三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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日本の雑誌は海南島侵略をいかに報道したか 4

2010年08月21日 | 海南島近現代史研究会
■『モダン日本』(1939年1月号) 金子義男「海南島討つべし」
 日本軍が海南島奇襲上陸する40日前の1939年1月1日に発行されたこの雑誌で、金子義男は、海南島侵略を速く実行するように求め、つぎのように述べている。『モダン日本』は1932年に文芸春秋から独立した雑誌である。

 ○ 「広東といひ、海南島といひ援蒋挙点であり、援蒋ルートの重要ポイント」
 ○ 「長期戦になればなる程、援蒋ルートの絶滅を策する点からいえば、その論挙は一層有力化してくる」
 ○ 「将来の経済的発展の挙拠」
 ○ 「海南島が、香港とシンガポールの中間に位置する」
 ○ 「フランスが……、英国と共にわれに海南島非占領の申入れをしたこと……この点からのみ見ても海南島の
  持つ重要性は解る」
 ○ 「攻略することはわれに与えられた天の使命」
 ○ 「われらただ“断”の日を待っている」。 

■『モダン日本』(1939年10月号) 渡邊はま子「海南島慰問行」
 流行歌手ら15人が、台湾から海南島ウェン文チャン昌に日本軍の慰問に行ったときの渡邊はま子の報告文。
     「残敵がかくれてゐても分からないほどなので時々機関銃を撃ち乍ら進んで行く……」、
     「運の良い方は何度も慰問を受けた」、
     「十二日間でしたが洗濯をしたり歌ったり兵隊さん達とキャンプ生活でもしてゐる様な楽しさでした」
と書かれており、芸能関係者たちが、海南島を侵略して虐殺、放火、資源略奪、性暴力を繰り返した日本軍を「慰問」していたことが示されている。
                                             竹本昇
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日本の雑誌は海南島侵略をいかに報道したか 3

2010年08月20日 | 海南島近現代史研究会
■『婦人之友』(1940年8月号)  婦人之友社
 「海南島遠征中病死された 中村剛大尉の御両親を訪ねる」と見出しをつけて、海南島で戦病死した軍医の父親から軍医の妹への手紙とその返信、もうひとりの妹のコメント、軍医の母親のコメントを掲載している。そして最後に戦病死した軍医の遺書を読んだ著者の意見を書いている。
 ここに一貫していることは、次の3点である。
    1.他民族の人の死は一顧だにせず、自国民の死に対してだけ意識する民族排外主義
    2.「お国のために」亡くなることは悲しいことではなく名誉なことだと言いくるめることによって、遺族が、肉
     親の死別の悲しみを通して侵略の実態や矛盾を知ったり考えたりしないようにすること
    3.肉親の死を、さらなる侵略への動機に結びつけていること
以上のことは、原文では次のとおりである。

(軍医の父親から軍医の妹への手紙)
     「奥地討伐隊参加を志願せる処、……勇躍鉄カブトをかぶり、短銃を肩より釣り、名刀を背負い……、奥地
    第一線に出動せる処、不運にも病毒に感染し、……逝去いたし候」
     「心すべきは海南島行を志望したる事も、○○上陸後奥地討伐に志望したる事も剛としては「熱帯伝染病研究」という……自分の志望に突進し満足し職に殉じたりといふ事実」、
     「涙を以てするよりは尊敬を以て剛の霊を祭られたく候。海軍大臣代理……来宅あり、剛戦病死武功……大尉に累進し正七位に叙せられるべき……」。
(父親への返信)
     「……父様のお手紙により、お兄さんが自ら選んで、……望むところを進まれたことを本当に嬉しく思ひ
    ます。お兄さんが身を捨ててお国のためにつくされたそのあとを受けついで私達も国に献げた遺族として、
    本当に相応しい家族になりたい」。
(もうひとりの妹のコメント)
     「お兄様を亡くしたことは実に実に苦しい、けれど今、日本の国が大変な時に国民として、お兄様を戦地
    で亡くしたことは有難いと思ふ、そして自分も……日本の国のもっとよい力になりたい」。
(母親のコメント)
     「はじめ私共は、何故、小さな一人のためにこんなにも皆様から御同情を頂くのかしら……、それに値する
   ほどのものであったらうか……、今になって、皆様の御同情は、ほんとうに国を愛する心から出たものである
   といふことがしみじみ分かってまゐりました。……多くのお励ましをいただきました。それは……皆に代わっ
   てお国のために生命を捧げることが出来たそのためであつた……」。
(軍医の遺書に対する著者の意見)
     「生あるものは常に死に直面す(軍医の遺書中の言葉)との言葉は、一死報国の固き決意のあらわれと
    見るべき……」、
     「亡き大尉の霊は……一人一人の心の中に住み、声なき励ましの声はきかうとする者の胸奥に深く深く
    響いて来るやうな気がいたします」。

■『婦人之友』(1941年2月号)  田中薫撮影「海南島点景」
 写真とキャプションで海南島を紹介している。
 日本軍の武力による制圧が隠されて、海南島が資源豊富で平和な島にように描かれている。
    写真1 海口の3階建の屋上での気象観測器と入道雲
        キャプション=日に一度きま定つて、入道雲が捲き起つて来る。海南島の雨季は9月
    写真2 ゴムの木の森の様子
        キャプション=海南島はゴムの生産地としても努力次第で有望
    写真3 数人の女性が歩いている後ろ姿。写真下に「海軍省検閲済」。
        キャプション=海南島の女はよく働く。彼女たちの働く部屋を訪れると定まって、武運長久を祈る日
       の丸の旗が壁に貼られている。兵士と同じように送られてきたけなげな乙女達。大抵は台湾生まれの
       内地人。 
    写真4 原野を開墾する地元の住民の姿
        キャプション=海南島には、原野が多い。これを開墾するには何よりも人手を要する。黎人は割合に
       勤勉。
    写真5 黎族の住居の全景
        キャプション 海南島には凡そ20万の黎人が住んでいる。未開人で台湾の蛮人によく似てゐる。黎
       人は日本人に親しみを持ち、軍のためによく働く。
                                                竹本昇
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日本の雑誌は海南島侵略をいかに報道したか 2

