぜいいた。そのときは、銃を持っていなかった。
    日本軍は、保亭から屯昌に移動した。通っていったあと、さいしょはおかしいと思った。銃を持っていなかったし、仕事をしなければならないのに、何も言ってこないし、何もしなかった。1か月間くらい。
    日本軍の降参のことを知ってうれしかった。(知ったのが)いつかはわからない。多くのひとが、日本軍が降参したと話していた。さいしょは知らなかった。
        日本兵がいなくなってから結婚して藤橋に1年くらい住んでいた。1957年に故郷に戻ってきた。
    父は甲長だった。日本軍の命令を、父を通して、村民に伝える。しごとは年齢に応じて。工事にでるのは交代。父は、90歳くらいで亡くなった。母は、年寄りだったので、工事には出なかった。朝鮮人は見たことがない。台湾兵は服装の色がちがう。台湾兵はベージュ色。日本兵は藍色。ベンガル人はこのへんにはいなかった。
    田独にはベンガル人、台湾人がいた。鉄の鉱山に、7回行った。手押し車で、鉱石を運んだ。1台押したら、5角をもらう。軍票でもらった。1日に、6台くらい運ぶ。軍の命令で、交代で行った。このへんの道路が完成したあと、日本軍がトラックで山の方に(われわれを)運んだ。1回行くと、15日間。(誰が行く)甲長が決めたかどうか、知らない。(田独に行くのに)人を捕まえるのは、中国人。トラックに乗せるのは偽政府の人。日本軍は見ているだけ。食べ物は自分で用意していった。売店でコメを買った人もいた。(わたしの村から行ったなかでは)死んだ人はいなかった。保亭から行った人は、病気でおおぜいが死んだ。
 田独には、万寧、瓊海の人もいた。大陸から来た人もいた。大陸から来た人は、1年くらいでおおぜい死んだ。わたしの寝たところは板敷の建物で、100人くらい、いっしょだった。
    道路工事のときは、監視も多く、働く人も多く、殴られることが多かった。
    田独では、働く人が多く、監視は少ない。お金をもらえるので、みな熱心に働いた。監督は軍人で、あまり働く人を見ていない。台湾人が労働者を監視していた。
    飛行機が飛んできた。日本軍のものではなかった。飛行機が飛んでくると、みんな逃げた”。
                                        佐藤正人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

保亭黎族苗族自治県の保亭と加茂で 1

2011年12月18日 | 海南島史研究
 11月1日朝、陵水黎族自治県の陵水から、保亭黎族苗族自治県の保亭に向かいました。
 保亭市内につき、なんどか訪ねたことのある張応勇さんの家に行きました。はじめてこの家を訪ね、張応勇さんと会ったのは、2002年3月でした。
 張応勇さんは、2005年3月16日に、東京地方裁判所で林亜金さんとともに証言しましたが、この年の11月に病死されました(張応勇さんについては、このブログの2007年2月24日の「日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究13」、2010年9月8日の「海南島における日本政府・日本軍・日本企業の侵略犯罪調査6」、および『南国都市报』2010年12月2日号の林莹記者の「保亭:正义使者张应勇 让“活历史”发出吼声」http://baoting.hinews.cn/system/2010/12/02/011591511.shtml などをみてください)。
 張応勇さんの家では、連れ合いの黄菊春さんが雑貨店を開いており、わたしたちを迎えてくれました。家のそばの大きな樹が、日陰を作っていました。2003年3月に、そこで韓国挺身隊研究所の人たちと、長時間、張応勇さんから朴来順さんのことなどを聞かせてもらったことがありました。
 近くで黎族の織物や民芸品などを売る店を開いている娘の張熹さんも来てくれました。9年ぶりの再会でした。
 そのあと、加茂に行き、陳厚志さんに会いました(陳厚志さんは、2008年12月25日の「海南島戦時性暴力被害訴訟」控訴審第7回口頭弁論で証言した原告の陳金玉さんの通訳をした人です。このブログの2008年12月25日の「「海南島戦時性暴力被害訴訟」控訴審、結審」、海口2008年12月24日発新華社電の記事「二審判決に立ち会うため日本へ、元慰安婦の陳金玉さん」 http://www.china-news.co.jp/node/8176 などをみてください)。
 陳厚志さんは、こう話しました。
   “張応勇先生とは、1986年からいっしょに仕事をしてきた。
    張応勇先生が保亭の政治協商会議の文史資料工作委員会にいたときからだ。
    張応勇先生は写真ができる人を探していて、何人かといっしょに仕事をしたが、最後にはわたしがいっしょにすることになった。
    歴史をしっかり認識することがが大事だ。
    そうすれば、じぶんが何をやるべきかがわかるし、やり続けることがができる。
    「慰安婦」のことはいろいろ報道されて、注目されている。
    やめようと思っても、わたし一人の考えでやめられなくなった。
    世界の力がわたしを前に進める。
    被害者のためにできること、しなければならないことは、生活を守ることだ。
    みんな年を取って、貧しい。さいごに老後の生活を幸せに送れるようにしたい”。

