三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

木本虐殺後80年 4

2006年10月22日 | 木本事件
 はじめて会ったとき、松島繁治さんは、キム チョンミさんに、
   「ふたりのことをちゃんとしてくれる朝鮮人が、かならず、いつか来ると思っ
て待っていた。
    あのころ、わたしは、極楽寺墓地の前の家に住んでいた。部屋の窓から
ふたりの遺体を見たことがある。むしろが、かぶされていた。
    事件の夜は、こわくて家にかくれていた。
    2年半ほどまえの大地震のときには、東京で丁稚奉公をしていた」
と言ったという。
 そのとき松島さんは、キム チョンミさんを極楽寺墓地に案内し、30段ほどの石の
階段にぎっしり積み上げられている1000個ほどの「無縁」の墓石のなかにあったふ
たりの墓石のありかを教えてくれたという。
 松島繁治さんと在日朝鮮人キム チョンミさんとの出会いがなかったら、ふたりの
墓石は、極楽寺の無縁墓地にいつまでも放置されたままだったろう。

 追悼碑を建立する会が結成されると、松島さんは、たいへん喜び、じぶんができ
ることはなんでもやる、と言い、事実調査のために、さまざまなかたちで協力して
くれた。
 あるとき、松島さんは、町の人に、「あんたは朝鮮人か」と言われたという。
 松島繁治さんは、石屋だったが、引退し、家業は息子さんが継いでいた。ふたり
の追悼碑は、その息子さんにつくってもらった。
 1994年5月1日に起工式をおこなった追悼碑は、10月23日に建ちあがった。
 その日松島さんは、家で高齢のため臥せっていたが、ぜひ見たいと言った。
 会員の斎藤日出治さんが松島さんを背負い、キム チョンミさんが後ろから支えて
細い石段をのぼって、追悼碑の前までお連れした。
 11月1日、松島繁治さんが急死した。85歳だった。
 そして、11月20日に、追悼碑除幕。
 木本虐殺の2か月まえ、1925年10月に、李基允さんと相度さんが傷害罪容疑で
不当に裁判にかけられてとき、松島繁治さんは、その裁判を傍聴し、ふたりを見て
いる(判決は、無罪)。松島繁治さんが亡くなり、ふたりの顔を覚えている人がいな
くなった。李基允さんと相度さんの写真は残されていない。

 高木顕明さんの住職差免・擯斥処分が取り消されたのは、1996年4月1日であり、
「高木顕明師顕彰碑」が建てられたのは、1997年9月25日、李基允さんと相度さん
を追悼する碑が建ってから3年後だった。
 わたしたちは、虐殺後68年も経ってからの建立を、あまりにも遅かったと感じて
いたが、“大逆事件”犠牲者の「復権」は、それよりも遅かった。
 
 1946年11月3日、「明治天皇」の誕生日に、ヒロヒトの名で、「日本国憲法」が公布
され、その半年後から施行され、戦犯ヒロヒトが、「日本国」と「日本国民統合」の象
徴となった。
 「大逆罪」は、1947年になくなったが、天皇制は廃絶されていない。
 「日本国憲法」下の護憲運動は、天皇制を維持する運動でもあった。
 「大逆罪」は日本刑法から削除されたが、“大逆事件”の時代は終わっていない。
 “大逆事件”の再審請求は、1967年に最終的に棄却され、現存も、国民国家日本
は、26人を「有罪」としたままである。     (佐藤正人)
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