2010年08月19日 | 海南島近現代史研究会
■『文芸春秋』1940年3月号)  下村海南「海南島遊記」
 日本が侵略した海南島で1940年の元旦を迎えるために海南島に踏みいった下村海南は、日本軍から「海南島南端三亜のその又海上のいくさ舟から除夜の宴に招かれるは、誠に記念深き光栄」として、日本軍と大晦日を過ごしたことを「今年1940年(原文元号)の海南島いくさ舟の除夜の宴あり、共に忘れがたき思い出である」と語り、リン陵シュイ水では「戦没一七士の墓にお詣り」、崖県にある「丘陵の上には警備の歩哨兵の立つ」の温泉に入ったことを書き、占領地で元旦を迎えることを「世の中に僕のやうな果報な男冥利ににあまる男がどこにあろうか、胸が一杯になって涙がにじんでくる」と記すこの筆者には、他国侵略に対する痛みも反省もない。
 海南島の住民に対して「長く眠っていた楡林の入江もこれから眼をさます事だろう」、「椰子の実を五つ六つもぎとらせる」、「住んでる者は文化に潤はない」、「軍票を貰ってもまだ札の味が分からない」と差別的な見方で書き、日本軍による虐殺、虐待、資源略奪、性暴力が行われている海南島三亜の海岸で、正月元旦ゴルフの打ちっぱなしをしたことを「とても痛快で壮観であった」と書く著者の意識は、まさに侵略者そのものの意識である

■『改造』(1939年3月号) 「編集後記」
 「二月十日、紀元の佳節の前日、……国民すべてがひそかにこの日あらむとしてゐた『海南島奇襲上陸』の成功」、「国民とともに心から祝はん」、「詳細な報告をもって来月号をかざる予定である。さひはひに御期待ねがふ」という記述に見られるように、海南島侵略を賛美する編集方針である。当時は、海南島に関する掲載文が読者に期待を持たせるものであったことを示している。

■『少年倶楽部』(1939年5月号) 講談社
 皇族が戦場に視察することを知らせ、他国に対する侵略戦争を「聖戦」であると信じ込ませるために、「高松宮殿下には、かしこくも(おそれおおくも)・・・輝かしい海南島占領戦にご参加あそばされ」、「敵前上陸の際など、敵弾の中で御指揮あそばされ、まことにおそれ多い極み」とキャプションをつけて、高松宮が海南島の秀英砲台を視察している写真を大きく載せている。天皇制が侵略戦争をおし進めたことを示している。
 少年倶楽部は、発行部数が70万部を超え、少年たちに圧倒的に支持されていたという少年雑誌である。

■『少年倶楽部』(1941年3月号) 「このごろの海南島」
 海南島の地図を絵で描き、キャプションでは「海南島が宝の島だ」と題をつけて、「1939年(原文元号)2月、皇軍が上陸して、匪賊は奥地に追いつめられ、いろいろなしらべがすすむにつれて、……たくさんのだいじな鉱物が出る。魚もよくとれる。農業も牧畜を林業ものぞみが多い。それらがみな、日本人の来るのを待っている」と説明して、海南島からの資源略奪を美化している。「原一司 画」と記されている。
 次のページでは、水牛の群れを移動させている絵を描き、キャプションでは「たのもしい牧畜とゴム栽培」と題をつけて「崖懸に集められた牛は、肉は食用とし、皮は楡林から日本へ送られます。やがて楡林には缶詰工場もできるので、牛肉や魚の缶詰がどしどしつくられることでせう。」、「……ゴム園もありますが、なお大いに力をいれて、産額を増さうとしてゐます」と説明して、日本企業が地元の住民や朝鮮・台湾・香港などから強制連行し強制労働につかせ虐待死したことは隠され、資源略奪があたかも合法的で平和な経済活動であるかのように描いている。「山川惣冶 画」と記されている。
 高い山肌で鉄鉱石を露天掘りしている労働者とそれをトロッコで運び出している労働者の絵をえがき、キャプションでは「世界一の鉄鉱」と題をつけて、「鉄は今の日本にとって、最も必要……。田独山があります。……軽便鉄道で楡林へ運ばれ、ここから舟につみこんで日本に送られてゐます」、「石碌山といふのがまた、良質の鉄鉱……。大嶺山の金、昌化大江南岸一帯の砂金、那大付近の砂金の錫、……三亜付近の、セメントの原料となる石灰岩や定安付近の石炭など、……のぞみの多いものばかりです」と説明し、ここでも鉱山資源の略奪と強制労働などの犯罪性は隠され、略奪を謳歌している。「梁川 剛一 画」と記されている。
 楡林港に入港したトロール船から、捕獲した魚類を陸揚げしている絵を描き、キャプションでは「すばらしい漁業」と題を付けて、「日本の漁船が日の丸の旗をひるがえしながら、めざましくはたらいてゐます。……これらの獲物は……日本に送られます。……新しい設備をしてゆけば、いくらでも発展するでせう」と説明し、漁業資源の略奪、経済侵略を促している。「村上松次郎 画」と記されている。

■『少年倶楽部』1941年11月号 
 海軍の従軍画家として黒崎義介が、1940年に海南島に押し入って見たことを大きな絵と文章で紹介している。
 「海南島で見た子供」という題を付けて、冒頭に「鉄をはじめ、いろいろの産物が出るだいじな島で、1939年(原文元号)から、ずっと、わが兵隊さんの手でをさめています」と書くことによって、少年読者に対して、日本軍による海南島占領は資源獲得のための当然の行為のように思わせている。
 描かれている絵は、草を積んだ荷車を水牛に引かせて、その水牛の背中の上に乗っている少年と妹らしい女の子の様子である。その少年が、侵略者である従軍画家や案内の水兵とすれ違うとき、人なつこい大きな目をパチパチさせて「コンニチハ」と挨拶したことを「いかにも安心しきつた平和な姿」と捉え、それを「日本の兵隊さんが、どんなにここの人たちにやさしくしているかがわかって、尊い思いにうたれました」と書くことによって、海南島で虐殺、放火、資源略奪、強制労働、性暴力を繰り返した日本軍を敬うように書いている。
                                               竹本昇
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日本の雑誌は海南島侵略をいかに報道したか 1