 おそい昼食のあと、陳厚志さんに加茂の日本軍の侵略の跡を案内してもらいました。
 加茂川にかかる橋の近くの河原で、陳厚志さんは、こう話しました。
   “橋の基礎は日本軍がつくった。1980年ころ、洪水で壊れた。
    橋の高さは、川面から6、7メートル。
    小学生のとき、学校の帰り、橋の上から川に飛び込んだりした。
    日本軍は、橋のこちら(加茂)に駐屯していた。国軍は橋の向こう側にいた。
    近くの木のあたりが、慰安所があった場所だったという。わたしは見ていない。
    小さいとき、いま給水塔があるところに、丸い形のものがあった。銃眼があった。
    炮楼ではなく、トーチカだったと思う。
    わたしの祖父は、日本軍のためにこの辺で馬の世話をしていた。
    多くは、祖父から聞いた話。慰安婦のことは、おばあさんから聞いた。
    祖父から日本軍の軍営の場所や慰安所の場所を教えてもらった。
    わたしは、黎族だ。いまも友だちと話すときは黎語で話す。
    祖父は、日本軍のために銃をかついだことがあると言っていた。
    日本軍は子どもには警戒心がなく、子どもに背負わせた。
    小さいから、銃の先が地面に着いたと言っていた。
    村の子どもたちは、何人も、日本軍の銃を背負ったそうだ。
    お金はもらわなかったが、あめとか食べ物をもらったことがあったとそうだ。
    銃を背負えというと、聞かないわけにはいかない。
    年寄り同士、集まって酒を飲んだりすると日本軍の話をしていて、わたしはそばで聞いた。
    祖母はさいしょ、「慰安婦」のことはなにも話さなかった。重病になった。裁判がはじまったあと、祖母に、あなたはいま病気だ、いま話しておかないと、話せなくなるかもしれない、そうなるとほんとうのことが永遠にわからないままになってしまう、話したほうがいいと、言ったことがあった。そのあと、わたしに、“お前にだけ話す。ぜったいにほかの人に話してはいけない”と言って、話してくれた。裁判がはじまっていた。自分が調べているのを知って。2004年ころのこと。
 黄月鳳さんのことはみんな知っていた。陳金玉さんのことはみんなに知られていなかったが、祖母が話してくれた”。
                                        佐藤正人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「海南島朝鮮族千人坑」

