三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会が、はじめて、熊野市に隣接している紀和町の旧紀州鉱山跡を「現地調査」したのは、李基允さんと相度さんの追悼碑を除幕した1994年11月20日の1年後、1995年11月18日に追悼碑の前で追悼集会を開いた翌日でした。
翌年(1996年)夏、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、石原産業紀州鉱山が三重県内務部に1946年9月に提出した報告書の複写を入手しました。
以下は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会『会報』48号・紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』3号合併号(2008年2月25日発行)に掲載された「紀州鉱山に強制連行された人たちの故郷へ」の全文です。
佐藤正人
■1996年10月
石原産業紀州鉱山が三重県内務部に1946年9月に提出した報告書を入手したのは、1996年の夏だった。そこには、紀州鉱山に強制連行された朝鮮人のうち、738人の名と本籍地と「入所経路」が書かれていた。
その年10月、わたしは、そこに書かれている本籍地を手がかりにして、韓国江原道麟蹄郡の5万分の1の地図(6枚)を持って、麟蹄邑、瑞和面、北面、麒麟面を訪ねた。
江原道に向かう前、朴慶植先生にソウルで会い、聞きとりの方法や内容について相談した。それをもとにして、麟蹄で聞きとりをすすめる過程で、聞きとり項目を、次のように整理した。
1 「徴用」の通知はどこからきたか。
「徴用」の通知から、出発までどのくらい時間があったか。その間なにをした
か。
2 麟蹄から紀州鉱山までの道程は?
具体的にだれがどのように「連行」したか。
途中の「処遇」は?
3 紀州鉱山でなにをやらされたか。労働条件は? 賃金は? その使い道は?
故郷に送金できたか。
「労務係」の態度はどうであったか。暴力をふるわれたことはなかったか。
4 宿舎の名称、規模、状態は?
食事の質・内容は?
5 宿舎や労働現場での拘禁度は?
管理体制の実態は?
外出できたか。休日にはなにをしたか。
6 他の人びととの交流は。
麟蹄以外の地域から強制連行させられた人と自由に接触できたか(朝鮮人が
何人くらい紀州鉱山にいるかわかったか……)。
イギリス人「捕虜」に会ったことがあるか。地域の日本人との接触は?
日本人労働者との関係は?
7 事故は経験しなかったか。死者、負傷者は?
「逃亡」した人がいるという話を聞いたことがあるか。
「逃亡」を考えたことはなかったか。
8 解放は、いつ知ったか。どのように知ったか。そのときの感想は。
9 「8・14」のあと帰国までなにをしたか。
「8・14」後の日本人の態度は?
10 いつ帰国したか。
帰国のさい、賃金、帰国費用……を受けとったか。帰国の経路は?
11 故郷に帰って、まず、なにをしたか。
■江原道.と慶尚北道で
紀州鉱山に強制連行された人の故郷をはじめて訪ねた1996年10月に、麟蹄郡麒麟面事務所では、面長の朴善振氏も総務課の安浩烈氏も多くの職員の方がたも、文字どおり親身になって、紀州鉱山に強制連行された人の消息を尋ねてくれた。このとき、麟蹄郡で、20人ちかいかたの消息がわかり、金興龍氏、金石煥氏、丁泰順氏(紀州鉱山では「錦羅泰順」という名)、孫玉鉉氏に会うことができた。
その2か月後の1996年12月に、わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会の仲間と共に江原道旌善郡に行き、翌1997年5月に、麟蹄を再訪し、8月に、江原道平昌平昌郡に行った。
平昌郡でも、珍富面、蓬坪面、美灘面、道岩面などの面事務所で、真剣に調査をしてくれる職員、副面長、面長に出会った。江原道会議員であった朴東洛氏は、心を尽くして各面の老人会にわたしたちを案内し、稀有な出会いを可能にしてくれた。
その後、わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会の仲間と共に、1998年6月に海南島で石原産業が資源を奪っていた田独鉱山を「現地調査」し、8月に、慶尚北道の安東と軍威で紀州鉱山に強制連行された人たちをたずねた。
それから、10年。