2010年08月18日 | 海南島近現代史研究会
■『文芸春秋』(1938年12月臨時増刊号) 斉藤忠「海南島制圧」
 日本軍が1939年2月10日に海南島に奇襲上陸する前に、『文芸春秋』は、斉藤忠の海南島を制圧することが重要であるという文章を掲載している。
 ここで、斉藤忠は、日本軍が武漢を占領するまえに中国南部に攻め入ったのは、援蒋ルートであるユエハン粤漢線(注。武漢・広州間の鉄道)による抗日軍への武器補給を徹底的に壊滅するためのものであったが、これでは不充分であり、滇越鉄道(注。雲南省の省都昆明とベトナムのハイフォン海防間の鉄道)が抗日軍への武器補給が続けられるとすれば、日本としては、断じてこの新補給路を破壊しなければならないと主張し、つぎのように述べている。
     「海南島を制することに依ってのみ、一方には瓊州海峡(注。広東省と海南島間の海峡)及東京湾(注。ベ
    トナムと海南島に挟まれた湾)方面よりする抗日軍権への援助と連絡とを遮断し得、また一方に於ては、援
    蒋大動脈としての滇越鉄道の機能を全く奪ひ得るが故である。
 さらに斉藤は、海南島の戦略的価値は地理的な位置にあるとして、「英・佛・米の南支大陸侵略を制圧し得る絶好の戦略的要点」、「南方海上制覇の重大な根拠地としても注目されねばならない」、「東より来る勢力に対して……天然の城砦を太平洋のただ中に形造るとひとしく、西より窺う勢力に対する金剛不壊の鉄壁を成すもの」と言い、海南島制圧は、単に、英・佛の援蒋ルートの遮断だけではなく、すでにこのとき、アメリカ、イギリス、フランスとの戦争に備えるために必要であると言い、
     「広東はすでに制し得た。だが、国府援助に狂奔する英佛は、いままた瓊州海峡と東京湾とに、新しき援
    蒋路線を切り開かうとしてゐる。……今日こそは、日本が、海南島に対して、断固としてその所信を行ふべ
    き時ではないか」、
     「何物に遠慮して国家百年の大計を誤らうとするのであろうか」
と、海南島の早期制圧を促している。

■『中央公論』(1939年3月号)  藤井豊政「海南島占拠と法的見解」
     「我等日本国民は、萬一、英・米・佛等が、今回の皇軍海南島攻略に対して、抗議又は抗議がましい申
    入を成す事があるとしても、以上のごとき、法律的信念を以って、堂々とこれを撃破し、飽迄も、正義に則
    り、東亜永遠の平和確立のため、東亜の新秩序に邁進すればよいのであって、彼等の行為行動など、何
    等意に介するにあたらないのである」
と結論付けるこの小文は、日本の海南島侵略を「自衛権の発動である」から法的に問題はないとして、臆することなく海南島侵略を推し進めることを主張している。
 日本の海南島侵略が、1907年の日佛協約に違反していない理由として、「支那は軍隊を擁して、近爾国に攻撃を加える可能性を発生増大」、「支那事変も亦、そのために起こった」と歴史的事実に反することを上げて、「支那軍を掃蕩するの目的を以て行はれた」日本軍の海南島侵略は日佛協約に定めた「相互平穏保障」とは別の問題だからに違反しないと主張している。もうひとつの理由として、この協約締結当時の状況が変わり、「日佛間に相互依存の雰囲気が存在して居らない」、「満州事変は、帝国の領土権を有する朝鮮及び帝国が占有権を有する関東州に近爾する満州において、帝国の権利及び利益が暴力を以て侵される至ったため」と、ここでも歴史的事実に反することを上げながら「然れば、佛国は日佛協約の一方の締約者として、当然帝国を支持しなければならないはずである。……この事は佛国自身、自ら進んで日佛協約を破棄し去ったものと断ずるのは法理的にも実際的にも当然の事」と主張して、海南島侵略が日佛協約に違反していないとしている。  
 1897年の仏・清国間に結ばれた海南島不割条約については、「不割譲条約なるものは条約締結間の行為だけに止る」、「海南島を攻略占拠したからといって、不割譲を約せしめた佛国の法律上の権利を害するものではない」ため、海南島侵略によって佛から抗議を受ける理由がないとしている。
 1922年に中国の主権・独立を確認した9国条約と、日米が1909年に「平和手段ニ依リ清国ノ独立及領土保全……支持シ」と定めた日米両国交換公文についても、「支那の事情が全く相違するものとなって居るが為めに、右条約の如きは、早くも死文化し去り、何等その効力を持つものではないといふ法律論により」違法でないとしている。
     「今回我帝国皇軍が抗日支那政権覆滅のため、その一作戦根拠地たる海南島を攻略した事は、炳乎た
    る自衛権の発動であって、何等この種の条約に抵触するものではない」
と、他国侵略を自衛のためと偽ることによって、条約や国際法違反ではないと主張して、中国大陸侵略・海南島侵略という国家的犯罪に駆り立てる役目を果たしている。
 米英佛という植民地宗主国に対する意識は働いていても、侵略され植民地にされる側の痛みは眼中にないという侵略者の本性を表している。
                                             竹本昇
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能美実らに対する横浜裁判 2

2010年08月17日 | 海南島
 1945年12月8日に「極東国際軍事裁判」のために設置された国際検察局(IPS)は、1949年2月12日に廃止されましたが、日本政府と日本軍のアジア太平洋民衆に対する侵略犯罪を個別に全体的に明らかにしようとすることはありませんでした。
 国際検察局(IPS)の文書には、「横浜裁判」にかんする文書が含まれていますが、そこでは、ほとんどアメリカ合州国兵に対する犯罪だけが問題とされています。
海南島で侵略犯罪をくりかえしていた日本軍将兵のほとんどは、その犯罪の責任を問われることなく、1946年春までに、日本に戻り「平和」に暮らしはじめました。
 「朝鮮村虐殺」をおこなった海南警備府第16警備隊(司令官:能美実)の将兵たちもそうでした。
 日本に戻った能美実は、広島に住み、千代田保険の損害査定員になりました。
 能美実は、海南島民衆・朝鮮民衆にたいする犯罪の責任を追究されることはありませんでしたが、1948年7月3日に、海南島におけるアメリカ合州国軍捕虜殺害容疑で逮捕され、10月6日から横浜で裁判にかけられ、10月18日に終身刑を宣告されました。
 このとき、同じ「事件」で、当時海南警備府第16警備隊兵士(中尉)だった横山ゆたかと鈴木璋、当時海南警備府第16警備隊所属の警察官だったしいのき・Hの3人が重労働8年の刑を宣告されました。
                                              佐藤正人
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能美実らに対する横浜裁判 1

