紀州鉱山で命をおとした朝鮮人労働者にかんしても明らかになっていないことがおおい。石原産業が一九五五年につくった『従業物故者忌辰録』という「会社創業以来の物故者」の名簿がある。
この名簿の「殉職者関係分」の部分に、梁四満氏(一九三八年六月二七日「殉職」)、安謹奉氏(一九四〇年一〇月一七日「殉職」)、崔俊石氏(一九四〇年一二月三一日「殉職」)の名が、「戦歿者関係分」の部分に、趙龍凡氏(一九四二年一一月一六日「戦歿」)、曽春木氏(一九四二年一一月二四日「戦歿」)の名が、「病没関係その他未詳分」の部分に、薜乗金氏(一九三六年五月一五日「病」)、梁煕生氏(一九四〇年六月一日「病没」)、南而福氏(一九四五年五月三日「病没」)の名が記されている。
その他に創氏改名させられていたと思われる「安田徳勲」氏(一九四四年八月六日「殉職」)、「玉川鐘連」氏(一九四二年八月八日「病没」)ら約一〇人の名がある。「紀州鉱山一九四六年報告書」のはじめの部分には、一九四二年以後の紀州鉱山での朝鮮人の「死亡者数」は一〇人と書かれているが、名簿部分に名が記されているのは、「玉川光相」氏(一九四四年三月七日「業務上死亡」)、「海山応龍」氏(一九四五年二月二〇日「病死」)、南而福氏(一九四五年五月三日「病死」)、「金本仁元」氏(一九四五年六月一日「公傷死」)、「金山鍾云」氏(「病死」死亡日記載なし)の五人だけである。このうち、「玉川光相」氏、南而福氏、「金本仁元」氏の名は、『従業物故者忌辰録』にあるが、「海山応龍」氏と「金山鍾云」氏の名はない。「金山鍾云」氏の本籍地は江原道麟蹄郡麒麟面とされている。一九九七年五月に麟蹄郡で聞きとりをしたさい、「金山鍾云」氏は一九四五年春に獄死したという証言を麟蹄邑に住む金石煥氏から聞いた。死因は心臓病とされていたという。「紀州鉱山一九四六年報告書」に「金山鍾云」氏が亡くなった日が記載されていないのはそのためであろう。「海山応龍」氏の本籍地は、江原道平昌郡平昌面とされている。一九九七年八月はじめに平昌郡で「海山応龍」氏のことを尋ね歩いたが、遺族にも知人にも出会うことができなかった。
紀和町和気村の無住の本龍寺に、朝鮮人の遺骨五体がおかれている。
この名簿の「殉職者関係分」の部分に、梁四満氏(一九三八年六月二七日「殉職」)、安謹奉氏(一九四〇年一〇月一七日「殉職」)、崔俊石氏(一九四〇年一二月三一日「殉職」)の名が、「戦歿者関係分」の部分に、趙龍凡氏(一九四二年一一月一六日「戦歿」)、曽春木氏(一九四二年一一月二四日「戦歿」)の名が、「病没関係その他未詳分」の部分に、薜乗金氏(一九三六年五月一五日「病」)、梁煕生氏(一九四〇年六月一日「病没」)、南而福氏(一九四五年五月三日「病没」)の名が記されている。
その他に創氏改名させられていたと思われる「安田徳勲」氏(一九四四年八月六日「殉職」)、「玉川鐘連」氏(一九四二年八月八日「病没」)ら約一〇人の名がある。「紀州鉱山一九四六年報告書」のはじめの部分には、一九四二年以後の紀州鉱山での朝鮮人の「死亡者数」は一〇人と書かれているが、名簿部分に名が記されているのは、「玉川光相」氏(一九四四年三月七日「業務上死亡」)、「海山応龍」氏(一九四五年二月二〇日「病死」)、南而福氏(一九四五年五月三日「病死」)、「金本仁元」氏(一九四五年六月一日「公傷死」)、「金山鍾云」氏(「病死」死亡日記載なし)の五人だけである。このうち、「玉川光相」氏、南而福氏、「金本仁元」氏の名は、『従業物故者忌辰録』にあるが、「海山応龍」氏と「金山鍾云」氏の名はない。「金山鍾云」氏の本籍地は江原道麟蹄郡麒麟面とされている。一九九七年五月に麟蹄郡で聞きとりをしたさい、「金山鍾云」氏は一九四五年春に獄死したという証言を麟蹄邑に住む金石煥氏から聞いた。死因は心臓病とされていたという。「紀州鉱山一九四六年報告書」に「金山鍾云」氏が亡くなった日が記載されていないのはそのためであろう。「海山応龍」氏の本籍地は、江原道平昌郡平昌面とされている。一九九七年八月はじめに平昌郡で「海山応龍」氏のことを尋ね歩いたが、遺族にも知人にも出会うことができなかった。
紀和町和気村の無住の本龍寺に、朝鮮人の遺骨五体がおかれている。
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