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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島2007年1月1日

2007年01月01日 | 海南島
 陽暦元旦の海南島三亜のようすは、とくにほかの日と変わっていません。黎族にとっても回族にとっても、苗族にとっても、漢族にとっても、とくに陽暦元旦に、とくべつな意味はないようです。

 2006年12月31日と2007年1月1日に、わたしたちは、妙山村を訪ね、黎金龍さん(1922年生)に日本占領期のことを聞かせてもらいました。妙山村は、わたしたちが、昨年4月と5月に訪ねた六郷村の隣り村です。妙山村も六郷村も三亜市河東区妙林郷に属しており、六郷村は黎族の村、妙山村は漢族の村です。六郷村の名は、海南島に侵入した日本人の「移民村」として、防衛図書館にある海南島侵略日本軍関係文書などにでています。

 妙山村の入り口から70メートルほど南に、この地でたたかった抗日戦士の追悼碑が建っていました(1984年建立)。
 84歳の黎金龍さんは、しっかりした口調で話してくれ、複雑な内容をわたしたちが聞きあぐねていると、勢いのある文字を書いて示してくれました。
 黎金龍さんの家は、村の入り口にある樹齢300年ほどの酸豆樹のそばにあり、そこから200メートル離れたところに、むかし井戸があったそうです。
 三亜からきた日本軍が、そこで、村の青年24人の首を竹で締めつけ動けないようにして、日本刀で殺すのを、黎金龍さんは見たといいます。当時、村人は400人ほどでしたが、日本軍は、村人をむりやりその殺害現場に集めたのだそうです。
 日本兵は、ひとり殺すと井戸に投げ込み、またひとり殺すと井戸に投げ込み、虐殺を繰りかえしました。遺骸は、のちに遺族がひそかに井戸を掘り返して、それぞれの墓地に埋めました。
 24人の青年は、日本軍に反抗したという理由で虐殺されたが、それが具体的にどのようなことであったのかは、黎金龍さんにはわからなかったそうです。
 その井戸跡に、黎金龍さんに案内してもらいました。いまは、まわりに家が建っていますが、当時は林だったといいます。その井戸を使えなくしてしまったので、新しく日本軍が村人に掘らせた井戸が近くにあって、いまも使われていました。
 殺された青年のなかには、結婚して子どもがいた人もいたといいます。
 黎金龍さん自身も、日本軍と出会うのを嫌って、何人かの村人といっしょに山の中に逃げたが、つかまり、頭を銃でなぐられ血を流したことがあったそうです。
1995年8月に発行された中国人民政治協商会議三亜市委員会編『日軍侵崖暴行実録』(紀念中国人民抗日戦争勝利50周年『三亜文史』5)に、陳錫礼氏が書いた「妙山村大実録」が掲載されています。その内容と、黎金龍さんの証言とを合わせ、さらにおおくの村人に話を聞かせてもらい、妙山村虐殺の事実を明らかにしていきたいと思います。        紀州鉱山の真実を明らかにする会 佐藤正人
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1 コメント

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ごくろうさま (小谷英治)
2007-01-02 01:15:14
このような報告があると、聞き取りの状況がよくわかっていいですね。
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