2010年08月16日 | 海南島
 国会図書館憲政資料室に、GHQ/SCAP Records, International Prosecution Section (「国際検察局文書」〈国会図書館で仮訳した文書群名〉)の一部分のマイクロフィルムなどがあり、そのなかに、Records of Trials and Clemency Petitions for Accused Japanese War Criminals Tried at Yokohama, Japan, by a Military Commission Appointed by the Commanding General, 8th Army, 1946-48(米陸軍第8軍司令官によって任命された軍事委員会によって横浜で審理された日本人戦犯被告人に対する裁判文書および減刑嘆願)が含まれています。
 この文書のなかに、Exhibits to Record of Trial in the case of UNITED STATES vs Minoru Nomi et 3. (合州国の能美実ほか3人に対する裁判記録文書)があります。
 これは、能美実ら4人にかんする、1948年10月6日から18日までの横浜裁判のイングランド語の文書です。国会図書館憲政資料室で公開されている、GHQ/SCAP Records, International Prosecution Section(IPS)のマイクロフィルムやマイクロフッシュのなかに、能美実にかんする文書は30点ほどありますが、そのなかで、この200頁あまりの文書が最もまとまったもので、ほかの文書にはこの文書の記述以外の情報はほとんど記載されていません。
 能美実らにたいする横浜裁判の日本語文書には、1948年10月に出された引揚援護庁第二復員局残務処理部法務調査課横浜出張所の「海南島第十六警備隊能美事件合同戦犯裁判記録」などがありますが、これらの文書は、詳細なものでなく、公開時点で塗りつぶしがおこなわれています。このブログの2010年5月13日から7回連載した「海南島第十六警備隊能美事件」を見てください。
                                             佐藤正人
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ヨ チャボン(呂且鳳)さん

2010年08月15日 | 「朝鮮報国隊」
 ヨチャボン(呂且鳳)さん(1913年生)は、ハンギソク(韓錫)さんと同じ陵水に強制連行されました。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2007年7月17日、20日、2008年5月24日に、仁川で、ヨ チャボン(呂且鳳)さんに話を聞かせてもらうことができました。
 以下は、そのときの証言の内容です。
 このブログの2007年7月23日~29日のヨチャボンさんについての文章を参照してください。 
 ヨ チャボン(呂且鳳)さんは、2008年10月8日に、仁川で亡くなられました。
 

■光州から海南島へ
 光州刑務所で服役中だった。傷害致死で、懲役2年。刑期の満了まで、一か月たらず残っているとき、看守からどこかの仕事に行けといわれた。お金もやるという。巡査と同じくらいの金。自分は出所したら故郷に帰るから嫌だと断ってもきいてもらえなかった。ダメだ、行けという。独房に入れ、かぎをかけてしまって、食事もなかった。行かないということはできなかった。逃げることもできず、光州刑務所から全部で5人、釜山港に連れて行かれた。 各刑務所から大勢の朝鮮人が集められていた。
 わたしは7次だった。軍人がそう言った。刑務所でもそう聞いた。

 明日、自由の身になるというのに、今日、地獄に来た。
 行くとき、服を着替えろという。黒い服に、じかたび、リュックサック。食料として、玄米、のり、メンテ一匹。
 どこに行くのかと聞くと、海南島だという。どこにあるのもか、知らない。
 光州からいっしょに行ったのは5人。釜山から船に乗って、小倉刑務所に行き、そこで一泊か二泊。人がおおぜいいた。朝は準備体操。そこから八幡に行って船に乗り、台湾に寄った。
 船に乗る前は、それでも親切にしてくれた。
 船はかもめ船。若い女の人もおおぜい乗っていた。200人。慰安婦として行く。(男は)われわれのほかは、日本軍人だけだった。われわれは252人。番号をあわせると。われわれは船倉にはいった。よい場所をさがそうと、みんな騒がしかった。座れという。何かいうと、“貴様文句いうか”。それからは、何もいえない。何かいうと、“やかましい、たたき殺すぞ”。(海南島に着くまで)それからいっさい、外には出られなかった。

■海南島に着く
 約二週間過ぎたと思う。降りよという。ここはどこかと聞くと、“どこでもいいじゃないか、早く降りろ”。しごとをさせるために来たのか、殺すために来たのか、と言ったら、やっと海南島だといった。
 宿舎はできていた。別の人間がいたようだ。食堂も、電気がきていた。ボイラーもあった。水道もあった。どこかに行ったあと、われわれがはいったようだ。
 宿舎から5メートルくらい離れて、鉄条網を張り巡らしてあった。あっちとこっちに門があった。門を見張る人は軍人二人。だから4人で監視している。われわれが出入りすると、閉めてしまう。8人づつ寝る。200人くらい。かやをつって、4人分に8人が寝た。
 (宿舎には)「朝鮮報国隊」という看板はなかった。食堂にだけ「炊事場」と書いてあった。
3000名行くといっていたが、(海南島につくと)数百人しかいなかった。人数が集まらなかったようだ。
 われわれは互いにことばを交わすことができない。ことばを交わすと、“やかましい、たたき殺すぞ”。
 日本人にものをいうのはじぶんだけだった。
 そこにいたのは、われわれと、日本人だけ。日本人は軍人。朝鮮人看守もいた。わたしと同じ性の人もいた。看守の名前を知る必要もない。担当と呼ぶ。われわれも名前は必要ない。番号がある。誰も名前を知らない。全部番号。“イチバン、ニバン、サンバン”。

■飛行場をつくる
 (海南島では)飛行場をつくるしごとだった。朝5時から夕方5時まで。中国人の共同墓地だったところを毀して、飛行場をつくった。飛行場は、米軍の空襲で工事を中途にして、山に避難した。
 (しごとは) 3人一組で押し車に土を入れて運んで、行ったり来たりする。ぢかたびはいて。
 暑いし、約2時間しごとをしたら、汗で服がくっついた。スコールが1日3回来る。服を脱いでからだを洗った。
 車引いていると、(空襲があって)軍人が車をひっくりかえせという。ひっくり返して、その下に入ると、軍人が出てこいといって、じぶんたちがそこに入った。

