■4-1、現風景と証言③ 感恩・八所で
地図:感恩・八所の位置を示す地図
地図:感恩の位置を示す地図
映像:感恩で張関充さんから話しを聞く
テロップ:張関充さん(1929年生)
朝鮮人は、宝上村小学校に泊まっていた
みんな青い服を着ていた
100人くらいいた
鉄橋工事をしていた。鉄橋ができあがるまでいた
半年くらい
朝鮮人を監督していたのは、台湾人
白い制服を着て、銃を持っていた
20~30人くらいいた
映像:「朝鮮報国隊」がつくらされた鉄橋基柱
テロップ:「朝鮮報国隊」がつくらされた鉄橋基柱
映像:証言する蘇諠芬さん
テロップ:蘇諠芬さん(1923年生)
朝鮮報国隊は 青い服を着ていた人たちだ
ここに住んでいた
100人くらいいた
鉄橋をつくっていた
服のうしろ肩に、 ‘朝鮮報国隊’と縫い付けてあった
上着もズボンも青かった
見張りは白い服を着ていた
拳銃を持っていた
朝鮮報国隊は、工事現場に、歌を歌いながら行った
朝鮮報国隊は感恩でしごとがおわったあと石碌に行った
映像(静止画面):(青い囚人服→)「発掘」された青い布
テロップ:「朝鮮村」の遺骨のそばから
青い布の断片がでてきた
■4-2、現風景と証言④ 石碌で
地図:石碌の位置を示す地図
映像:石碌駅
テロップ:石碌駅
映像:石碌駅構内
映像:石碌鉱山
テロップ:石碌鉱山
映像:石碌鉱山旧日本軍見張台跡
テロップ:石碌鉱山旧日本軍見張台跡
映像:石碌鉱山日本軍司令部の洞窟跡
テロップ:石碌鉱山日本軍司令部の洞窟跡
映像:金慶俊さんの戸籍簿→「1943年11月1日午後11時30分南支那海南島白沙県石碌朝鮮報
国隊隊員病舎ニ於テ死亡京城刑務所長朝鮮総督府典獄渡辺豊届出同年12月24日受附
テロップ:金慶俊さん(1915年10月生)の戸籍簿
ナレーション:金慶俊さんは、「朝鮮報国隊」に入れられ、石碌(シールゥ)で亡くなりました。28歳の
誕生日の1か月後でした。7か月前に妻の鳳業さんとのあいだに男の子・金忠萬さん
が生まれたばかりでした。
映像:証言する金忠孝さん(太平洋戦争被害者補償推進委員会会員)
背景映像:石碌鉱山
日本社会保険業務センターからの「回答」
テロップ:金慶俊さんの甥、金忠孝さん(1936年生)
父は行方不明になっていた
子どものとき父の弟金慶俊の裁判に行った
43年か 42年か 編み笠をかぶっていた
幼かったので日本語がよくわからなかったが
育ててくれた伯父が話してくれた
反抗をしたので 全部つかまった
そうして刑務所に……
罪名は…… 思想があって
日本人はそんな朝鮮人を嫌ったから
殺すこともできず生かすこともできないので
海南島に送られたのではないか 伯父が そう話した
釜山に住んでいたとき
死んだという話が近所から伝わってきて
伯父が(役場に)行ってみると
刑務所を通じて総督府に
金慶俊の死亡通知がきていた
わたしたちが死亡申告したのではない
日本の厚生労働省に照会したら教えることができないといわれた
わたしは息子でもなく、兄弟関係でもないからといって
わたしが(なぜ、どこで金慶俊が死んだかを)
はっきりさせなければと思っている
金慶俊の息子は 遺骨だけでも、と言っている
映像:海南島出役人員は、三亜及陵水に於ける海軍施設工事に対し1,500名、石碌の日窒鉄鉱
採掘作業に500名、合計2,000名
→石碌の日窒鉄鉱採掘作業に500名を拡大
テロップ:朝鮮総督府法務局『第86回帝国議会説明資料』(1944年12月)
