三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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能美実らに対する横浜裁判 5

2010年08月28日 | 海南島
 多田実は、「能美実ら4人に対する横浜裁判文書A」によると、1948年6月8日の事情聴取の際に、続いて、つぎのように陳述していました(イングランド語の原文は、問答形式ですが、翻訳にあたっては、叙述の重複を避け、陳述形式にしました。また、ローマ字による固有名詞は、『海南警備府戦時日誌』、『海南警備府戦闘詳報』、『海南海軍警備府引渡目録』などを参照にして漢字に変えました)。

   「捕虜は、紅土坎あるいは楡林の近くの紅沙で殺されたと思う。三亜から約15キロの
   ところである。
    当時、紅土坎あるいは紅沙には能美実を司令官とする第16警備隊の派遣隊が駐屯し
   ていた。この派遣隊の島田隊長は、捕虜殺害について詳しく知っていると思う。
    わたしは、捕虜殺害の状況をくわしく知らないが、捕虜は首を切られて殺されたと考
   えている。なぜなら、当時多くの者が刀を持っており、斬首は囚人を処理する普通の方
   法( the logical way of disposing  way of the prisoner )だったからだ。
    わたしは、捕虜処刑の報告書を受けとったことはないし、また、捕虜処刑にかんする
   報告書作成を命じられたこともない。
    殺された捕虜は重病で自分で防空壕に行くことができなかった、と聞いていた。空襲の
   たびに、かれは担架に乗せられるか背負われるかしなければ防空壕に入ることができな
   かった。隔日におこなわれる空襲のたびにその捕虜を防空壕につれていくのは、つれて
   いく者にとって危険なことだと第16警備隊の担当者は考えたようだ。それで、誰かが、
   その捕虜を処理するほうがいいと判断し殺したのだろう。
    当時、このようなことが話されていたが、わたしもこの話は事実に近いと思っている。
    わたしは、誰が捕虜の処刑を命令したのかは知らない。
    捕虜が処刑されたのは1945年5月だった。日にちははっきりしない。
    捕虜の処刑は、能美実が司令官だった警備隊の管轄区域内で行われたが、わたしは、
   能美実が、処刑を命令したとは考えていない。能美実司令官に知らせないで、その部下
   が自分の判断で処刑を命令したのだと思う。
    伍賀啓次郎海南警備府司令長官は、終戦時に降伏について参謀会議を招集したが、そ
   のとき捕虜処刑については議論されなかった。
    伍賀啓次郎司令長官が召集する捕虜の死についての会議に、わたしは出席したことは
   ないが、海口の将校用食堂で、伍賀司令長官か千田副司令官が、「アメリカ人捕虜の処
   刑は極めて悪い事件だ。捕虜処刑について占領軍による尋問がおこなわれる場合には、
   なにも語らないほうがいい」と話していたのを覚えている。
    それは命令ではなかったが、当時は、上官の話は、命令と同じだった。そのとき、そ
   こにいたのは、伍賀司令長官、千田副司令官、村野正太郎参謀、わたしの4人だった」。
                                     
                                       佐藤正人
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