■仲間の死
 マラリヤやら熱病や空腹で働くことができなかったら、翌日の明け方4時半とか5時になれば、車が来て乗せていく。5人のときもあるし、19人のときもある。朝の点呼の時、弱ってしごとができなくなった仲間が、どこかに運ばれていく。
 どこに行くのかと軍人に聞いたら、“貴様が知ってどうするんだ”。
 どこに連れていったかわからない。朝早く4時半ころや5時に、ほとんど死んだ人間を車に乗せて、どこに行くというんだ。
 死んだ人間は、ひとり見た。朝、運動をして、列をつくってしごとに行くのだが、15分くらい行ったところで、われわれは下水道を作っていた。高い山のふもとだ。樹木が生い茂っている。
 われわれの中隊の人間みたいだった。何か、木がある。木に火がついている。木が古くなると中が腐って外が乾いて、火がつくことがある。前はそんな木がなかったのに。よく見ると人だった。死んだから、埋めないでそこに捨てたのだ。こんなにして、座っていた。腹から腸がとび出していた。足元にはまだ火がついていた。それ一回だけ見た。

■米を盗んで半死に
 わたしは自由の身になったから、こんな話しもできる。解放になったから、みんなのおかげで生きのびた。解放になっていなかったら、わたしもあそこで死んだ人間だったかもしれない。

 あのとき、腹が減って、どれほど米が食べたかったか。米を盗んで食べたのが、炊事部でわかったんだろう。
 宿舎は、2、3か所ある。別に、休憩する宿舎があった。軍人がいて。タバコもすって、食事もする。そこで軍人3人に殴られた。看守ではない。服を脱がせて、逆さにつるして、殴られているのかどうかもわからないくらい殴られた。9時につかまって、1時に部屋に戻された。殴られて口がこんなになり、足も曲がってしまった。この頭の傷跡も、そのときのものだ。
 そのあと、みなが大小便をするところに、縛られたまま、ころがされていた。小便をおけごとかけられた。頭のすぐそばに小便桶があった。小便が流れてきて、濡れるままだった。そのあと3か月、大小便にどれほどつかっていたか。

■山に避難して
 空襲で山に避難したときも、動けなくて仲間に背負われて行った。日本人もいっしょに避難した。
飛行場から避難したところまでは、だいたい3マジ。歩いて40分くらい。
 避難したところでは、しごとはしなかった。3、4か月そこにいると解放だった。
正確ではないが、われわれは100名未満。そこで死んだ人はいなかった。みんないっしょに戻ってきた。

■解放
 ご飯を食べたあと、夕方、解放になったと聞いた。
 (解放を聞いてどう思ったか)うれしかった。みんな、踊って踊った。わたしは殴られてまだ動けなかった。
 解放になったと聞いたら、軍人はひとりもいなくなっていた。
 避難したところから100メートルくらい離れたところに石油倉庫があったが、そこに行っても、いなかったという。われわれになにも言わずにいなくなってしまった。
解放になったから、怖くて逃げたんだろうと思った。そうでなくても、日本人を殺そうと、みんな……。
 食料。日本人が置いていったのがあったが、食べる物がなくて、中国人から貰って食べた。人民会の朝鮮人にも助けてもらった。
 解放前は、中国人は会ったこともなかった。解放後は、中国人の村は近くにあったし、おおぜいいた。解放後は、米軍も見たし……。
 そのまま、帰郷するまでそこにいた。
 海口の朝鮮人民会から助けてもらった。朝鮮人がちょっとでも悪いことをすれば、人民会が処理した。
 人民会から、(日本人に)虐殺などするな、と言ってきた。殴ったりするなと。人間には人間の待遇をせよ、いぬやけもののような扱いはするなと。そう言ってきた人は、朝鮮人だった。

 殴られて、そのときはまだ、話すことも歩くこともできなかった。(解放後)避難した山の中にいたとき、人民会から来て治療を受けた。男の人と女の人がふたり来た。治ってきて、少しづつ話せるようになった。そこで4か月間いたが、1か月に一回くらい来た。わかめ汁もくれた。

■帰郷
 解放後、3、4か月たって釜山に戻ってきた。
 戻る人はみんな集まれといってきた。
 わたしは戻っても生きることができないと思って、戻らないと言った。朝鮮人ひとり、日本人ひとりが来て、故郷に戻ったら、空気もいいし、薬もある。そんなに簡単に死にはしないから帰ろう、という。あの人たちが、車で来て、海口にも、おぶって車に乗せられていった。避難するときも背負われて。
 海口から船に乗って戻った。われわれがいたところからみんないっしょに戻った。
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「朝鮮報国隊」に入れられ海南島で死亡した人たち

2010年08月14日 | 「朝鮮報国隊」
 「朝鮮報国隊」に入れられ海南島に強制連行された人は、2000人(あるいはそれ以上)ですが、その多くの人たちが「朝鮮村」などで殺されました。いまなお、日本政府は「朝鮮報国隊」の名簿を公表していません。
 日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が「被害認定」した「朝鮮報国隊」に入れられ海南島に連行された人は、わずか22人ですが、そのうち、生きて故郷に戻ることができた人は、高福男さんと呂且鳳さんの2人だけです。20人のかたがたが死亡した場所は、つぎのとおりです。

■海南島陵水で死亡
韓錫さん(1922年12月5日生)。1944年2月17日午後5時に「陵水朝鮮報国隊」で死亡。
金東赫さん(1920年4月17日生)。1944年2月に「陵水朝鮮報国隊隊員病舎」で死亡。
  日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会の「被害認定書」には、死亡日が2月31日と書かれています。
金晋鐵さん(1922年5月20日生)。1944年6月28日に「陵水朝鮮報国隊」で死亡。
崔鍾復さん(1906年2月29日生)。1944年7月7日午後4時35分に「陵水朝鮮報国隊隊員病舎」で死亡。
李興成さん(1911年9月14日生)。
  日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会の「被害認定書」には、
    「1945年10月8日に海南島陵水朝鮮報国隊作業所で死亡したと除籍簿に書かれてある」、
  と記載されていますが、「陵水朝鮮報国隊作業所」は、1944年末か1945年始めに解体しているので、この
  日付はなんらかの間違いだと思われます。