2011年12月17日 | 「朝鮮報国隊」
 http://www.konas.net/article/article.asp?idx=6261

■日軍만행 현장, 해남도 '朝鮮族千人坑'을 아시나요?
  일제 강제징용 한국인 1천여명 학살·매몰 현장
                    정미란  2005-04-07
 일본이 일제시대의 만행을 숨기며 역사교과서를 왜곡하고 있지만 그 만행의 증거는 곳곳에 널려있다. 지금까지 한국인들에게는 잘 알려지지 않은 중국 '海南島 한국인 학살' 사건도 그 중 하나다.
 이 사건은 일제때 일본군이 한국인들을 중국 하이난도(海南島)에 끌고가 강제노역을 시키고 패전 직후 1천여명을 칼로 난자해 살해하고 현지에 암매장한 천인공노할 사건이다. 이 사실은 중국 하이난성(海南省) 정협(政協, 전국인민정치협상회의) 발간자료에 의해 처음으로 밝혀졌고, 이 사실을 조선일보가 1998년 3월 2일 보도하여 국내에 알려졌다.
 일본의 독도 영유권 주장과 역사교과서 왜곡 등으로 반일 감정이 극에 달한 이때 예비역 영관장교단이 현장을 직접 방문하여 일제 만행의 역사적 현장을 확인하고 돌아왔다.
 대한민국 육.해.공군.해병대 예비역 영관장교연합회(회장 權五剛 (예)육군대령)는 지난 3월 27일 오후 4시 권 회장과 회원 25명이 한인 징용자 1천여명이 무참히 살해된 '조선족천인갱(朝鮮族千人坑)' 현장을 찾아 추모와 참배 행사를 한 것이다.
 권 회장 등에 따르면 1945년 8월 15일 일본 패망뒤 중국 남쪽 하이난도(海南島) 지역에 고립된 일본군 부대가 조선인 징용자 1,000여명을 이곳 해남도 삼아시(三亞市) 남정촌(南丁村, 일명 朝鮮村) 산기슭에 굴을 파게하고 칼로난자 한 후 이들을 나무에 매달아 쇠못을 박고 휘발유에 불을 질러 태워 죽이고, 휘발유가 모자라자 산채로 생매장하는 등 인간으로서는 차마 할 수 없는 만행을 저질렀다는 것이다.
 이같은 사실은 현지거주 원주민 대표인 촌장(村長) 왕기영(王其永, 50세)씨가 현장에서 직접 방문회원들에게 증언한 것이라고 권 회장이 밝혔으며, 왕씨는 전후세대로서 부모와 이웃사람들로부터 이같은 내용을 전해들은 것이라고 말했다. 왕씨는 또 이 지역 주민들이 다 알고 있는 사실로서 이 지역을 조선촌(朝鮮村)이라 부르기 시작했다고 말했다.
 실제로 기자가 확인한 중국 정부의 일제 침략기록 자료 '日軍海南省侵攻實錄'에도 같은 내용이 기록되어 있었다. 이 자료에 따르면 1945년 8월 15일 일본이 패망 뒤 海南島 縣 지역에 고립된 일본군 부대가 조선인 징용 1천여명을 동원, 三亞市 南丁村 부근의 산기슭에 굴을 파고 무기와 군수물자를 은익하면서 이 작업에 동원된 조선인들에게 은익장소 옆에 굴을 파게 한 뒤 총알을 아끼기 위해 이들을 칼로 무자비하게 살해하고 매장했다고 기록되어 있다. 이 자료에는 이곳이 현재 '南丁 千人坑'으로 불려지고 있다고 기술하고 있다. 중국 하이난성 싼야시(三亞市) 정협(政協)이 발행한 이 자료는 1995년도에 싼야시 간부와 70년 이상 현지에서 살아 온 노인 50명의 구술을 토대로 작성된 것이며, 살해 암매장된 1천여명은 모두 조선인 강제 징용자라는 상황조사표도 수록하고 있다.
 한편 현지를 방문하고 돌아 온 권오강 회장은 중국 정부 당국에서 신우공사(信宇公司-三亞市南丁朝鮮村)로 하여금 '千人坑' 발굴 사업을 올해부터 추진키로 하였다는 소식을 전했다.
 권 회장은 "현장은 해남도 싼야시(三亞市)로부터 버스로 약 1시간 거리의 인가도 간혹있는 농촌 산간 벽촌 산기슭으로 관광버스로는 우리가 처음 타고 왔다는 현지 주민의 말을 들을 때 방문객은 거의 없는 세인들의 관심에서 벗어난 곳인 듯 하다"고 말했다.
 그는 "현장 2Km 전방 길가에 "朝鮮族千人坑"이란 간판(信宇公司부착)이 있고 그로부터는 버스가 다닌 흔적은 볼수 없었다"고 덧 붙혔다.
 현장을 방문한 회원들은 위령추모비 옆에 위치한 임시건물 내에 준비된 방명록에 서명하고 관리인에게 성금을 낸뒤 벽에 걸린 태극기 앞에서 고개숙여 대한민국을 불러보며 현장에서 발굴한 유골들이 진열된 유리상자(5위의 유골)를 확인했다.
 한편 권 회장은 현장 방문 소감을 묻는 기자의 질문에 "내 민족, 내 가족이 일군에게 끌려가 잔인하게 학살된 채 이역땅 해남도에 뭍혀있다는 사실을 60년이 지난 지금까지도 우리 정부가 모르고 있다니 국민으로써 부끄럽기 짝이 없고 한편으론 울화가 치민다"고 말하면서 "과거사 정리는 이런 일 부터 시작해야 한다. 하루빨리 정부가 나서서 유해 발굴사업을 추진하라"고 주문했다.
 그는 또 "일반 국민들은 해남도가 아시아의 하와이 라는 관광지로만 알려져 있어 여행객들이 골프치고 관광하는데만 열중인데 이제부터라도 千人坑을 꼭 방문하여 민족의식을 일깨우는 계기로 삼았으면 한다"고 당부하기도 했다.

