三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「正房瀑布処刑場に引き立てられた母さんはおにぎりを私に渡した」

2018年11月06日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/32013.html
「The Hankyoreh」 登録:2018-11-02 23:05 修正:2018-11-03 07:28
■正房瀑布処刑場に引き立てられた母さんはおにぎりを私に渡した
 [済州4・3 椿に尋ねる 2部(4)] 
 正房瀑布、そこにかくされた血の涙 
 4・3で家族が解体されたキム・ポクスンさんの家族史 
 処刑場に連れて行かれた両親がくれたおにぎりを忘れられない 
 兄さんは刑務所で病死…残った家族は散り散りに 
 「今でもその時のことを考えれば涙で枕が濡れる」

【写真】キム・ポクスンさんが済州4・3当時に家族が体験した話を淡々と語っている=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 1949年1月27日。冬にしては暖かい日だった。西帰面事務所付近の収容所に収容されていたがどこかに引き立てられていく父さん(キム・イス)と母さん(パク・スニョ)を、ポクスン(当時12歳)とポンナム(当時8歳)は泣きながら追いかけて行った。両親の手には冷たい握り飯があった。軍人は大声で泣く弟がうるさいと言って銃の台尻で殴った。左目から血があふれた。ポクスンは血を流す弟を抱きかかえ悲しく泣いた。弟はその後まもなくその後遺症で失明した。

■済州4・3当時の正房瀑布周辺は泣き声に包まれた
 「父さんが『どうせ死ぬだけなのに私たちがこれを食べて何になる』と言ってポンナムにおにぎりを渡した。私は母さんにしがみついて『私も一緒に行く。母さんが死ぬなら一緒に死のう』とついていこうとした。母さんは『お前たちは大丈夫だから、私の言うことを聞きなさい』と言って、私におにぎりをくれた。それが最後だった」

 キム・ポクスンさん(82・西帰浦市(ソギポシ)西ホン洞)は、69年前の両親の最後の姿を生々しく覚えていた。「たまにその道を通れば、おにぎりを握らせて正房(チョンバン)瀑布の方に連れて行かれた二人の姿が昨日のことのように思い出される」

 父さんは、着ていたミニョン(「木綿」の済州方言)のトゥルマギ(韓国式外套)をたたんで娘に渡した。「どこかでモンペでも作ってもらってお前が着ろ」。キムさんは「母さんが貧しい暮らしの中で初めて父さんに作ってあげたトゥルマギだったが、それを死にに行った父さんが私にくれた」と話した。

【写真】正房瀑布の上にある建物が、済州4・3当時デンプン工場があった所だ。今は徐福展示館になっている=『写真で見る済州歴史』より//ハンギョレ新聞社

 この日、収容されていた住民たちは正房瀑布の方に引き立てられていった。当時、西帰面事務所には大隊本部(2連隊1大隊)が設置され、現在は徐福展示館になっているデンプン工場が収容所として使われていた。瀑布一帯の海岸は、1948年11月から翌年1月まで、常時銃殺刑が執行された処刑場だった。済州4・3第50周年学術・文化事業推進委員会が出した『失われた村を探して』(1998)を見れば、キム氏一家が暮らしていた東広里(トングァンリ)の住民のうち、正房瀑布付近で銃殺された人は45人に達する。

■夜中に人目を避けて山中に逃げたが討伐隊に見つかる
 キムさんの両親は、全羅南道霊厳(ヨンアム)の出身だった。キムさんが3歳だった1940年、済州島に移ってきた。同じ年に弟が生まれた。父さんは済州で工事現場の監督をしていたが、事故に遭って杖をつかなければならなかった。4・3当時、キムさんの家族は、中山間の奥地である安徳面(アンドクミョン)東広里 のチョスグェで暮らしていた。4・3当時、討伐隊が火を放ってなくなったムドゥンイワッの近所の集落で、10世帯ほどが集まって暮らしていた。4人の兄弟姉妹をもつキムさん一家は、食事にも事欠くほど貧しかった。両親は4歳上の姉(キム・ポクレ)を早くから済州市の翰林(ハンリム)に養子に出した。姉の上に兄(キム・ポギョン・当時17)がいたが、4・3の時に捕らえられて光州(クァンジュ)刑務所に収監され病気で死んだ。

【写真】2015年4月11日、霊媒師のソ・スンシル氏が執典し、西帰浦市の徐福展示館内で開かれた正房瀑布解寃相生神事。祭壇には犠牲者246人の氏名が記されている=済州4・3研究所提供//ハンギョレ新聞社

 1948年11月中旬、討伐隊の疎開令に続いて村が焼かれると、済州島に縁故のなかったキムさん一家は、村の住民たちについて自然洞窟の東広里“クンノプクェ”に避難した。兄さんはすでに友達がいるムドゥンイワッに行っていたので、家族4人だけで行った。キムさんは「洞窟にいて夜になれば母さんと一緒に這い出して、焼けた家に戻り火を焚いてご飯を作って食べたり、麦飯を炊いてカゴに入れて持ってきたりもした」と話した。

