三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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妙山村で

2007年01月02日 | 海南島
 きょうも妙山村を訪ねました。張球華さん(1932年生)から話を聞かせてもらうことができました。
 日本軍が三亜飛行場をつくるとき、少年だったにもかかわらず働かされた張球華さんは、つぎのように話しました。
   「労働者に水をくばってまわる仕事などをさせられた。報酬はなく、わずかな食べ物だけをもらった。日本軍に協力する者がいて、飛行場で働く村人を集めた。
   労働者のなかに朝鮮人がいた。その人たちは囚人だと、おとなから聞いたことがある。
   蒋介石軍かアメリカ軍の飛行機がきて、飛行場に爆弾を落とし、自分は助かったが、いっしょに働かされていた子どもが何人も死んだ。
   日本兵は、わたしの仕事が遅いといって足を棒でなぐった」。

 張球華さんの両足のももには、その傷跡が、まだ残っていました。張球華さんが見たという朝鮮人は、「朝鮮報国隊」の人たちだと思われます。
 日本軍が24人の青年の首を日本刀で切り落とし、首と身体を井戸になげこんだのを、張球華さんも目撃したが、怖かったので近づけなかったそうです。子どもだったので理由はよくわからなかったが、見せしめだ、と思ったといいます。
 わたしたちが村のなかでわたしたちが話を聞かせてもらっていると、子どもたちがまわりにたくさん集まってきて、熱心に聞いています。ときどき、質問をする子どももいます。
 このようにして、村の歴史が伝えられていくのだなあ、と思いました。

 国民国家日本の侵略犯罪のおおくが、まだ隠されたままです。海南島での聞きとりも急がなければならないと、痛感します。妙山村でも、村のことをよく知っているひとが去年亡くなったそうです。きょうも、80歳代や90歳代の村人を何人か訪ねましたが、記憶があいまいになっているとのことで、話を聞かせてもらうことができませんでした。
 ひとつの村での日本軍の犯罪を知るためには、その村に何度も通い、わたしたちの立場と目的をはっきりさせ、村人との信頼関係をすこしでも強くしていかなければなりません。
 村の一隅で、子どもたちをふくむ多くの村人に囲まれながら、聞きとりをさせてもらっているとき、自分たちの歴史的ありかたを、村人に見つめられているように感じます。                            佐藤正人
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1 コメント

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Unknown (小谷英治)
2007-01-03 01:55:57
今日の証言は『朝鮮報国隊』で使えそうですね。
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