ことし、2月下旬、わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会の仲間と、江原道や慶尚北道に行く。紀州鉱山に強制連行された人たちに再会するために。
翌年(1996年)夏、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、石原産業紀州鉱山が三重県内務部に1946年9月に提出した報告書の複写を入手しました。
以下は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会『会報』48号・紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』3号合併号(2008年2月25日発行)に掲載された「紀州鉱山に強制連行された人たちの故郷へ」の全文です。
佐藤正人
■1996年10月
石原産業紀州鉱山が三重県内務部に1946年9月に提出した報告書を入手したのは、1996年の夏だった。そこには、紀州鉱山に強制連行された朝鮮人のうち、738人の名と本籍地と「入所経路」が書かれていた。
その年10月、わたしは、そこに書かれている本籍地を手がかりにして、韓国江原道麟蹄郡の5万分の1の地図(6枚)を持って、麟蹄邑、瑞和面、北面、麒麟面を訪ねた。
江原道に向かう前、朴慶植先生にソウルで会い、聞きとりの方法や内容について相談した。それをもとにして、麟蹄で聞きとりをすすめる過程で、聞きとり項目を、次のように整理した。
1 「徴用」の通知はどこからきたか。
「徴用」の通知から、出発までどのくらい時間があったか。その間なにをした
か。
2 麟蹄から紀州鉱山までの道程は?
具体的にだれがどのように「連行」したか。
途中の「処遇」は?
3 紀州鉱山でなにをやらされたか。労働条件は? 賃金は? その使い道は?
故郷に送金できたか。
「労務係」の態度はどうであったか。暴力をふるわれたことはなかったか。
4 宿舎の名称、規模、状態は?
食事の質・内容は?
5 宿舎や労働現場での拘禁度は?
管理体制の実態は?
外出できたか。休日にはなにをしたか。
6 他の人びととの交流は。
麟蹄以外の地域から強制連行させられた人と自由に接触できたか(朝鮮人が
何人くらい紀州鉱山にいるかわかったか……)。
イギリス人「捕虜」に会ったことがあるか。地域の日本人との接触は?
日本人労働者との関係は?
7 事故は経験しなかったか。死者、負傷者は?
「逃亡」した人がいるという話を聞いたことがあるか。
「逃亡」を考えたことはなかったか。
8 解放は、いつ知ったか。どのように知ったか。そのときの感想は。
9 「8・14」のあと帰国までなにをしたか。
「8・14」後の日本人の態度は?
10 いつ帰国したか。
帰国のさい、賃金、帰国費用……を受けとったか。帰国の経路は?
11 故郷に帰って、まず、なにをしたか。
■江原道.と慶尚北道で
紀州鉱山に強制連行された人の故郷をはじめて訪ねた1996年10月に、麟蹄郡麒麟面事務所では、面長の朴善振氏も総務課の安浩烈氏も多くの職員の方がたも、文字どおり親身になって、紀州鉱山に強制連行された人の消息を尋ねてくれた。このとき、麟蹄郡で、20人ちかいかたの消息がわかり、金興龍氏、金石煥氏、丁泰順氏(紀州鉱山では「錦羅泰順」という名)、孫玉鉉氏に会うことができた。
その2か月後の1996年12月に、わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会の仲間と共に江原道旌善郡に行き、翌1997年5月に、麟蹄を再訪し、8月に、江原道平昌平昌郡に行った。
平昌郡でも、珍富面、蓬坪面、美灘面、道岩面などの面事務所で、真剣に調査をしてくれる職員、副面長、面長に出会った。江原道会議員であった朴東洛氏は、心を尽くして各面の老人会にわたしたちを案内し、稀有な出会いを可能にしてくれた。
その後、わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会の仲間と共に、1998年6月に海南島で石原産業が資源を奪っていた田独鉱山を「現地調査」し、8月に、慶尚北道の安東と軍威で紀州鉱山に強制連行された人たちをたずねた。
それから、10年。
ことし、2月下旬、わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会の仲間と、江原道や慶尚北道に行く。紀州鉱山に強制連行された人たちに再会するために。