三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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企画展『海南島で日本は何をしたのか』4(最終回)

2006年10月10日 | 大阪人権博物館
Ⅴ、海南島における日本軍隊性奴隷制
 日本軍が海南島に侵入を開始してから1か月後の1939年3月、はやくも、日本外
務省と日本軍は、台湾拓殖会社に「慰安所」設置を依頼しました。
 海南島の「慰安所」には、海南島の漢族、黎族、苗族の女性、朝鮮や台湾から連
行された女性が監禁されました。
 海南島では、「慰安所」に監禁する性奴隷制度とは別個に、村落に侵入した日本
軍の将兵による性的暴行、自由剥奪、継続的な性的犯罪がおこなわれました。
 1942年に保亭黎族苗族自治県の山間の村に侵入してきた日本軍は、道路建設
工事労働者あるいは田独鉱山労働者として強制的に集めた村人のうち、少女を
「戦地后勤服務隊」に編入しました。
 「戦地后勤服務隊」にいれられた黎族や苗族の少女たちは、日本軍将兵の性
奴隷にされまし。
 日本軍将兵によって強姦された少女が「戦地后勤服務隊」にいれられたばあ
いもあったといいます。

Ⅴ-①:新盈「慰安所」跡
    :新盈日本軍司令部給水塔跡
    :新盈日本軍望楼跡
 1939年9月、新盈に上陸した日本軍は、高台に司令部を置き、周囲に壕を掘り、
砲台、火薬庫、宿舎、給水塔などを建設し、1940年1月に、「慰安所」をつく
りました。
 そこには、若い朝鮮人女性も「収容」されていたといいます。

Ⅴ-②:北黎「慰安所」跡
    :陵水「慰安所」跡
    :石碌「慰安所」跡
 陵水の慰安所で炊事や洗濯をしていた王亜交さんは、中庭で女性たちが石を
蹴り上げて遊んでいるのを見たといいます。これは、朝鮮のチェギという遊び
で、女性たちは朝鮮人だったと思われます。
 石碌の「慰安所」は、女性の逃亡を防ぐため、日本軍が厳重に警戒していたと
いいます。女性たちは、朝鮮、香港や広州から連れてこられ、多くの女性が
暴行死、病死、餓死したといいます。

Ⅴ-③:朴来順さん(1942年2月 海口で)
    :朴来順さん(1993年8月 保亭で)
    :朴来順さんの墓碑
    :朴来順さんの故郷、慶尚南道咸安
 海口、三亜、石碌、藤橋、陵水などの「慰安所」に収容されていた朝鮮人
女性は70~80人でした。三亜飛行場近くの「つばき荘」には、朝鮮人女性15
人が「収容」されていたといいます。
 朴来順さんは、1942年2月に、日本の軍艦で海南島に連れてこられ、海口
の「慰安所」に入れられ、1943年1月に、三亜紅沙の「慰安所」に移されま
した。
 慶尚南道咸安の朴来順さんが住んでいた家があった場所は、いまは、空き
地になっています。

Ⅴ-④:林亜金さんの故郷
    :原告の当事者目録
    :8人の原告が日本国に要求している謝罪文と謝罪広告
 少女の時、村に侵入してきた日本軍人に性奴隷とされた林亜金さんら8人は、
2001年7月に、日本国に、謝罪と賠償を求める訴訟(「海南島戦時性暴力被害裁判」)をはじめました。

Ⅵ、侵略犯罪に時効はない!

Ⅵ-1:夕日のなかの五百人碑 
    :侵略犯罪に時効はない!
 日本政府は、日本軍と日本企業がいのちを奪った人びとすべての名前、殺害
場所、殺害状況、殺害方法、遺骨のありかを 明らかにし、責任者を処罰し、
謝罪し、賠償せよ!
 侵略犯罪を直接的にひきついでいる日本企業は、歴史的責任をとれ!

Ⅵ-2:海南島女性兵士
 アジア太平洋の民衆にとって,日本の侵略の時代は、反日・抗日闘争の時代
であった。
 その時代は、全世界的規模で、まだ、終わっていない。

■補:日本で、企画展『日本は海南島で何をしたか 侵略・虐殺・掠奪・性奴隷化』
が中止された
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