 しばらく洞窟で生活したキムさん一家は、荷物をまとめてさらに深い山中に入った。洞窟が見つかって、まもなく討伐隊が押しかけてくるという噂が広がったからだ。真夜中に洞窟を出た住民たちは、大人の膝まで雪が積もった山道を突っ切り海抜1300メートルを超える漢拏山(ハルラサン)霊室(ヨンシル)付近のポルレオルム地域に向かった。

 「討伐隊が来るというので住民たちについて(山に)上がった。一日でも長く生きてみようとそうしたのだろう。杖をついた父さんを母さんが助け、私たちは深い雪の中を両親の後をついていった」

 住民たちは夜どおし雪道を歩いて、漢拏山に深々と入ったが、半日も経たずに後ろから追ってきた討伐隊に捕まった。「寒くて疲れて、ふとんをかぶっていても“パンパン”と銃声が聞こえた。明るい太陽がのぼった朝だった。中文(チュンムン)まで連れて来られたが、前後に立った銃を持つ軍人たちは力が強く、遅れる人がいればむやみに殴った」

 洞窟に隠れている時、年配の夫婦が出産した赤ん坊を放置して来る場面も目撃した。「明け方、ふとんの中から見ていると、一人のおばさんがむしろを持って外に出て行き、しばらくすると服にうすく血を付けて入ってきた。人々が「子供を産んで来たんだな」とコソコソ言うのを聞いた。その夫婦に対して誰も何も言わなかった」

【写真】キム・ポクスンさんの子どもたちが、母親の傘寿をむかえて「誇らしいお母さん賞」というタイトルで母親に感謝の気持ちを伝えた=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社


※「はっきりと見た。正房瀑布に広がった死体を」
 中文に連れて行かれた住民たちは、再び西帰面事務所近隣の収容所に移された。収容所は正房瀑布の入り口にあった。1996年、済州道議会の『済州4・3被害報告書』に出てきたキムさんの弟(故人)の証言は具体的だ。
 「中文で一晩寝たが、大人たちを呼び出して、頭が割れて血だらけになるほど半死半生の目にあわせた。(西帰浦に)行っても、大人たちを一人ずつ呼んではむやみに殴った。そこで3日目になった時に彼らが言ったのは、子どもたちを生かしたい者は手を上げろ、だった。父さんが手を上げ、それを見た人が半分以上手を上げた。死ぬなら皆一緒に死のうという人も多かった。この日の朝、最後の握り飯を持った子どもたちと大人86人を正房瀑布のそばに立たせて…私ははっきり見た。死体は正房瀑布に大量に並べられていた」(キム・ポンナムの証言)。
 キムさんも両親の死を少し離れた場所で目撃した。「収容所として使う倉庫の外に出てくると、暖かくて気持ち良いが人々がやがや言う声がした。一人のおばさんが「オイ、あっちの日が昇る方を見な。あんたの父さんも母さんも皆殺されている。全員を立たせておいて銃で撃って」と言った。その時は、木々も大きくなく家もなくて、全部そっくり見えた。“パンパン”という銃声が聞こえ、人々が倒れると、母さん、父さんが死んでいるという思いで泣くばかりだった」
 キムさんは両親の死体を探すこともできなかった。弟と生きていく将来がもっと大きな問題だった。収容所で1カ月ほど生活して、弟は江汀マウル(村)で、キムさんは西帰浦で住み込みをしたが、翰林に養子に行かされた。キムさんは、西帰浦で暮らしている時、天地淵(チョンジヨン)に洗濯しに行った時に石を運ぶ兄に会ったが、周辺に人々がいて話もまともにできなずにすれ違ってしまったことが今でも心残りだ。住み込みをしながら「暴徒のガキ」という悪口を言われていたので、兄を見ても声をかける勇気が出なかったのだ。その後、兄が光州刑務所で刑期を終える頃に赤痢に罹って亡くなったという話を、兄の友達から伝え聞いた。

【写真】アパートの窓から見下ろすキム・ポクスンさん=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

■離散家族探しで劇的な対面をした兄弟姉妹
 1952年、島を出た姉さんを探すため、やみくもに釜山行の船に乗った。15歳の時だった。その後、全国をさまよい暮らし、25歳頃に故郷に帰って妹に会った。三兄妹は、1980年代初めに放送局の離散家族探し放送を通じて30年ぶりに劇的に再会したが、今は皆故人になって自分一人が残った。
 キムさんは2015年4月11日、済州民芸総(民族芸術人総連合)が当時の銃殺現場である徐福展示館で行なった4・3解寃相生神事に行って悲しみをこらえられずに号泣した。「ここが母さん、父さんが亡くなったところ。あっちが両親が私たちにおにぎりをくれたところ、記憶が頭を駆け巡った」と話した。
 「今でも夜には両親を思い、涙が出る。枕がぐっしょり濡れる時もある。でも歳を取って当時の記憶がだんだん薄れてきた」。キムさんがアパートの窓から70年前に家族と一緒に討伐隊に引き立てられて降りてきた所を指さした。

ホ・ホジュン記者
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/868609.html
韓国語原文入力:2018-11-02 18:08
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