陽暦元旦の海南島三亜のようすは、とくにほかの日と変わっていません。黎族にとっても回族にとっても、苗族にとっても、漢族にとっても、とくに陽暦元旦に、とくべつな意味はないようです。
2006年12月31日と2007年1月1日に、わたしたちは、妙山村を訪ね、黎金龍さん(1922年生)に日本占領期のことを聞かせてもらいました。妙山村は、わたしたちが、昨年4月と5月に訪ねた六郷村の隣り村です。妙山村も六郷村も三亜市河東区妙林郷に属しており、六郷村は黎族の村、妙山村は漢族の村です。六郷村の名は、海南島に侵入した日本人の「移民村」として、防衛図書館にある海南島侵略日本軍関係文書などにでています。
妙山村の入り口から70メートルほど南に、この地でたたかった抗日戦士の追悼碑が建っていました(1984年建立)。
84歳の黎金龍さんは、しっかりした口調で話してくれ、複雑な内容をわたしたちが聞きあぐねていると、勢いのある文字を書いて示してくれました。
黎金龍さんの家は、村の入り口にある樹齢300年ほどの酸豆樹のそばにあり、そこから200メートル離れたところに、むかし井戸があったそうです。
三亜からきた日本軍が、そこで、村の青年24人の首を竹で締めつけ動けないようにして、日本刀で殺すのを、黎金龍さんは見たといいます。当時、村人は400人ほどでしたが、日本軍は、村人をむりやりその殺害現場に集めたのだそうです。
日本兵は、ひとり殺すと井戸に投げ込み、またひとり殺すと井戸に投げ込み、虐殺を繰りかえしました。遺骸は、のちに遺族がひそかに井戸を掘り返して、それぞれの墓地に埋めました。
24人の青年は、日本軍に反抗したという理由で虐殺されたが、それが具体的にどのようなことであったのかは、黎金龍さんにはわからなかったそうです。
その井戸跡に、黎金龍さんに案内してもらいました。いまは、まわりに家が建っていますが、当時は林だったといいます。その井戸を使えなくしてしまったので、新しく日本軍が村人に掘らせた井戸が近くにあって、いまも使われていました。
殺された青年のなかには、結婚して子どもがいた人もいたといいます。
黎金龍さん自身も、日本軍と出会うのを嫌って、何人かの村人といっしょに山の中に逃げたが、つかまり、頭を銃でなぐられ血を流したことがあったそうです。
1995年8月に発行された中国人民政治協商会議三亜市委員会編『日軍侵崖暴行実録』(紀念中国人民抗日戦争勝利50周年『三亜文史』5)に、陳錫礼氏が書いた「妙山村大実録」が掲載されています。その内容と、黎金龍さんの証言とを合わせ、さらにおおくの村人に話を聞かせてもらい、妙山村虐殺の事実を明らかにしていきたいと思います。 紀州鉱山の真実を明らかにする会 佐藤正人
2006年12月31日と2007年1月1日に、わたしたちは、妙山村を訪ね、黎金龍さん(1922年生)に日本占領期のことを聞かせてもらいました。妙山村は、わたしたちが、昨年4月と5月に訪ねた六郷村の隣り村です。妙山村も六郷村も三亜市河東区妙林郷に属しており、六郷村は黎族の村、妙山村は漢族の村です。六郷村の名は、海南島に侵入した日本人の「移民村」として、防衛図書館にある海南島侵略日本軍関係文書などにでています。
妙山村の入り口から70メートルほど南に、この地でたたかった抗日戦士の追悼碑が建っていました(1984年建立)。
84歳の黎金龍さんは、しっかりした口調で話してくれ、複雑な内容をわたしたちが聞きあぐねていると、勢いのある文字を書いて示してくれました。
黎金龍さんの家は、村の入り口にある樹齢300年ほどの酸豆樹のそばにあり、そこから200メートル離れたところに、むかし井戸があったそうです。
三亜からきた日本軍が、そこで、村の青年24人の首を竹で締めつけ動けないようにして、日本刀で殺すのを、黎金龍さんは見たといいます。当時、村人は400人ほどでしたが、日本軍は、村人をむりやりその殺害現場に集めたのだそうです。
日本兵は、ひとり殺すと井戸に投げ込み、またひとり殺すと井戸に投げ込み、虐殺を繰りかえしました。遺骸は、のちに遺族がひそかに井戸を掘り返して、それぞれの墓地に埋めました。
24人の青年は、日本軍に反抗したという理由で虐殺されたが、それが具体的にどのようなことであったのかは、黎金龍さんにはわからなかったそうです。
その井戸跡に、黎金龍さんに案内してもらいました。いまは、まわりに家が建っていますが、当時は林だったといいます。その井戸を使えなくしてしまったので、新しく日本軍が村人に掘らせた井戸が近くにあって、いまも使われていました。
殺された青年のなかには、結婚して子どもがいた人もいたといいます。
黎金龍さん自身も、日本軍と出会うのを嫌って、何人かの村人といっしょに山の中に逃げたが、つかまり、頭を銃でなぐられ血を流したことがあったそうです。
1995年8月に発行された中国人民政治協商会議三亜市委員会編『日軍侵崖暴行実録』(紀念中国人民抗日戦争勝利50周年『三亜文史』5)に、陳錫礼氏が書いた「妙山村大実録」が掲載されています。その内容と、黎金龍さんの証言とを合わせ、さらにおおくの村人に話を聞かせてもらい、妙山村虐殺の事実を明らかにしていきたいと思います。 紀州鉱山の真実を明らかにする会 佐藤正人