【写真】 한국인 강제징용자 1천여명이 무참히 학살되어 매몰돼 있는 일제 만행의 현장 千人坑 입구에 서 있는 권오강 영관장교연합회장...<영관장교연합회>
【写真】개척자처럼 풀밭 길을 만들며 버스를 타고 가던중 현장 500m 전방에 잡초가운데 "千人坑"이란 푯말 간판하나가 우리들의 마음을 슬프게하고 있었다. 우리들은 버스에서 내려서 간판을 바라보며 흐느끼기 시작했다...<영관장교연합회>
【写真】걸어서 현장을 찾으니 이름 모를 공동묘지 옆에 "朝鮮同胞死亡追慕碑(1999.9.1, 신우회원 일동)"가 세워져 있고 옆에는 한맺힌 사연이 담긴 비각(지은이 선우가족 이미현, 1999.9.1)이 보는 이로 하여금 힘없는 민족의 한을 원망하며 울음을 터틀이기도 하였다...<영관장교연합회>
【写真】우리들은 다같이 추모비 앞에서 헌화 참배하고 준비해간 본국의 소주를 받쳐 올리며 모두들 눈물로 영령들의 한을 달랬다...<영관장교연합회>
【写真】중앙 우측 셔츠차림에 머리긴 사람이 현지주민 대표 촌장 王其永씨, 중앙 좌측 흰색와이셔츠 입은 이가 신우공사 직원... 동행한 회원 중 일부는 눈물을 못이겨 기념촬영을 못하였다...<영관장교연합회>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

対「イスラエル」大使館抗議行動

2011年12月16日 | 個人史・地域史・世界史
 きょう(12月16日)、対「イスラエル」大使館抗議行動に参加しました。
 東京市ヶ谷駅の近くにある「イスラエル」大使館に対する抗議行動は、2001年9月に開始され、その後、毎月第3金曜日に、10年間かかさず続けられてきました。
 ことし8月の抗議行動のあと、毎月の抗議行動は、毎年2回(12月の第3金曜日と5月14日)とすることにしました。抗議行動開始時から中心になって運動を進めてきていたMさんがことし3月に体調を大きく崩し参加できなくなったことが、その原因のひとつです。
 抗議行動のとき、大きなパレスチナの旗が、「イスラエル」大使館前の路上に掲げられます。日本で、パレスチナの旗が掲げられる時と所は、多くありあせん。
 10年間、わたしは第3金曜日にできるだけ東京に行くようにし、抗議行動に参加してきましたが、参加者は最大時50人ほどになったことがありましたが、最近は10人に満たない日が多くなっていました。
 2008年12月~2009年1月の「イスラエル」陸海空軍のガザ空爆・侵入の時には、「イスラエル」大使館まえで抗議する運動が広がりましたが、それは持続しませんでした。
 きょう12月の第3金曜日の抗議行動は、中断後最初の抗議行動でした。
 参加者それぞれが、「イスラエル」大使館前で、自分の思いと「イスラエル」への抗議の意思を語り、全員が「シオニストはパレスチナからでて行け」、「パレスチナ人虐殺の責任をとれ」……と何度もさけびました。そのあと、「イスラエル」によって殺された人たちを追悼し花をささげました。
 http://www.mkimpo.com/palestina/
 
