三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』 8

2007年09月12日 | ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』
■6、韓国での証言、犠牲者の故郷の現風景   
映像:証言する高福男さん(2005年12月18日)
   第2次“南方派遣朝鮮報国隊”に入れられて海南島に行った
       背景映像:尖峰嶺
             黄流トーチカ
             黄流夕景
テロップ:高福男さん(1917年生)

ピョンヤンで 日本警官とけんかをして殴った
それで 刑務所に入ることになった
2年の刑を受けた
服役中の1943年3月
ピョンヤン ソウル 仁川
大田 釜山 大邸
各刑務所から 
800人が ソウルに集まった
青い洋服を着て
「南方派遣報国隊」と書いた腕章をつけた
リュックサックを背負い 白いの
マキハンつけ ヂカタビはいて
リュックサックには
一か月分の 食料と 塩
ソウル駅から 出発して
夕方 釜関連絡線に乗った
小倉刑務所で1日泊まり 
そこで訓練を受けて2日間いた
輸送船がきて 21隻ですよ
みんな乗った
一次の1000人は石碌に行った
わたしたち800人は 飛行場建設
(宿所は)1000平方メートルくらい
両側に 板間があって 
真ん中に 廊下がある
朝になると点検
就寝ラッパ
起床ラッパ
飛行機の掩退壕を作ったんだ
土を運んで
飯は少ないし しごとはきつい
早くできなかったら
腕立て伏せの姿勢をさせて
つるはしの柄で殴る
こうしても死ぬ 
ああしても死ぬ
逃亡する人がひんぱんに出てきたわけだ
8人で 逃げようと相談した
長くチャンスがなくて
ある日 翌日が祭日のとき
その晩に逃げようと約束した
そのため 
責任者にわからないように
工事に使う ダイナマイトを隠した
逃げると 二人しかいなかった
頼っていった 台湾人の紹介で
船乗りのしごとを 2、3か月していて
警察に捕まった
留置場に 入れられたら
逃げた8人が みな捕まっていた
つるはしの柄で殴られて
気を失い
気が付くとまた殴られ
また殴られ……
みんな死んでしまった
宿舎の 廊下につながれていた
みんな しごとから戻ってくると
“なぜ 逃げたんだ
生きるのも一緒 
死ぬのも一緒ではないか”
もうろうとして……
手首がはれあがって 腐ってきた
鎖が食い込んでしまった
これが そのときの痕だ
足首に 木二本をはめて
釘を打つ 
後ろ手に縛られて 
ぶら下げられていた
大便もそのままし
小便もそのまま
飯もそのまま食べた
縛られているのは
何人もいたが
縛られたまま 
みんな 死んでしまった
仲間が
夜しごとから 戻ってくると
交代で 足をもんでくれ
手をさすってくれて……
わたしも 若かったから
だんだんよくなっていった
そのあと 
死体搬送係りを やれといわれた
ふたりでやった 
死体を捨てに行くのは
一日平均8、9人
その後看病夫をやらされた
また逃げて 台湾人の家にいたら
1か月くらいで解放だった
逃げた奴が
遊撃軍の隊長になってきた
そのうち船が来て (海南島を)出たが
広東に寄ったとき 光復軍が乗ってきた
釜山に着いた
コレラ患者がいて
1か月ほど船から下りられなかった
そのとき(いっしょに)下りたのは
光復軍 挺身隊 私たち 合わせても
250人くらいになるかならないか
われわれ800名はみんな死んで
何人もいなかった
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