■海南島石録で死亡
金慶俊さん(1914年10月生)。1943年11月1日に「石碌朝鮮報国隊隊員病舎」で死亡。
朴仕洪さん(1920年3月12日生)。1943年11月3日に「石碌朝鮮報国隊」で死亡。
李之龍さん(李英文さん)。1943年11月9日に「石碌朝鮮報国隊」で死亡。
孫光玉さん(1916年5月6日生)。1943年11月30日午前2時20分に「石碌朝鮮報国隊」で死亡。
   「朝鮮報国隊」に入れられた人たちが海南島に到着したのは1943年4月でした。
   金慶俊さんも朴仕洪さんも李之龍さんも孫光玉さんも、海南島に連行されてから、わずか7か月前後で命
  を失わされました。
李連綵さん(1918年1月7日生)。1944年2月14日に「石碌朝鮮報国隊」で死亡。
薛鎮燮さん(1918年10月6日生)。1944年2月15日に「石碌朝鮮報国隊」で死亡。
李良玉さん(1919年1月18日生)。1944年3月19日午前10時15分に「石碌朝鮮報国隊」で死亡。
金二龍さん(1916年11月2日生)。1944年9月3日に「石碌朝鮮報国隊隊員病舎」で死亡。
閔益鎬さん(1917年7月4日生)。1944年9月3日に「石碌朝鮮報国隊」で死亡。
  金二龍さんと閔益鎬さんは、石碌で同じ日に亡くなっています。

■海南島三亜で死亡
司空出さん(1916年2月18日生)。1944年11月21日に「三亜朝鮮報国隊」で死亡。
崔成翊さん(1899年7月3日生)。1945年1月28日に「三亜朝鮮報国隊」で死亡。
呉治さん(1900年11月3日生)。1945年2月3日午前10時28分に「海南島三亜朝鮮報国隊隊員病舎」で
  死亡。遺骨は戻らなかったそうです。
徐鳳順さん(1912年1月6日生)。1945年2月23日に「三亜朝鮮報国隊」で死亡。
愈萬童さん(1914年2月25日生)。1945年4月5日午前5時55分に「三亜朝鮮報国隊 隊員病舎」で死亡。
  日本敗戦の4か月あまり前でした。

■海南島で死亡(海南島のどこで死亡したのかは不明)
金熊伊さん(1899年3月28日生)。1944年1月2日に死亡。
  日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会の「被害認定書」には、「朝鮮報国隊(軍属)」と書かれてあります。
                                              佐藤正人
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「20世紀初日本学者対黎族的研究与目的」 3(最終回)