地図:感恩・八所の位置を示す地図
地図:感恩の位置を示す地図
映像:感恩で張関充さんから話しを聞く
テロップ:張関充さん(1929年生)
朝鮮人は、宝上村小学校に泊まっていた
みんな青い服を着ていた
100人くらいいた
鉄橋工事をしていた。鉄橋ができあがるまでいた
半年くらい
朝鮮人を監督していたのは、台湾人
白い制服を着て、銃を持っていた
20~30人くらいいた
映像:「朝鮮報国隊」がつくらされた鉄橋基柱
テロップ:「朝鮮報国隊」がつくらされた鉄橋基柱
映像:証言する蘇諠芬さん
テロップ:蘇諠芬さん(1923年生)
朝鮮報国隊は 青い服を着ていた人たちだ
ここに住んでいた
100人くらいいた
鉄橋をつくっていた
服のうしろ肩に、 ‘朝鮮報国隊’と縫い付けてあった
上着もズボンも青かった
見張りは白い服を着ていた
拳銃を持っていた
朝鮮報国隊は、工事現場に、歌を歌いながら行った
朝鮮報国隊は感恩でしごとがおわったあと石碌に行った
映像(静止画面):(青い囚人服→)「発掘」された青い布
テロップ:「朝鮮村」の遺骨のそばから
青い布の断片がでてきた
■4-2、現風景と証言④ 石碌で
地図:石碌の位置を示す地図
映像:石碌駅
テロップ:石碌駅
映像:石碌駅構内
映像:石碌鉱山
テロップ:石碌鉱山
映像:石碌鉱山旧日本軍見張台跡
テロップ:石碌鉱山旧日本軍見張台跡
映像:石碌鉱山日本軍司令部の洞窟跡
テロップ:石碌鉱山日本軍司令部の洞窟跡
映像:金慶俊さんの戸籍簿→「1943年11月1日午後11時30分南支那海南島白沙県石碌朝鮮報
国隊隊員病舎ニ於テ死亡京城刑務所長朝鮮総督府典獄渡辺豊届出同年12月24日受附
テロップ:金慶俊さん(1915年10月生)の戸籍簿
ナレーション:金慶俊さんは、「朝鮮報国隊」に入れられ、石碌(シールゥ)で亡くなりました。28歳の
誕生日の1か月後でした。7か月前に妻の鳳業さんとのあいだに男の子・金忠萬さん
が生まれたばかりでした。
映像:証言する金忠孝さん(太平洋戦争被害者補償推進委員会会員)
背景映像:石碌鉱山
日本社会保険業務センターからの「回答」
テロップ:金慶俊さんの甥、金忠孝さん(1936年生)
父は行方不明になっていた
子どものとき父の弟金慶俊の裁判に行った
43年か 42年か 編み笠をかぶっていた
幼かったので日本語がよくわからなかったが
育ててくれた伯父が話してくれた
反抗をしたので 全部つかまった
そうして刑務所に……
罪名は…… 思想があって
日本人はそんな朝鮮人を嫌ったから
殺すこともできず生かすこともできないので
海南島に送られたのではないか 伯父が そう話した
釜山に住んでいたとき
死んだという話が近所から伝わってきて
伯父が(役場に)行ってみると
刑務所を通じて総督府に
金慶俊の死亡通知がきていた
わたしたちが死亡申告したのではない
日本の厚生労働省に照会したら教えることができないといわれた
わたしは息子でもなく、兄弟関係でもないからといって
わたしが(なぜ、どこで金慶俊が死んだかを)
はっきりさせなければと思っている
金慶俊の息子は 遺骨だけでも、と言っている
映像:海南島出役人員は、三亜及陵水に於ける海軍施設工事に対し1,500名、石碌の日窒鉄鉱
採掘作業に500名、合計2,000名
→石碌の日窒鉄鉱採掘作業に500名を拡大
テロップ:朝鮮総督府法務局『第86回帝国議会説明資料』(1944年12月)