三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島近現代史のなかの侵略と抵抗の世界史 1

2010年12月30日 | 海南島史研究
■国民国家日本の近現代史
 一八五五年二月、「日魯和親通好条約」によって、日本政府とロシア政府は、北方諸民族が生活し労働してきた「千島列島」を分割してそれぞれの国家の領土とするとともに、「樺太島」を共有地とした。
 一八六九年九月、日本新政府(「維新政府」)は、それまで和人が「蝦夷島」と呼んでいた北方の島(アイヌモシリの一部)を日本の領土とし、「北海道」と名付け、植民地とした。
 一八七二年一〇月、日本政府は、九州南方の琉球王国を「琉球藩」として日本の領土に組み入れた。
 その二か月後の一八七二年一二月、日本政府は、架空の「神武天皇」の即位年をBC六六〇年に設定し、それを「紀元」一年とする「皇紀」の使用を開始し、天皇制の歴史と国家の歴史を一致させようとした。
 一八七四年五月に、日本政府は、日本陸海軍三千数百人を、台湾に侵入させた(「台湾蕃地処分」)。
 その翌年一八七五年九月に、日本政府は、軍艦を、江華島海域に侵入させた。一九七四年の「台湾蕃地処分」と一九七五年の「江華島事件」は、連続していた。
 一八七五年五月、日本政府とロシア政府は、「樺太千島交換条約」に調印した。これは、日本が「クナシリ島」からカムチャツカ半島南端沖の「シュムシュ島」までの「千島列島」全域を植民地とし、ロシアが「樺太島」全域を植民地とすることを、相互に承認しあう侵略国間の条約であった。
 一八七九年四月、日本政府は、「琉球藩」を沖縄県とした(「琉球処分」)。
 「日清戦争」に勝利した日本は、清国との「媾和条約」(一八九五年五月批准書交換)で、台湾・澎湖列島を日本領とした。このころ、日本は、宮古・八重山地域を、曖昧な形で日本領とし、沖縄県に組み入れ、この地域にすむ人びとを日本国の「臣民」とした。それまでこの地域は、天皇(制)と無縁の地域であった。この地域西端の与那国島が現在、日本の最西端とされている。一五二二年に、侵入してきた琉球王国軍にウニトラ(鬼虎)らが敗北するまで、与那国島は、ひとつの国であった。
 一八九五年八月、日本政府は、台湾・フィリピン間中央の緯度線を「日本国及西班牙国版図の境界線」とする条約をスペイン政府と締結した。
 一八九八年七月に、日本は、「硫黄列島」東方の無人島を「南鳥島」と名付け、東京府告示で領土にした。それ以来、現在まで、この島が日本領土の最東端となっている。
 一九〇〇年に、日本・イギリス・アメリカ合州国・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア八か国の軍隊が連合して清国に侵入した(義和団戦争)。それ以後、一九四五年秋まで日本軍が中国から撤退することはなかった。
 「日露戦争」のさなか、ロシアの大規模艦隊が日本に向かっていた一九〇五年一月末に、日本政府は、独島を自国の領土とすることを閣議で決定し、二月はじめに、島根県に「編入」した。大韓帝国政府が日本の独島占領を知ったのは、一九〇六年三月末であった。
 「日露戦争」の「講和条約」(一九〇五年九月調印)で、ロシア政府は、日本がロシアに代って遼東半島南部(「関東州」)と「満鉄附属地」を植民地(「租借地」)とすることを承認した。また、この「講和条約」で、日本は「樺太島」の南半分を植民地とした。この侵略国間の条約によって「国境線」とされた北緯五〇度線によって、先住民族の生活圏・労働圏が分断された。
 「日露講和条約」を批准した翌月一九〇五年一一月に、日本は大韓帝国を「保護国」とし、一九一〇年八月に「併合」した。
 国民国家日本は、のアイヌモシリ植民地化、琉球王国植民地化を契機にして形成された。アイヌモシリ、ウルマネシア、台湾、朝鮮侵略の過程で、日本の政治権力者たちは、天皇制を強化し、民衆支配と侵略の政治的・経済的・社会的・文化的構造をつくっていった。
 第一次世界戦争開始後まもなく、一九一四年八月二三日に、日本はドイツに宣戦布告した。同年一〇月に、日本海軍は、ドイツが植民地としていたミクロネシア地域(「マーシャル諸島」、「パラオ諸島」、「マリアナ諸島」、「カロリン諸島」)を占領し、「南洋群島」と名付け、一二月に軍政をしいた(日本軍守備分隊長が軍政庁長を兼任)。同じころ、日本陸軍はドイツが植民地としていた中国山東省の青島を攻撃し、一一月に占領し、青島守備隊司令部が軍政をしいた。
 一九二二年四月に、日本政府は「南洋群島」の行政機関として「南洋庁」を設置した。「南洋庁」は、アイヌモシリ植民地機関である「北海道庁」と同じく内務省が管轄した。「南洋群島」の先住民族カナカ人やチャモロ人を、日本政府は公文書で「島民」と表現し、おおくの日本人は「(南洋の)土人」と呼んだ。
 一九一四年の「南洋群島」植民地化から一九三一年までの一七年間、日本は領土・植民地を拡大しなかった(できなかった)が、一九三一年七月六日に、北回帰線の南に位置する「沖ノ鳥島」を、内務省告示で小笠原支庁の管轄区域に加えて、日本の領土とした。その約七〇日後の九月一八日、日本は、中国東北部・モンゴル東部の軍事侵略(「満洲事変」)を開始した。
 一九三二年三月一日、日本は、中国東北部とモンゴル東部を植民地として、「満洲国」と名付けた。
 一九三九年九月一日、日本政府は、張家口に傀儡政府「蒙古連合自治政府」をつくって、モンゴル南部・河北地域を植民地とした。「満洲国」においても「蒙古連合自治政府」の支配地域においても、実権は日本政府・日本軍が把握し、日本族が支配民族として他民族を抑圧した。
 一九三三年一月一日に、日本軍は、長城を越えて中国河北省への軍事侵略を開始し、一九三五年一二月二五日に、「冀東防共自治政府」をつくった。一九三七年七月七日の「盧溝橋事件」後、日本政府・日本軍は、一九三七年一二月一四日に華北に傀儡「臨時政府」を、一九三八年三月二八日に華中に傀儡「維新政府」をつくり、一九四〇年三月三〇日に中国の占領地域の傀儡政府を統合して傀儡「中華民国中央政府」をつくった。
 一九三八年一二月二三日、日本政府は、海南島のはるか南方の、ベトナム東南方・ボルネオ島北方・フィリピンのパラワン島西方にある「新南群島」を日本領土に編入すると、閣議で決定し、天皇ヒロヒトは、一二月二八日にそれを承認した。
                                   佐藤正人
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