2010年08月13日 | 海南島史研究
三、学者们的研究与殖民统治政策的确定
  学者们的黎族认识,究竟对占领军的殖民统治政策的制定产生了怎样的影响,换言之占领军在何种程度上吸纳了学者们的研究成果,由于资料所限目前还很难作出准确的判断,在此只能从占领军的黎族政策中管窥一、二。
  在日本占领军对整个海南岛所实行的殖民统治政策中,有两份文件尤其值得重视。
  第一份文件是日本占领军在1939年2月10日,即攻占海南岛的当天,发给陆军省的名为《关于海南岛的政务处理》的密件。该文件明确指出要“把海南岛作为经济上或者发展中国南方的基地永久占领”[15]。
  同年4月21日占领军出台了《关于海南岛政务暂定处理纲要》,指出“海南岛当前的政务处理,首先应以实施作战和确保治安为重点,与此同时应以为解决我国(指日本——作者注)的资源不足而调查并获取重要资源为目的”[15]。
  以上两份文件为侵琼日军在占领初期的主要文件,也是整个占领期间的海南岛政策的基点。然而两份文件中均未提及黎族,可见在占领初期,黎族问题并没有受到占领军的充分重视,或者说占领者还无暇顾及黎族问题。
  之后,随着强化治安和资源开发的需要,黎族开始成为占领军关注的对象。1942年8月29日,在日本驻海口领事馆笠原太郎总领事发给日本外务大臣东乡茂的题为《南方占领地行政实施要领》[15]的文件中首次提及先住民族问题。从目前入手的资料看,这也是日军侵占海南岛期间唯一一份涉及黎族的文件。
  文件分《方针》和《要领》两部分。
  《方针》部分再次重申了对占领地区“实行军政”的方针,强调要努力“恢复治安、迅速获得重要国防资源并确保作战部队的自给自足”。
  《要领》部分由12项内容组成,其中两项涉及到民族政策问题。第1项为“在军政实施方面,应最大限度地利用残余的统治机构,尊重过去的组织及民族习惯。”其中第10条则指出“对于现住土民应指导他们继续提高对皇军的信任和倚仗之观念,避免过早地诱发其独立运动”。
  对比前述学者们的黎族认识,我们不难发现这些政策是建立在学者们的“黎族性格温和、对日本人抱有好感”、“在中国政府政治支配的框架之内,黎族过着一种相对独立的生活”等研究成果的基础之上的。这说明,日本占领军的黎族政策,在一定程度上参考、借鉴了学者们的研究成果。
  之后,为了制定更为详细的黎族政策,1942年11月,占领军又专门从日本国内请来了岡田謙和尾高邦雄等两位著名学者,对海南黎族的社会组织和经济组织状况进行了详细的调查。在上至海军特务部政务局长、下至一般士兵的“无微不至的关照”下,二人顺利地完成了调查任务,分别提交了《海南岛黎族的社会组织》和《海南岛黎族的经济组织》两篇调查报告,对占领军的黎族政策提出了以下意见和建议:
  第一、利用黎族人性格中温顺的一面,将其变成日本统治下的顺民,进而变成自己的爪牙。
  尾高邦雄指出“虽然目前我们还无法推断,人口数不过为20万人左右的黎族(还有一种说法为50万),对于我国(指日本——作者注)的海南岛经营究竟会有怎样程度的积极贡献,然而由于黎族人自来性情温顺,而且对日本人较为亲近,因此……完全有可能把他们变成有力的中立者,甚至更进一步使他们成为日本人的爪牙。”[6]167
  第二、尊重黎族目前的生活方式和自律性生活,对他们采取稳妥的统治政策。
  岡田謙认为,在中国政府的统治时期,在不扰乱行政组织的范围内,黎族“被允许过自律性生活。”因此,占领军“姑且也应承袭此方针,尊重其自律性生活,此乃现阶段的稳妥之策。”[8]52。
  对此,尾高邦雄则认为,由于中国政府迄今为止对黎族所采取的有计划的同化政策取得了成功,因此“要把进行中的中国化立刻转换为日本化事实上是不可能的”,而且“一味地急于日本化在目前阶段是否妥当、有效也令人感到怀疑。”他建议“无论如何日本人不可以将自己的文化强加于人。强行地将黎族的生活习惯、生活技术日本化,似乎是在施恩于人,但事实上等于是剥夺他们的自由,否定他们最根本的生活方式。”占领军“要充分地理解黎族自身的传统和生活秩序,在充分理解的基础上对他们进行适当的指导。”[6]167
  第三、理解黎族的生活习惯,不强制劳动。
  尾高邦雄指出,由于黎族缺乏盈利观念,而且对日军所发行的军票漠不关心,所以他们“对诸如石碌矿的开发等工作不会主动地去做。再加上黎族为人诚实,不会按中国式的心计和投机取巧的方法行事,因此他们消极的态度也更加展露无遗。”但是他认为,不应简单地将黎族的这种态度归结为“懒惰”,甚至视为对日军开发事业的不理解和反抗。
  他主张占领军“必须充分地理解他们的不合作态度是源自于他们的生活,在评价他们的态度时不能不考虑到他们的生活环境。无论做什么事情都必须以此为前提。”他建议,对于黎族不应采取强制劳动的办法,如果这样,即使可以利用到他们的劳动力,但却不能很好地安抚他们,只能引起他们的反抗。[6]167-168
  第四、将黎族地区建成占领军安全稳定的后方。
  冈田谦认为,尽管黎族在文化方面受到汉族文化的影响较大,但由于他们生活在与汉族生活圈分割开来的黎区,且过着自律性生活,所以“把黎族地区与汉民族的一般行政区域分割开来进行统治,特别是将其建设成对土匪的缓冲地带是可能的,而且是必要的。”[8]52
  对此,尾高邦雄则认为,黎族经济已失去了推动力,目前已处于一种停顿状态,他们的民族自信心在不断地衰退,民族精神面临着崩溃的危机。因此,能否将黎族地区建设成为安全稳定的后方令人担心。他说“若从繁殖力的衰退这一角度来看,黎族的状况并不令人担忧,也不能说他们的精神、肉体正在逐渐地退化。
  然而,很明显他们正在逐渐失去建设性精神。若想使黎族地区起缓冲地带的作用,那么必须说值得忧虑之处正在于此。”为此他建议,要想把黎族地区变为对敌匪的缓冲地带,必须向黎族“提供足够的方便以使他们的自治变为可能。
  特别是有必要为他们提供农具以及其他生产方面的必需品,提高他们的生产力。这也有利于利用他们的生产产品,给山地的开发带来方便。”[6]166-167
  二人的建议和意见,进一步丰富和细化了占领军的黎族政策,加了“在充分理解黎族自身的传统和生活秩序的基础上,对他们进行适当的指导”、“理解黎族的不合作态度是源自于他们的生活,对他们不应采取强制劳动的办法”以及“为把黎族地区建设成为占领军的后方基地而向他们提供援助、提高他们的生产力”等新的内容和具体措施。抛开他们的研究目的,仅就这些建议本身来看,应该说对于黎族的生活和发展还是具有一定的积极意义的。
  当然,二人的意见和建议对占领军之后的黎族政策的制定产生了怎样的影响,由于资料所限我们还无从知晓。然而,从二人的调查报告发行之后仍有大量的黎族被强制劳动,一些黎族妇女甚至被日军充当慰安妇等事实[16]来看,这些意见和建议并没能得到很好的落实。
  毕竟在侵略者眼中,黎族不过是其实现殖民统治的工具而已。掠夺黎族地区资源远比黎族自身的利益更为重要。

参考文献:
[1] 后藤元宏.南支那海之一大宝库海南岛[M].日本:武道社,1932.
   该书作者因具有柔道五段、剑道五段的武力,大学毕业伊始便被著名的日本三菱公司选中,孤身一人前
   往台湾、海南岛等地考察。后藤元宏于1922年12月30日登陆海口,次年3月4日离开,在历时两个多月的
   时间里,对海南岛进行了全面的考察,其间曾在合口遇到过黎人,并留有照片为证。
[2] 山本由松.海南岛黎界植物调查报告书[R].日本:海南海军特务部,1942年5月.
[3] 台北帝国大学里农学部.台北帝国大学第一次海南岛学术调查报告[R].台湾:台湾总督府外事部,1942年
  2月.
[4]  台北帝国大学里农学部.台北帝国大学第二次海南岛学术调查报告[R].台湾:台湾总督府外事部,1944年
  3月.
[5] 山田金治.海南岛及广东视察调查复命书[R].台湾:台湾总督府林业试验所,1940年11月.
[6] 尾高邦雄.海南岛黎族的经济组织[R].日本:海南海军特务部,1942年8月.
[7] 金关丈夫.关于海南岛汉族和黎族体力比较的调查报告[R].日本:海南海军特务部,1942年5月.
[8] 冈田谦.海南岛黎族的社会组织[R].日本:海南海军特务部,1944年8月.
[9] 台湾总督官方调查课编.海南岛[M].台湾:日本南洋协会台湾支部,1939.
[10] 内藤英雄.广东福建读本[M].日本:东京东亚实业协会,1939.
[11] 南支那研究所编.南支那年鉴[M].台湾: 台湾实业界社,1944年.
[12] 吉川兼光.海南岛建设论[M].日本:大阪屋号书店,1944.
[13] 平野健.广东之现状[M].广东:广东日本商工会议所,1943.
[14] 金关丈夫.海南岛黎族的人类学调查[R]. 日本:海南海军特务部,1942年6月.
[15] 日本亚洲历史资料中心网站http://www.jacar.go.jp:(Visited 2007/4/8)
[16] 参照符和积.铁蹄下的腥风血雨[M].海南:海南出版社,1995.
                                             金 山
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「20世紀初日本学者対黎族的研究与目的」 2