 つぎの対「イスラエル」抗議行動は、来年の5月14日です。
 参加してください。
 参加するかたは、2012年5月14日(月)午後6時半に JR市ヶ谷駅前にきてください。
 市ヶ谷駅前で、通行人に参加を呼びかけ、午後7時に「イスラエル」大使館前に出発します。

 1948年5月14日に「イスラエル」は「建国宣言」をおこない、「イスラエル」は、この日を祝日にしています。「イスラエル」は、祝日をユダヤ暦で決めています。普通暦2012年5月14日は、ユダヤ暦では4月15日ですが、シオニストのパレスチナ侵略イデオロギーの根拠のひとつであるユダヤ暦を承認しないので、毎年はじめの対「イスラエル」抗議行動の日を5月14日としました。
 海南島に日本軍が奇襲上陸した日から70年後の2009年2月10日に発行した『会報』第2号の発行辞で、海南島近現代史研究会はつぎのように述べています。
                                       佐藤正人

 2008年12月27日午前11時半、パレスチナのガザ市上空に侵入したイスラエル軍F16戦闘機60機は、人口密集地域にたいする無差別爆撃を開始しました。その後、イスラエル軍は、戦闘機、地対地ミサイル、無人機、軍用ヘリコプターなどで毎日爆撃を続け、建物を破壊し、パレスチナ民衆を殺傷しました。2009年1月3日午後7時半、イスラエル陸軍がガザ地域への侵入攻撃を開始しました。それから1月18日午前2時まで、イスラエル空陸海軍は、ミサイル、白リン弾、爆弾、戦車、ブルドーザー……を使って1400人を越す人びとを殺害しました。
 人びとが平和に暮らしていた海南島に日本軍が侵入したときから1945年8月なかばまでの6年半、日本政府、日本軍、日本企業は、海南島の人びとに大きな災厄をもたらし続けました。
 人びとが平和に暮らしていたパレスチナにシオニストの軍隊が侵入したのは、1948年でした。シオニストは、この年5月14日に、占領したパレスチナの大地をイスラエルと名づけました。このときから、シオニストはパレスチナ民衆に大きな災厄(ナクバ)をもたらし続けています。
 イスラエルに住むパレスチナ人以外のほとんどの「イスラエル国民」は、ガザ地域でのイスラエル軍の犯罪を支持しています。
 ほとんどの日本国民は、台湾領土化、朝鮮領土化、中国東北部・モンゴル東南部領土化……のときと同じく、海南島侵略のときにも、占領地の拡大を喜び、軍事行動を支持し、日本政府、日本軍、日本企業の侵略犯罪に加担しました。
 日本が占領していた時期(海南島民衆が日本の侵略に抗していた時期)の日本近現代史、敗戦後の日本近現代史は、同時代の海南島近現代史と重なりあっています。
 海南島近現代史は、パレスチナ近現代史と重なりあっています。
 70年まえに日本国民は、なぜ海南島侵略を阻止できなかったのかという問題は、いま、なぜシオニストのパレスチナ侵略を世界の民衆が許し続けているのかという問題とつながっているのだと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高福男さん

2011年12月15日 | 「朝鮮報国隊」
 きょう(12月15日)、仁川に住む高福男さんを訪ねました。高福男さんは、「朝鮮報国隊」に入れられ海南島に送られながらも、生還できた人です。
 高福男さんは、「朝鮮報国隊」に入れられ海南島に送られながらも、生還できた人です(このブログの2007年9月12日の「ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』8」、2009年10月24日の「パランオッ・藍色衣服・青い服 11」などをみてください)。
 わたしたちが、高福男さんに始めて会ったのは、2003年10月26日でした。その後、なんども話を聞かせてもらいましたが、きょうも新たな証言を聞かせてもらうことができました。
 以前、高福男さんは、「海南島から帰るとき海口で船に乗った。われわれだけで、220~230人。“挺身隊” の女性たちもいっしょに乗った」と話していましたが、2日前の13日朝に亡くなったキムヨジさんは、その1人であったようです。

