三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

妙法鉱山について

2009年10月05日 | 紀州鉱山
■以下は、紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』6号(2009年8月25日発行)に掲載された報告です。


妙法鉱山について
                﨑久保 雅和

 和歌山県那智勝浦町から熊野川、そして三重県紀和町にかけて南北に広がる地帯は、鉱脈のはしる地質になっているらしいです。
 那智勝浦町にある妙法山一帯には、古くから大小さまざまに、いくつもの鉱山がありました。
 1935年に三重県紀和町の紀州鉱山の操業を開始した石原産業は、1936年、この妙法山一帯の鉱山のひとつであった和加鉱区を買収したのを皮切りに、近接する円満地鉱山、小阪鉱山を買収し、これらを妙法鉱山として統合し、開発を進めました。
 1948年には、平野鉱山、那智鉱山と中央選鉱場も買収し、妙法山一帯の鉱山は、ほぼ石原産業の所有となりました。
 紀州鉱山のみならず、この地域で石原産業が経営した他の鉱山についても調査をするため、妙法鉱山に行って来ました。

 和加鉱区、円満地鉱山があったのは、那智勝浦町の色川地区でした。昔は色川村と言いましたが、あたりの山を掘ったために、この周辺の川は、山から出る水で色がついてしまっていたので、色川という地名になったそうです。地元の人たちのあいだでは、川で泳いではいけないと言われていたそうです。
 円満地公園の近くに鉱山の跡があるという話を聞き、公園の裏の山を探してみると、やはり坑口の跡がありました。
 今は土に埋もれ、坑口の上部が見えているだけでした。そこは小さな谷でしたが、排水用と思われる溝が熊瀬川に流れ込む形に整備されていました。しかし、ここが石原産業が経営した鉱山の跡であるとは確認できませんでした。
 次に、中央選鉱場の跡を見てきました。この中央選鉱場は、帝国鉱発が軍部の要請を受け、那智に建設したのですが、すぐに焼失し、後に石原産業が整備拡張したものです。それは那智川の支流、金山谷川に沿って登って行ったところの山の中腹にありました。山肌の傾斜を利用して建てられた構造になっていて、今ではコンクリート製のアーチ状の骨組みや土台、積み出し用の施設の一部が残っているのみです。
 紀州鉱山と比べると、大きさは半分以下と思われます。この周辺には、鉱石溜もあり、谷を埋め尽くすほどの鉱石が野ざらしになっていました。この谷の下の方には、浄水場のような施設があり、そこだけは運転されているようでした。現在の所有者は、1953年に石原産業が売却したことにより、三菱マテリアルになっていました。
 
 この選鉱場があった西山地区で、偶然、畑仕事に来ていた元鉱山従業員のおじいさんに、話を聞かせてもらうことができました。おじいさんは、畑仕事の手を休めて、近くを案内してくれました。
   「あそこらには社宅があって、あそこの松の木のあたりに共同の風呂場があった。購買が向こうにあった」。

 指差す方には、今では数軒の家と、杉や桧が生えるばかりで、とても当時の面影を見ることはできませんでした。
 このおじいさんは、1925年生まれで、15歳のときから、鉱山で働き始めたそうです。
   「坑道が小阪の方に伸びていて、途中に立坑があった。
   坑道には、トロッコが走っていた。
   昔は、このあたりに田んぼもあったが、山を掘ったため、地下水の流れが変わり、水が出なくなって、田んぼもなくなった。
   今も鉱山から出る水は中和処理をしている。石灰を溶かした水を混ぜている」、
   「戦争に行く前に働いていたのは、石原産業ではなくて昭和鉱業だったかな。そのとき朝鮮人が働いていた。
   ツチタニという朝鮮飯場の頭がいた。この人も朝鮮人。
   朝鮮飯場は山神社(サンジン)の上の広場にあった。
   朝鮮人で働いていたのは、自分よりもっと大人だった。
   言葉も日本語で、同じ仕事をしていた」
と話していました。
 ここで働いていた人は、肺が悪くなってしまい、もう5人ぐらいしかいないそうです。話を聞かせていただけたことは、とても偶然なことでした。
 おじいさんの話では、朝鮮人が働いていたのは、昭和鉱業ということでしたが、「朝鮮人飯場」のあった場所からすると、那智鉱山で働いていたようにも思われ、そのときの那智鉱山の所有者は藤田組となっています。いずれにせよ、妙法山一帯の鉱山でも、朝鮮人が働いていたことがわかりました。
 『戦時朝鮮人強制労働調査資料集 ―連行先一覧・全国地図・死亡者名簿―』(竹内康人編著)によると、1940年12月、円満地鉱山において、大内炳南(日本名)さんが41歳で、労災のため亡くなっていることが、明らかになっています。まだ、わかっていない事実が多くあると思います。
  (今年、紀勢線開通50周年とのことですが、紀勢線の工事でも朝鮮人が働いていました)。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 薬師炭鉱跡での聞き取り調査 | トップ | 海南島の特攻艇基地跡 1 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

紀州鉱山」カテゴリの最新記事