2010年08月12日 | 海南島史研究
二、日本学者对黎族的主要认识
  20世纪初日本学者的黎族研究,从内容上看包括自然资源、人口、语言、环境、风俗习惯、生产形式、社会组织和经济组织等方方面面,其对黎族的主要认识大致可以概括为以下七点:

  第一、黎族作为劳动力资源的资质与汉族相比有过之而无不及。
     为更好地利用黎族作为劳动力的资源,医学博士金关丈夫受海南海军特务部的委托,对海南岛汉族及
    黎族的体力状况进行了全面的比较,所得出的主要结论如下[7]7:
       1)从生理学的角度看,黎族的脉搏数、呼吸次数、肺活量以及最低血压等低于汉族。
       2)从身体结构来看,黎族的体重重于汉族,与身高相比上下肢相对较长。在上下肢中,前臂和小腿
        的长度相对较长,胸围也大于汉族。
       3)在个人能力方面,黎族在爬树、短跑、跳跃、投掷、举重、牵引、推力、爬坡能力等方面均远胜于
        汉族。但在诸如选石等指尖作业以及图形辨别等智力作业方面,远逊于汉族。
       4)在团体能力方面,在接力赛跑、二人三足赛跑、运送椰子等不太需要配合的团体项目中,黎族的
        个人能力得到了较好的发挥,但在类似于拔河等需要全员共同参加的团体项目中,身体和个人能
        力占优的黎族却输给了汉族。
        根据以上结果,金关丈夫指出,除指尖作业和需要较高智能的工作之外,黎族的个人能力优于汉
        族,但在集团协作方面却显得缺乏训练。
     关于黎族作为劳动力的资质问题,尾高邦雄在《海南岛黎族的经济组织》中,也指出“黎族与汉族相比
    体力占优,对疟疾的抵抗力也更强,且性格温和诚实,因此他们作为人力资源的资质与汉族相比有过之
    而无不及。”尾高邦雄认为,尽管“他们的智能似乎低于汉族”,但“在类似于采掘、搬运等简单劳动方面,
    如果给他们以适当的指导,可以想象他们会与汉族不分伯仲。”[6]167

  第二、黎、汉之间存在着矛盾。
     关于黎、汉之间的矛盾问题,在多部日文资料中皆有体现。如台湾总督官房调查课所编《海南岛》一书
    中便有黎族“仇视汉人,在清代常常叛乱,这是出于对汉人压迫的反抗”之类的内容[9]311。
     后藤元宏的《南支那海之一大宝庫 海南島》一书也谈到“黎人对汉人的憎恶之情至今仍甚”[1]81,“除
    汉黎以外的黎人讨厌与汉人交往”[1]83。

  第三、黎族性格温和柔顺、对日本人较为亲近。
     值得注意的是,在日本学者的黎族研究中,关于黎族性格的描述颇多,且有诸多相似之处。例如,後藤
    元宏《南支那海之一大宝庫海南島》[1]82、内藤英雄《广东福建读本》[10]209、南支那研究所《南支那年
    鑑》[11]119、吉川兼光《海南島建設論》[12]60、台湾总督官房调查课《海南岛》[9]311以及平野健《广东
    之现状》[13]50等均述及黎族性格,且都使用了“黎人外表看似凶暴,性情却柔顺温和”之类的语句。
     他们的比较对象也多是台湾的原住民,认为“(黎族)不似台湾生番一般凶猛”,且“对日本人较有好
    感”。可见,日本人对黎族人性格的印象比较统一。当然,这里不排除资料之间存在着相互引用的问
    题。然而,其中的一些著述是以在海南岛的实地考察所得的第一手资料为依据写成的,相关描述应
    为著者的真实印象。

  第四、黎族生活在与汉族生活圈分割开来的村落,过着一种独立的生活。
     日本学者认为黎族的主要社会组织为“峒”和“村落”,他们生活在与汉民族生活圈分割开来的地区。
     尽管他们处在中国政府政治支配的框架之内,但却过着一种相对独立的生活。 [14]

  第五、黎族经济已达到“高度文化”阶段。
     关于黎族经济所处的“文化阶段”问题,日本学者认为,黎族已从事永久性的水田耕种,且犁耕之方法
    已构成其农耕技术的最主要部分。
     因此,如果按一般的分类方法,以采集阶段(包括狩猎及渔捞)为原始文化阶段、以薅耕阶段为中级文
    化阶段、以犁耕阶段为高度文化阶段,那么可以说黎族已经达到了“高度文化”阶段。
     更确切地讲是“从‘中级文化’向‘高度文化’的过渡阶段,或者应该说是处于在‘中级文化’的内容上逐
    渐披上‘高度文化’外衣的阶段。”在他们看来,迄今为止将黎族作为“未开化人”来看待的做法,至少从
    经济组织的层面上看是不确切的。[6]p165-166

  第六、黎族经济已失去推动力。
     与所处的“高度文化阶段”相反,在日本学者看来,黎族经济已失去了推动力,处于一种停顿状态。
     通过调查他们发现,黎族缺乏对武器和武装的兴趣,这“意味着他们民族自信心的衰退。”而黎族历史
    知识的匮乏,以及由此而带来的尊重自己传统的观念的缺失,进而言之诸如宗教礼仪及禁忌等社会制
    度的衰退等,都昭示着黎族“曾经拥有过的纯粹而牢固的民族精神正逐渐面临着崩溃的危机。”此外,
    黎族的保守主义态度和对自然灾害的被动态度等方面也反映了他们“缺乏气魄和上进心”。[6]166

  第七、中国政府对黎族所采取的有计划的同化政策是成功的。
     通过调查,学者们指出“汉族文化对黎族的影响十分显著,无论是在衣食住方面,还是在生产技术方
    面、宗教礼仪等方面,这种影响都是显而易见的。
     他们的农耕技术已远远地脱离了原始经济阶段的事实,换言之也正是他们深受汉民族影响的现状的
    体现。”而这种情况也证明了“中国历代政府所采取的有计划的同化政策是成功的。”如果照此发展下
    去的话,在不久的将来黎族“就会完全地汉化。”[6]166-167
                                              金 山
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