 12月12日に、ソウルで、仁川市南区文鶴洞の龍珠寺の住持李相演さんと韓国予備役領官将校聯合会会長の権五剛さんに会いました。李相演さんらは、2005年3月27日に海南島の「朝鮮村」にはじめて行き、翌年から毎年3月27日に、「朝鮮村」に埋められている「朝鮮報国隊」の犠牲者を追悼する「日帝強制徴用韓国人同胞1千人位英霊追慕祭」を龍珠寺で開いているとのことでした。
                              佐藤正人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1000回目の水曜示威

2011年12月14日 | 個人史・地域史・世界史
 きょう(12月14日)、在韓国日本大使館前での水曜示威(第1000次日本軍‘慰安婦’問題解決のための水曜示威)に参加しました。
 あまり広くはない大使館前の道路と歩道は、参加者でいっぱいになりました。集会が終わるころは3000人をこしていたと思います。
 集会が始まってまもなく、「平和碑」が除幕されました。
 碑は、朝鮮服を着て手をひざのうえにそろえて座っている少女の像で、少女の左肩には小鳥がとまっていました。少女の影が碑の白色の台座に黒く映されており、その影は老人の姿となっていました。少女の像のそばには、少女が座っているのと同じ大きさの小さな椅子が置かれていました。
 この碑は、韓国挺身隊問題対策協議会が募金を集めて建立したものですが、日本政府は、韓国政府に対して、建立に「憂慮」を示していました。
 きょう、示威が始まったころ、大使館には「ヒノマル」は上げられていませんでしたが、なぜか、「平和碑」が除幕されてからまもなく上げられました。わたしの隣にいた女性の高校生もそれに気づいて指差して小さく「アー」と声をあげました。
 1992年1月8日に最初の水曜示威がおこなわれたときんは、まだ生まれていなかっただろう若い参加者が多かったのが印象的でした。
 夕刻7時ころ、再び碑の前に行ってみました。
 少女の足元にウールのスカーフがかけられていました。そのそばの空いた椅子の上には小さな花束が置かれていました。
 今朝、前日(12月13日)午前8時、「慰安婦」として中国湖北省や海南島につれていかれ、日本敗戦後、海南島から帰国したキムヨジさんが87歳で亡くなったことを知りました。
                                        佐藤正人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の侵略犯罪の記録 2

2011年12月13日 | 海南島史研究
 きのう(12月12日)、2月9日に続いて、ソウル記録情報センターで、軍人・軍属として旧日本海軍に入れられていた人たち6千人ほどのの書類を見ました。
 その書類 のなかに、海南島で亡くなった10人ほどの人の記録がありました。
 その中には、1942年7月14日に「南方政務部」に「嘱託(無給無得)」として「採用」され、同じ日に海南島で「熱帯熱マラリヤ性肺炎」で「戦病死」し「現地処理(西松組)」されたと書かれていDさんの書類、1943年12月10日に「南方政務部」に「嘱託(無給無得)」として「採用」され、同じ日に海南島で「熱帯熱マラリヤ」で「戦病死」し「現地処理(西松組)」されたと書かれているEさんの書類、1944年5月10日に「南方政務部」に「嘱託(無給無得)」として「採用」され、同じ日に海南島で「両側性肺炎」で「死亡(非公務死亡)」し「現地処理(西松組)」されたと書かれているFさんの書類、1944年5月26日に「南方政務部」に「嘱託(無給無得)」として「採用」され、同じ日に海南島で「肺結核」で「普通死」し「現地処理(西松組)」されたと書かれているGさんの書類、1945年3月21日に「南方政務部」に「嘱託(無給無得)」として「採用」され、同じ日に海南島石碌で「戦死(陸上戦闘)」し「現地処理(西松組)」されたと書かれているHさんの書類、1945年4月12日に「南方政務部」に「嘱託(無給無得)」として「採用」され、同じ日に海南島「喃淋」で「マラリヤ」で「戦病死」し現地処理(西松組)」されたと書かれているIさんの書類がありました。
 このうち、Fさん以外の5人の書類にはすべて、「靖国神社 合祀手続済」という判(1959年7月31日付け)が押されていました。
                                       佐藤正人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

きょう控訴しました

2011年12月12日 | 紀州鉱山
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、きょう(12月12日)午前10時すぎに、名古屋高等裁判所に控訴しました(津地方裁判所に控訴状をだしました)。

■三重県を被控訴人とする控訴状                    
 控訴人  金靜美 (キム チョンミ) 
 同    竹本昇 他3名
 
被控訴人  三重県 
       同代表者兼処分行政庁三重県知事 鈴木英敬
処分行政庁三重県紀州県税事務所長 倉田文男
 
   訴訟物の価格  27,800 円
   貼用印紙代    1,500 円

 上記当事者間の津地方裁判所2011年(行ウ)第4号 不動産取得税賦課処分等取消請求事件について、同裁判所が2011年12月1日に言い渡した判決は全部不服であるので、控訴人らは控訴を提起する。


第1 原判決の表示
 1 原告らの訴えのうち,別紙物件目録記載の土地に対する2010年度(原文元号)の不動産取得税について,免税が相当であることの確認を求める訴えをいずれも却下する。
 2 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。 
 3 訴訟費用は、原告らの負担とする。
第2 控訴の趣旨
 1 原判決を取り消す。
 2 請求の趣旨
   (1) 被控訴人三重県紀州県税事務所長が、2010年6月1日付けで控訴人らに対してした、別紙物件目録記載の土地に係る不動産取得税賦課決定を取り消す。
   (2) 被控訴人三重県知事野呂昭彦が、2010年10月13日付で控訴人らに対してした、上記(1)の処分についての審査請求を棄却する旨の裁決を取り消す。
   (3) 別紙物件目録記載の土地に係る不動産取得税について,免税が相当であることを確認する。
   (4) 被控訴人は、控訴人竹本 昇 に対し、13,800円を支払え。
   (5) 被控訴人は、控訴人金 靜美 (キム チョンミ) に対し、14,000円を支払え。
   (6) 上記(4)及び(5)について、仮執行宣言を求める。
 3、 訴訟費用は第1審、第2審とも被控訴人の負担とする。 
   との判決を求める。
第3 控訴の理由
   追って準備書面において主張する。


■熊野市を被控訴人とする控訴状 
 控訴人  金靜美 (キム チョンミ) 
 同    竹本昇 他3名
 
 被控訴人 熊野市 
   同代表者兼処分行政庁 熊野市長河上敢二

   訴訟物の価格  16,200 円
   貼用印紙代    1,500 円

 上記当事者間の津地方裁判所2011年(行ウ)第3号 固定資産税賦課処分及び減免不承認処分等取消請求事件 について、同裁判所が2011年12月1日に言い渡した判決は全部不服であるので、控訴人らは控訴を提起する。

第1 原判決の表示
 1 原告らの本件訴えのうち,別紙物件目録記載の土地に対する2010年度(原文元号)の固定資産税は,免税が相当であることの確認を求める訴えをいずれも却下する。
 2 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。 
 3 訴訟費用は、原告らの負担とする。
第2 控訴の趣旨
 1 原判決を取り消す。
 2 請求の趣旨
   (1) 被控訴人が,2010年5月6日付けで控訴人らに対してした、別紙物件目録記載の土地に係る2010年度固定資産税賦課処分を取り消す。
   (2) 被控訴人が,2010年5月6日付けで控訴人らに対してした、別紙物件目録記載
の土地に係る2010年度固定資産税の減免不承認決定をいずれも取消す。
   (3) 被控訴人が,2010年9月22日付けで、控訴人らに対してした,上記(1)の処
分及び上記(2)の処分についての異議申立てを棄却する旨の決定を取り消す。
   (4) 別紙物件目録記載の土地に対する2010年度固定資産税は、免税が相当であることを確認する。
 3 訴訟費用は第1審、第2審とも被控訴人の負担とする。 
   との判決を求める。
第3 控訴の理由
   追って準備書面において主張する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする